大正12(1923)年9月1日に発生した関東大震災の混乱の中で行われた、朝鮮人虐殺。長野県へはどんな情報が流れ、どんな動きがあったのでしょうか。写真は、長野県内の関東大震災第一報となった9月2日付信濃毎日新聞夕刊(1日発行)。当時の信濃毎日新聞で関連記事を探してみました。 <9月4日付夕刊(3日発行)> 最初の朝鮮人関連記事が載ります。「朝鮮人400名捕縛 爆弾を持てるもあり」と見出し。「3日午後3時高崎よりの情報によれば2日午後11時、東京市内の不逞鮮人約400名は捕縛され爆弾若干その他のものを押収されたと」という内容。東京の話を高崎で聞いたという伝聞の伝聞記事で、具体性がありません。 <9月4日付朝刊> 「不逞鮮人脱獄し軍隊と大衝突」という記事が載ります。横浜監獄の「不逞鮮人」が全部脱獄して市内を横行しているので歩兵第34連隊が出動、朝鮮人400人との間に大衝突をしたというもの。衝突し
東日本大震災からの復興が始まったかのように見える東北地方。しかし、被災地の取材から見えてくるのは、報道とは乖離した現地の姿だった――2011年4月19日放送の『ニコ生ノンフィクション論 被災地で「遺された人々」の声を聴くということ』では、マスメディアの報道では伝えられない被災地の状況を、ノンフィクション作家の石井光太氏が「パーソナル」メディアならではの視点で報告した。 マスメディアでは連日、復興に向けた取り組みが「明るい話題」として報道されている。しかし、その一方で「復興しないでくれ」、「自分の瓦礫の家をそのままにしてくれ」と言う人もいるという。石井氏は、 「例えば老人にとっては、人生のすべてをそこで過ごしてきた。瓦礫と言うけど、ゴミじゃない。宝の山なんですよ。それを片っ端からなくしてしまえば、その人にとっては何も残らなくなる」 とし、復興に対する思いが単純ではないことを語った。また、遺体
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