江戸時代以降の災害の教訓を将来に伝えるため、政府の中央防災会議の専門調査会がまとめた報告書を、内閣府がホームページから削除していることがわかった。一部に関東大震災時の「朝鮮人虐殺」についての記述が含まれており、担当者は「内容的に批判の声が多く、掲載から7年も経つので載せない決定をした」と説明してい…
江戸時代以降の災害の教訓を将来に伝えるため、政府の中央防災会議の専門調査会がまとめた報告書を、内閣府がホームページから削除していることがわかった。一部に関東大震災時の「朝鮮人虐殺」についての記述が含まれており、担当者は「内容的に批判の声が多く、掲載から7年も経つので載せない決定をした」と説明してい…
土佐藩の改革を推し進めた藩士吉田東洋(1862年暗殺)が、54年12月の安政地震を体験した様子をつづった漢詩など新史料10点が、高知県南国市の県立歴史民俗資料館の保管史料の中から見つかった。野本亮学芸課長は「大津波が訪れる前の描写が非常に細かく、地震学的な面からも参考になるところが多いのでは」と分析。同館で29日から公開されている。 新たに見つかったのは漢詩2点と教本2点、直筆の手紙6点の計10点。昨年、企画展の準備のため、過去に寄贈されていた史料を再調査する中で発見されたという。 安政地震の直後に書いたとみられる「大震行」(縦125センチ、横55センチ)と題された漢詩には、「海底は墨をひっくり返したように濁る」「干満の動きは急である」など津波前の様子を記したとみられる部分や、「圧死者と焼死者が丘のように積み重なっている」などの趣旨が記され、太平洋に面した高知市長浜で体験した被害の状況を生
シルバー人材センターの玄関ロビーに保存展示されている麦島城の石垣=熊本県八代市 写真を見る 熊本地震で石垣の一部が崩れた八代城跡=熊本県八代市 写真を見る 麦島城跡で出土した柱や垂木などの建築部材=2002年、熊本県八代市 写真を見る 写真を見る 写真を見る 城の石垣は幅10メートルにわたって崩れ、ブルーシートで覆われていた。熊本県八代市の八代城跡。江戸時代に築かれた南九州の防衛拠点を、4月にマグニチュード(M)6・5とM7・3の熊本地震が襲った。 震災から2カ月が過ぎたが、崩れ落ちた築石(つきいし)はそのまま。市役所本庁舎も倒壊の危険があるため、閉鎖が続く。石垣の修復にはまだ長い時間がかかりそうだ。 震災前は地震が少ない地域と思われてきた熊本。だが、「歴史をひもとくと、たびたび大地震が起きていた」と八代市立博物館の鳥津亮二学芸係長(39)は話す。 八代城跡から南へ約1キロ、市シルバ
さまざまな古文書に、日本列島が震えてきた歴史が克明に刻まれている。地震が時の為政者の運命を左右することもあった(撮影/写真部・大野洋介) 今回の地震について、気象庁は「前例がない」と言った。だが、古文書をひもとけば、今の日本の状況とあまりにも似ている時代があった。我々は歴史に学ぶ必要がある。歴史学者・磯田道史さんに話を聞いた。 * * * 今回の一連の地震で、震源が熊本から阿蘇、大分と北東方向に100キロを超えて広がっていっていることについて、気象庁は「前例がない」としていますが、果たしてそうでしょうか。確かに気象庁が観測を始めた1875年以降では前例はないでしょう。しかし、500年、千年という長いスパンで災害の歴史を研究してきた私の立場から見ると、前例なしとは言えない。それどころか江戸時代初期の17世紀前半とかなり状況が似ていると考えています。 順を追って説明しましょう。まず1611年に
静岡県から三重県の南方沖では、東海沖の巨大地震がおよそ100年間隔で起きてきた。昭和東南海地震(1944年)、安政東海地震(1854年)、宝永地震(1707年)などはその例だ。一方、和歌山県から四国の南方沖では、南海沖の巨大地震が、やはりおよそ100年間隔で起きてきた。昭和南海地震、安政南海地震、宝永地震などである。 これらの東海地震と南海地震は、短時間の間隔で引き続き起きる傾向が知られている。例えば昭和南海は昭和東南海の約2年後、安政南海は安政東海の翌日に起きた。宝永地震は東海と南海が同時に起きたと考えられる。このように南海地震は東海地震とペアをなして起きることが多い。 ところが史上最大の東海地震と考えられる室町時代の明応7(1498)年の明応東海地震には、ペアをなすべき南海地震は起きていないと考えられてきた。明応南海地震と津波の記録はないとされてきたのだ。これは正しいだろうか。
ネパールの大地震が余震もあってたいへんな様子である。 先日、「小学校でプレートテクトニクスを教えよう。ーネパールの地震のこと」という記事を書いた。これはネパールの地震の発生機構が、インドプレートが毎年5/6センチ北上してユーラシアプレートに衝突していることを原動力とするものである以上、日本で地震が発生する条件にとっても他人事ではないというのを書いた。 インド亜大陸、ネパールと日本は無縁の場ではないということをもっともっと考えなければならないと思う。それがグローバルということの実態のはずである。 グローバルというと、すぐに軍事的な事柄を考えるのはやはり無知の象徴だろう。しかし、それが社会からしみ出してくるように了解されるためには、文化全体の説得力をグローバルなものにまで高めるのが必要である。 そこでもう一つ思うのは、仏典に頻出する地震の原点は、釈迦の誕生したシャカ国が現在のインドとネパールの
技監兼復興局副局長を最後に3月末で県職員を退職した小野寺徳雄さん(60)=北上市大通り=は、1923(大正12)年に発生した関東大震災の復興事業のうち東京都内の隅田川に架かる名橋群や周辺の施設を訪ね、調査報告書をまとめた。奥州市出身の後藤新平が指揮した一連の復興まちづくり。「東日本大震災からの復興のヒントになれば」と先人と被災地とをつなぐ。 小野寺さんが現地を訪れたのは2月。報告書には、震災復興六大橋と呼ばれる永代(えいたい)橋や清洲(きよす)橋など11の橋や避難所機能を備える隅田公園などについて写真入りで紹介し、帝都復興計画を手掛けた後藤新平の足跡をたどっている。 橋は建設から約90年が経過したが「それぞれに威厳があり、遺産だ。東日本大震災からの復興も、100年先の時代の変化に負けない風格を兼ね備えたものでありたい」と感じたという。 県職員として最後の4年は復興を軌道に乗せようと尽力した
お知らせ いつもご利用いただき、誠にありがとうございます。 この度、河北新報オンラインニュースは、ウェブサイトをより使いやすく快適にご利用いただけるようにリニューアルし2020年12月14日に新しいURLにして、企業サイトも新設しました。 今後も更にわかりやすく最新の情報を掲載するンラインニュースサイトを目指しますので、どうぞよろしくお願い致します。
2014.09.08 【災害記録帳】「島原大変肥後迷惑」 火山、地震、土砂災害、津波が重なったまさかの災害 カテゴリ:災害記録帳 防災週間過去の災害記事第8回(そろそろ最終回にしなければいけませんね)は「島原大変肥後迷惑」を。 「島原大変肥後迷惑」はユニークな名称とは裏腹の日本最大の火山災害だ。 この災害は火山災害でありながらも、地震、土砂災害、津波と多くの要素が重なった最悪の災害となる。おりしも島原藩は藩主松倉重政の悪政や寛永14年(1637年)の島原の乱で領内が荒廃、ようやく復興を遂げた矢先に訪れた災難だった。そしてまさかの甚大な被害を被った対岸の肥後にとっては、想定外の大災害であった。 普賢岳噴火と四月朔地震 島原半島の中央にそびえる雲仙岳では寛政3年(1791年)秋頃から地震が頻発、火山活動が始まっていた。翌寛政4年(1792年)正月18日には普賢岳が噴火し、2月には溶岩流の噴出も
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato 津波対策として大々的に「防潮林」がクローズアップされたのは、昭和8年の三陸津波直後からであるように思われる。政府は昭和8年度内に津波災害予防調査費として2万円を計上、その内、1万円を防潮林造成調査費に充てている。調査関係者には本多静六(林学)・今村明恒(理学)らがいた。 2014-06-10 23:28:16 佐藤賢一の中の人 @ke_1sato 昭和10年刊行の宮城県『宮城県昭和海嘯誌』には、防潮林の効用として次のように述べられている。 「防潮林は、其の材木実に弾力性に富み、幹枝円形なるを以て、甚だ有利なる条件の下に海嘯の来襲に対抗し、或は其の水平速度を減殺し、。。。」→ 2014-06-10 23:30:30 佐藤賢一の中の人 @ke_1sato →「或は、其の幅員にして充分大ならんか、後方部は単に浸水の形となりて、被害は言ふにも足らざる程度に止ま
★「関東大震災・トモダチ作戦」 1923年関東大震災のとき、世界中(当時独立国のほとんどである57か国)から義捐金、救援物資、救助隊などが励ましのメッセージと共に続々と送られてきた。それは先進国だけでなく、中国、タイ、キューバなどの発展途上国や旧ユーゴのクロアチア、セルビア、スロベニアなど遥かに遠い東欧からも援助の手が差し伸べられ、日本を励まし復興への勇気と感動を与えた。 中でも突出していたのがアメリカの迅速・大規模な支援であった。震災発生を知った9月1日の夜、アメリカ合衆国第30代大統領 ジョン・カルビン・クーリッジ・ジュニアは、ただちに対日支援を決断。大統領令を発し、フィリッピン・マニラや清国に寄港中のアジア艦隊に救援物資を満載し日本(横浜)への急行を命じる。その時、日本ではまだ対策本部すらできていなかった。さらに大統領自らラジオを通じ全米に「困難に直面している日本を助けよう」と義捐金
「慶長三陸」「貞観」地震の津波堆積物同時に発見 岩沼 時代の異なる3層の津波堆積物が確認できる現場 宮城県岩沼市教委は、東日本大震災で被災した同市下野郷の地層で、慶長三陸地震(1611年)と貞観地震(869年)の津波堆積物とみられる砂層を発見した。仙台湾周辺の同じ場所で、時代の異なる津波堆積物が見つかるのは初めて。 現場は海岸線から約1.2キロ内陸の位置。復興事業の一環で排水機場を建設するため、平安時代の土器が出土している高大瀬遺跡周辺を調査する中で確認された。 慶長三陸地震の津波堆積物は、表層近くに積もった東日本大震災の津波堆積物の20センチほど下層で見つかった。厚さ約5センチの入り組んだ形の褐色の層で、細かい砂で構成されている。上面を江戸時代後期以降の水田耕作で削られており、本来の厚さは不明だという。 貞観地震の津波堆積物はそのさらに30センチほど下層で確認された。厚さ25~30
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