aikoを聴いていると、自分の中に背の低い女が住んでいることが分かる。 この数年強く実感していることだ。aikoを聴くほどに、自分が曲中の「あなた」ではなく、「あたし」に感情移入していると実感する。私は一人の背の低い女となってaikoを聴いている。三十をすぎた男の内側に、背の低い女が住んでいた。 一方で、ゴリラを見ていると、ゴリラに対する強烈な憧れを感じる。これも現在の自分が実感していることだ。メディアに流通するイメージとしてのゴリラ、文化系の男が妄想するひとつの理想像としてのゴリラ、野性、腕力、暴力、あらゆる危険な記号の集約点としてのゴリラ。それに私は憧れる。 以前、これをシンプルに「ゴリラワナビー」と名づけた。ゴリラがバナナをむく、ゴリラがうんこを投げる、ゴリラがブランコがわりにタイヤで遊ぶ。その挙動のひとつひとつに魅了される男。ゴリラへの同一化を求める、現代のひよわな男たち……。 と