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あとで読むと哲学に関するsunagiのブックマーク (2)

  • スマートフォンと哲学が出会うとき●ソーシャルメディア時代の基礎情報学(1)―今なぜ「基礎情報学」なのか | AdverTimes.(アドタイ) by 宣伝会議

    東京大学大学院情報学環教授 西垣通 明治以降、日の知識人たちは西欧の知識を科学技術と哲学に分けて受容してきた。それにより効率よく科学技術を取り入れることはできたが、情報技術を扱ううえで欠かせない実践的な思考の技法としての哲学を欠いたまま、21世紀を迎えてしまった。 今日、マンガ・アニメ・ゲームなどが世界中で人気を博す一方で、技術力をもちながら、デバイスやネットワーク・サービスの分野で日企業が欧米企業の後追いに終始するのは、文系と理系の融合した領域にある情報哲学的思考が不足しているためではないか。両者の垣根を越えた「基礎情報学」は、いまの日が直面する思考の行き詰まりに風穴を開けるものとなるはずだ。 ネット社会への転機? 「情報社会」とか「ネット社会」とかいう言葉は、もはや常套句である。だが、当に現代がそういう社会なのかと改めて問い返すと、事はそれほど単純ではない。 ネットの中には興味

    スマートフォンと哲学が出会うとき●ソーシャルメディア時代の基礎情報学(1)―今なぜ「基礎情報学」なのか | AdverTimes.(アドタイ) by 宣伝会議
  • インターネットについて - 哲学的考察 - 雑記帳

    身体性という言葉を見かけたので、それに言及したについて2003年7月26日に作成した読書録をリサイクル。再読する余裕が今はないので、とりあえずそのままのかたちで残しておく。今読んだら感想もだいぶ変わるのだろうな……。 序論 ドレイファスのこのでの一貫した見方は、「身体性」という言葉に要約できる。 私は哲学者なので、インターネットの具体的な使用法の良し悪しを論じる立場にはない。私の問いはもっと思弁的な、次のような問いである。もしネットがわれわれの生活の中心となったとしたら、つまり、ハーバード大学ケネディ・スクール学長のジョセフ・ナイが「魅力的な新たな文化」と呼ぶものが実現するとしたら、どうなるのだろうか。生活のかなりの部分をサイバースペースで送るようになるにつれて、われわれは、人間を超えることになるのだろうか、それとも人間以下になるのだろうか。 これらの問いを考える際、次のような可能性が

    インターネットについて - 哲学的考察 - 雑記帳
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