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アニメと考察とジブリに関するskypenguinsのブックマーク (2)

  • スタジオジブリ場面写真無償提供の「常識の範囲でご自由にお使いください」の真意を考察。SNS使用は範囲内なのか - QJWeb クイック・ジャパン ウェブ

    このニュースを聞いて、ジブリ論を集めたある人文書が、ジブリ作品の図版を引用していたことを思い出した。後述する理由で、商業出版でアニメの図版を引用のかたちで掲載する例は多くない。しかもこのは、映像をキャプチャしたのではなく「フィルムコミック(映画の場面写真を構成してマンガのかたちにした)」からの引用というかたちをとっていた。それも、印象に残った理由だった。どうしてフィルムコミックからの引用という迂遠な方法がとられていたのか。 アニメの場面写真を正当に(ここはとても大事なポイントだ)利用しようとした場合、どのような問題と可能性があるのか。それは、この「オフィシャル場面写真」と「フィルムコミックからの引用」という両極端の話題を考えることから見えてくると思う。 そもそも、スタジオジブリの場面写真無償提供が非常に驚きを持って迎えられたのは、アニメ業界は場面写真を厳しく管理しているからだ。これはも

    スタジオジブリ場面写真無償提供の「常識の範囲でご自由にお使いください」の真意を考察。SNS使用は範囲内なのか - QJWeb クイック・ジャパン ウェブ
  • ジジはなぜ言葉を失ったままなのか―『魔女の宅急便』(宮崎駿) - Devil's Own

    Kiki's Delivery Service/1989/JP 『魔女の宅急便』について書きたいと、かれこれ3年くらい思い続けていました。宮崎駿の監督作の中でも屈指の人気作だから、特別な思い入れを持つ人も多いとおもう。私なんかよりもずっと多くの回数を繰り返し見ている人だっているだろう。私がこの作品について深く考える直接のきっかけとなったのは宗教学者、島田裕巳の『映画は父を殺すためにある―通過儀礼という見方』を読んだことだ。『ローマの休日』や『スタンド・バイ・ミー』などの名作を「通過儀礼」という視点から分析することで、テーマやメッセージをつまびらかにする論評集で、映画(特にアメリカ映画)を読み解く格好のテキストになっている。そののなかに『魔女の宅急便』を扱った章がある。タイトルは「『魔女の宅急便』のジジはなぜ言葉を失ったままなのか?」。ここで島田は『魔女の宅急便』、ひいてはジブリ作品全般に

    ジジはなぜ言葉を失ったままなのか―『魔女の宅急便』(宮崎駿) - Devil's Own
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