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寺田寅彦に関するkasokenのブックマーク (5)

  • 寺田寅彦 「手首」の問題

    バイオリンやセロをひいてよい音を出すのはなかなかむつかしいものである。同じ楽器を同じ弓でひくのに、下手(へた)と上手(じょうず)ではまるで別の楽器のような音が出る。下手な者は無理に弓の毛を弦に押しつけこすりつけてそうしてしいていやな音をしぼり出しているように見えるが、上手な玄人(くろうと)となると実にふわりと軽くあてがった弓を通じてあたかも楽器の中からやすやすと美しい音の流れをぬき出しているかのように見える。これはわれわれ素人(しろうと)の目には実際一種の魔術であるとしか思われない。玄人の談によると、強いフォルテを出すのでも必ずしも弓の圧力や速度だけではうまく出るものではないそうである。たとえばイザイの持っていたバイオリンはブリジが低くて弦が指板にすれすれになっていた、他人が少し強くひこうとすると弦が指板にぶつかって困ったが、イザイはこれでやすやすと驚くべき強大なよい音を出したそうである。

  • 寺田寅彦 厄年と etc.

  • 寺田寅彦 家庭の人へ

    風呂の寒暖計 今からもう二十余年も昔の話であるが、ドイツに留学していたとき、あちらの婦人の日常生活に関係した理化学的知識が一般に日の婦人よりも進んでいるということに気のついた事がしばしばあった。例えば下宿のおかみさんなどが、呼鈴(よびりん)や、その電池などの故障があったとき少しの故障なら、たいてい自分で直すのであった。当時はもちろん現在の日でも、そういう下宿のお神さんはたぶん比較的に少ないであろうと思われる。室内電燈のスウィッチの、ちょっと開けてみれば分るような簡単な故障でも、たいてい電燈会社へ電話をかけて来てもらうのが普通であるらしい。 些細なようなことで感心したのは、風呂を立ててもらうのに例えば四十一度にしてくれと頼めばちゃんと四十一度にしてくれる。四十二度にと云えば、そんなに熱くてもいいのかと驚きはするが、ちゃんと四十二度プラスマイナス〇・何度にしてくれるのである。もちろんこれは

  • 寺田寅彦 日常身辺の物理的諸問題

  • 寺田寅彦 知と疑い

    物理学は他の科学と同様に知の学であって同時にまた疑いの学である。疑うがゆえに知り、知るがゆえに疑う。暗夜に燭(しょく)をとって歩む一歩を進むれば明は一歩を進め暗もまた一歩を進める。しかして暗は無限大であって明は有限である。暗はいっさいであって明は微分である。悲観する人はここに至って自棄する。微分を知っていっさいを知らざれば知るもなんのかいあらんやと言って学問をあざけり学者をののしる。 人間とは一つの微分である。しかし人知のきわめうる微分は人間にとっては無限大なるものである。一塊の遊星は宇宙の微分子であると同様に人間はその遊星の一個の上の微分子である。これは大きさだけの事であるが知識の dimensions はこれにとどまらぬ。空間に対して無限であると同時に時間に対しても無限である。時と空間で織り出した Minkowski の Welt にはここまで以上には手の届かぬという限界はないのである

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