昨年の第40回全国高校生読書体験記コンクール(一ツ橋文芸教育振興会主催)で、宮城県北の高校に通う3年の賀井暁月(かい・あかつき)さん(17)=筆名=の作品「世界にゆさぶりをかけるもの」が最高賞の文部科学大臣賞を受けた。1920~30年代に活動した米国人作家、H・P・ラヴクラフトのホラー小説に魅了さ…
一応大卒なので(自慢)正社員として雇われている俺、しかし仕事はハードで、ボーナスも社長の気分しだい、奨学金の返済とちょこちょこつまんだ消費者金融への返済で、ちょっとピンチな俺。そんなプチ貧乏な俺が、ボーナスが出るたびに来るのがこの店だ! 登場人物 ・俺:俺 ・O:競馬場で知り合った友人 ・K:Oのお嫁さん。フィリピン人 ~Oに電話をかける~ 俺「ボーナスが出たので、すたみな太郎行きましょう!」 O「いいですね!私もこの前万馬券取ったので少し余裕があるんですよ、うちの嫁も連れて行っていいですか?」 俺「どうぞどうぞ!一緒に食べましょう!」 ~待ち合わせ場所(津田沼駅南口2F広場)~ 俺「お待たせしました」 O「ぜんぜん待ってませんよ」 K「イマキタトコロダヨ」 俺「早速行きましょう!Kさんは太郎初めてですよね、ルールとかご存知ですか?」 K「チョットワカラナイデス」 俺「まずは、肉はトングを
この記事が注目を浴び、多くのブコメが集まっている。 "カズオ・イシグロ語る「感情優先社会」の危うさ" https://toyokeizai.net/articles/-/414929?display=b まず、私は自分が大別すれば「左翼」かつ「リベラル」の立場にあることを自覚している。左翼の定義やリベラルの定義の困難さ、特に現在の日本で「リベラル」が「左翼」の言い換えのように使われて混乱が生じていることは十分承知しているが、そのあたりに触れるといくら前置きをしても足りなくなるので、要するにここを見るような人間たちがイメージする「左翼」であり「リベラル」であると考えてもらえばいい。ただし、左翼かつリベラル、というように私はこの両者は区別している。区別した上でどちらでもあるということだ。参考までに、最近やってみた下記サイトのポリティカルコンパスでは、 https://www.idrlabs.c
「ロシアのシベリア鉄道にのってみたい」と言ったライターpatoさん。ウラジオストクからモスクワまでの全行程、移動も宿泊も全部電車の果てしない旅に出ました。 ※記事読了時間目安 : 45分 ※この記事は「東京に、家を持とう。」でおなじみの「オープンハウス」の提供でお送りいたします。 【1日目】13:00(日本時間14:00)ロシア ウラジオストク国際空港 みなさんこんにちは! 僕は現在、東京から1250 km離れた、ロシアのウラジオストク国際空港にいます。ロシアの中でも「極東」と呼ばれるこの地域、最果ての地というイメージが付きまとい、寂びれたイメージがあったのですが、実はそうではなく、空港の設備もそこそこに最新鋭で、かなり活気があります。なにより人が多い。 地図でみるとこうです。東京からはそこそこ近い位置ですが、モスクワなどから見ると「極東」と言われても仕方がない、そんな場所にあります。とい
9月21日・金曜日の夜、「新潮」編集部から電話がかかってきた。おかしいな、と思った。今月は締め切りがないはずなんだが。イヤな予感がした。おれは、少しの間ためらった後、電話に出た。案の定だ。「新潮45」問題について書いてくれ、というのである。確かに、おれは、その問題についてツイッター上で少しだけ発言をした。それだけだ。面倒くさいし、何のためにもならない。一晩考えさせてくれ、といっておれは電話を切った。でも、おれは引き受けることになるだろう、と思った。「面倒くさくて何のためにもならないことは引き受けろ」は、高橋家の家訓なのである。 書くことを引き受けてすぐ、「新潮45」の休刊が決まった。この問題については、考えなければならないことが多すぎる。休刊の是非、雑誌や出版社、あるいは著者のあるべき姿、休刊の直接的な原因となったであろう小川榮太郎氏の論文の問題点、当該特集号の各投稿それぞれが抱えている異
おれは床屋に行く。おれの床屋は席が5つくらいあって、だれか手すきの男が散髪をする。総調髪1800円。 おれは今日、床屋に行った。店の前の長椅子に一人、理髪師がタバコを吸って休んでいた。おれが店に入ると、その理髪師が遅れて店に入った。一つ空いた席に促された。 おれはタバコ吸いであったが、度重なる値上げに音を上げてタバコを吸わなくなった。他人のタバコのにおいを気にするようになった。他人のタバコの残り香を気にするようになった。さっきまでタバコを吸っていた男がおれの髪をいじることになった。 どの理髪師に当たるかは、ランダムだ。前回の理髪師は、5人くらいいる理髪師のなかでいちばん若そうな男だった。おれが少し伸びてきたツーブロックの短い部分を自分でバリカンを当てたのを見抜き「左右対称じゃないな……」とつぶやいた。異様に左右対称を気にする男だった。おそらくおれの髪は左右対称になったのだろうと思う。シンメ
実験する小説たち: 物語るとは別の仕方で 作者: 木原善彦出版社/メーカー: 彩流社発売日: 2017/01/23メディア: 単行本この商品を含むブログを見るこの世には実験小説と呼ばれるたぐいの作品がある。実験=experimental というぐらいだから、要するに普通の小説ではない。そもそも"普通の小説"を定義するのも難しいが、まあ、登場人物がいて、ページをめくると物語が前に進んで、読める言葉で書かれていく、あたりから外れた工夫が凝らされた小説といえる。 たとえば最近再刊行もされたコルタサルの『石蹴り遊び』。この本の冒頭には読み方を指示する「指定票」がある。なぜそんなものが必要なのかというと、『石蹴り遊び』は「向こう側から」と題された一部、「こちら側から」と題された第二部、「その他もろもろの側から」と題された第三部から成り立っており、これを順番で読んでいくような構成にはなっていないのだ。
家にテレビないから今もしてるのかどうか知らないけど、24時間テレビとかで障害のある人がメチャ頑張るみたいなのをしていた時期あった。 だけどそんなに本格的に感動するようなものを私は観たくない。あと頑張る人があんまり頑張りすぎてると心配になる。そもそも無茶とかしないほうが良いと思う。 映画なんかもそうで、絶対に泣く映画とかあるけど、私はオッさんだからオッさんの俺が泣いたところでオッさんが号泣してるだけで意味ないと思う。オッさん号泣してるの見て喜ぶ奴は変態性欲の持主である。そういうのは自由だから別に良いんだけど、とにかく私は感動とかしたくない。 作る人らがなんで感動させようとするのかというと、見る奴らが金払った以上は一定の効果をゲットしたいからで、分かりやすいのが感動して泣くとかだからだと思う。しかしながら私はオッさんだという問題があって、オッさんが感動して号泣するくらい世の中に無駄な事象ないと
今朝、うちの施設にきている利用者が亡くなったそうだ。もちろんこういうことは初めてではないんだけど、毎回毎回、気持ちの着地点が見つからない。 介護職員ならどこでも、どんな研修を受けても教わるはずだ、利用者が亡くなっても深入りしすぎるな、気持ちを切り替えろ、と。 僕たちは仕事に集中すればするほど、それぞれの利用者への主観的な思い入れとは別に、客観的な事項として利用者の状態を深くインプットしていく。場合によっては、その家族よりも深く。その日その日の状態を見て、今日は動きが鈍い、とか、少し顔色が悪い、など、その都度細かな変化につぶさに対応していかなければならない。死に向かいつつあるのを間近に見ながら、その人のもつ”生”に執着するのが僕たちの仕事の宿命なのだと思う。つまり、業務の一環として、全ての利用者に深入りせざるを得ない、というわけだ。 それが、亡くなった途端、深入りするなとか、切り替えろとかに
現在の日本が置かれた状況を思うにつけ、今こそ我々は夏目漱石の小説を詳細に読み直すべきなのではないか、という思いにとらわれている。 日本近代文学の礎を築いた偉大なる文豪・夏目漱石。その名声と栄光はゆるぎないものに思えたが……千円札からもその肖像を外され、国語の教科書からもその作品は削られつつある。まさに漱石パージが進行する中で、日本人は、漱石を始めとする明治のパイオニアが築いた、何かとても大切なものを忘れつつあるのではあるまいか? そんな慨嘆の念を抑えることができないのである。 例えば、である。日露戦争直後という、近代日本の節目となるような社会状況の中で……我らが偉大なる夏目漱石は、かの名高き傑作小説『吾輩は猫である』において、そのものずばり、「大和魂」について詳細に論じているのである。名無しの猫の飼い主たる苦沙弥先生は、友人たちに、自作の文章を朗読しているのが、以下に引用する場面である
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く