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ブックマーク / members3.jcom.home.ne.jp (2)

  • 富士信仰

    ホームページに戻る    思いつくまま目次へ戻る 富士信仰  2006.01.25. 2006.06.08改訂               (はじめに) 山歩きを始めてから、二つの楽しみを求めている。ひとつは、自然の営みから、自らを省みしつつ、 生き物としての勇気を自然からもらうこと。生きて死すべき生き物が精一杯生きている姿を率直に 見ること。花木であり、昆虫であり、動物である。 もうひとつは、いにしえ人が生きて死した場所、それも街なか・村なかでなく、辺境の場所で、彼らが 何を思い何を祈ったかを想像してみること、である。 前者は、判りやすい。後者の興味の視点を補足説明してみる。「いにしえ人が生きて死した場所」は、 言うまでもない、生活の場、「街なか・村なか」が大半である。生産と消費の場で、私と同じように、い、 寝て、働き、娯楽を楽しみ、子育てをしていた。もちろん、こ

  • 世間師クヌルプと宮本常一

    ヘルマン・ヘッセに、"Knulp. Drei Geschichten aus dem Leben Knulps"という原題を持った長編小説がある。 私の手元にあるのは新潮文庫の高橋健二訳で、タイトルは「クヌルプ」。 一時期繰り返し読んだ、私にとっては忘れられぬ一作だが、他にもいくつかの翻訳によって異なる邦題を持っている。 それは次のようなものだ。 「漂泊の魂」「漂泊の人」「さすらひ」「さすらいの記」 翻訳を担当した先生方が、作品の内容を窺わせるようなタイトルをお考えになったのだろうと思われる。 「クヌルプ」というのでは、あまりにも素っ気なさすぎる。そう思われたところで不思議はない。ふむふむと私はうなずく。どれも間違ってはいない、と思う。苦心の跡がしのばれる邦題だとも思う。 しかし、私はこれらの題にひっかかるものを覚える。 「漂泊」「さすらい」。一言でいって、これらの単語からは悲愴感が強く立

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