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ブックマーク / sk-44.hatenadiary.org (7)

  • 合理ゆえに我信ず - 地を這う難破船

    ⇒科学とニセ科学の違いってそんなに重要か? - よそ行きの妄想 (前略)要は人間が信じるか信じないかというだけでしょという点において。宗教も科学も、人間にあたかも世の中に客観的な真理があるかのように思わせる手段に過ぎない。 (前略)下に書いてある通り、科学は科学的ではない。私の認識では巷に溢れかえる擬似科学批判は単なる科学信仰に過ぎない。疑似科学批判に余念がない人は、世の中の人が全員科学を信仰しているとでも思ってやしないだろうか。その<普遍性>も「わからん」。と言っておく。 詐欺とかと関連づけて考えちゃう人の気持ちはわからんでもないけど、詐欺は疑似科学の結果じゃないでしょ。逆。詐欺ありき。疑似科学に罪はないだろ別に。 詐欺の方法論としての疑似科学が「罪深い」のは。――以下数百年を十数行で犯罪的なまでに単純化した記述なのでその点は諸賢の御了承と突っ込みを。 chnpkさんが参照しておられる2

    合理ゆえに我信ず - 地を這う難破船
    ken_wood
    ken_wood 2008/11/17
    >詐欺の方法論としての疑似科学が「罪深い」のは、真理と世人に誤解されがちな科学的認識の誤解を承知しての横領で、社会資源の概念的な横領で、ポパー―クーン的な倫理に対する冒涜で。小林秀雄。運命論。
  • 人を生かす/活かすということ - 地を這う難破船

    ⇒サイダーハウス・ルール - 地を這う難破船 の続きとして。 ⇒http://d.hatena.ne.jp/HALTAN/20080526/p2 ⇒http://d.hatena.ne.jp/HALTAN/20080527/p1 私は、象が殺されようがパンダが死のうがイルカが屠られわれようが知ったことではない。むろん、それは私個人の感情というか無感情。「可哀相」はむろんあってよいし主張されてよい。感情に基づく距離規定の問題であるから。人間の都合で屠られわれるイルカを「可哀相」とは私は思わないが、そのように考える人があることを認めるし、そのこと自体を妥当なこととも思う。差別が関与することなければ。このとき、象やパンダやイルカを「関係ない人間」と人は敷衍して認識しうる。そして、その問題意識のもと、宮沢賢治の豊饒な作品世界は紡がれた。「当の幸い」を希求して。 「合目的」と言うとき、その目的

    人を生かす/活かすということ - 地を這う難破船
    ken_wood
    ken_wood 2008/05/28
    >情を滅却すべきとドラッカーは説いていない。医者は、生かす人である一方で、命を選別する人である。それを医師の仕事と人類社会は暗黙に規定してきた。「押し付けてきた」と言ってもよい。
  • サイダーハウス・ルール - 地を這う難破船

    ⇒あのー、それ、普通にかわいそうなんですがーー「トリアージ」という自己欺瞞 - (元)登校拒否系 関連言及記事は物理的事情から読みきれていない。後で書こうと気に留めて少しくネットを離れていたらえらいことになっていた。今更ながら、書こうと思ったことを。 人命は資源ではない。そのことについては全面的に同意する。トリアージ可哀相、ということについては。私は最初、toledさんの記事のタイトルを拝見したとき、トリアージに「加担」する医療従事者らが可哀相、という話と思ってしまった。「可哀相」という言葉を用いて表すなら。 むろん、発端となった記事に記されてあったことであるけれども、私はtoledさんの記事を経由して発端となった記事を拝読したので。見捨てられようが見捨てられまいがトリアージが要請される事態が悲劇であり誰しもその当事者である。たりうる。そして。医療資源と人命は、むろん概念において交換される

    サイダーハウス・ルール - 地を這う難破船
    ken_wood
    ken_wood 2008/05/28
    >その判断を「医師の職責」に、あるいは「現場」に委ねるなら、「可哀相」なのは医師であり、現場だろう。ナイーブきわまる理想論であるが。トリアージにあって「見捨てられる」者があることは、結果論である。
  • 社会正義の臨界――光市母子殺害事件高裁判決 - 地を這う難破船

    ⇒http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/080422/trl0804221753029-n1.htm ⇒http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/080422/trl0804221810031-n1.htm ⇒http://alfalfa.livedoor.biz/archives/51282196.htmlはてなブックマーク - 光市母子殺害事件の記者会見見て無い人へ:アルファルファモザイク 光市母子殺害事件、広島高裁差戻審の判決が下った。昨年の所謂懲戒請求騒動を含めて、このブログでも幾度も記事を記してきた。カテゴリ分類して過去記事を整理しようかと考えて放置していた。 正午、カーラジオで判決を聞き、私は目を閉じた。隣で運転する仕事絡みの人が、村さんよかったな、あんな奴は生きてちゃいけない、と助手席の私に言う

    ken_wood
    ken_wood 2008/04/28
    >快楽殺人者らを終身刑に処したとき、獄中で生き続ける彼らは延々と彼らにとってとびきりの経験を想起して愉しみ続けるだろう。彼らは自身の滅形の形式において実存的な解決と社会的な解答を彼らなりに企図する。
  • ある「不可知論者」にとっての「神学」 - 地を這う難破船

    ⇒なぜニセ科学を叩く人は一般にヘンな目で見られないで、歴史修正主義者を叩く人はヘンに見られるのか - 愛・蔵太の気になるメモ(homines id quod volunt credunt) ⇒「歴史修正主義」をめぐって - 地を這う難破船 >愛・蔵太さんは−ファクトとしての言説史に準拠する近現代文化史の人 失礼だが、3/27現在あなたのこの文章は間違いだったと判明したように思います。開かれた議論の場では愛・蔵太氏は、まったく何もファクトを提示できず、それ以前に何も”読み”を行わなかった事が明らかになったと思います。以下の私のまとめを参考に、D_Amon氏が用意してくれた掲示板での愛・蔵太氏の発言を一度確認して欲しいのです。 http://d.hatena.ne.jp/abesinzou/20080328 >敬意を払っている人は私を含めて幾らもある 加えてここで明らかになったのは愛・蔵太氏に

    ある「不可知論者」にとっての「神学」 - 地を這う難破船
    ken_wood
    ken_wood 2008/03/31
    >普遍概念を共同幻想に過ぎないと見なす人にとっては価値的な議論は神学論的「ゲーム」でしょう。ただし私が愛・蔵太さんの信念ドグマを尊重するように、愛・蔵太さんもまた他人の「神学」を揶揄するべきではない。
  • 感情を排して説明してみるということ - 地を這う難破船

    ⇒http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/080212/plc0802122007008-n1.htm ⇒http://d.hatena.ne.jp/yousanotu/20080213 真剣に疑問に思っておられるらしいので。 この記事ってセカンドレイプなの?だれか俺に論理的に説明してくれよ。 では「論理的に説明」します。「セカンドレイプ」という言葉で思考停止しなければならないような空気がもし在るならそれは私は好きではない。あぁ花岡さんか、と思って了解した私も大概シニシストだけれども。しかし新聞に載って日中に戸配されたと思うと眩暈する。 まずさあ・・・おまえら。 そのセカンドレイプって言葉をつかうのをやめろと。 おまえらセカンドレイプいいたいだけちゃうんかと。 当にセカンドレイプの被害にあっている人たちが迷惑だろうが。 今回の事件は、22時以降

    感情を排して説明してみるということ - 地を這う難破船
    ken_wood
    ken_wood 2008/02/15
    >なら。親子は殺し合いうる、子は親に殺されうることを、子は知るべきである、と示すべきか。賢明でないことと毀損されることは因果関係を結ばない。結ばせてはならない。
  • 弁護士であることと人間であること - 地を這う難破船

    http://www.heiwaboke.com/2007/10/post_1140.html http://hashimotol.exblog.jp/6613152/ http://hashimotol.exblog.jp/6618303/ �����֥����ɤ���Ĩ�������Ԥγ������� - �����۸��ΤΤĤ֤䤭 はてなブックマーク - エコ… - お姉さん(おばちゃん?)達の井戸端会議! - 楽天ブログ(Blog)(元記事削除済) 「懲戒請求」の検索から来訪される方がある。6月より、幾度も記してきた。改めて、乱暴と粗雑を承知で、事情について私なりに説明したく思う、願わくは、懲戒請求の当事者が読まれることを。 先ず。「国民感情」は措きます。僭称、ということではなく、「国民感情」については巷間言われる通りと私は思いますが、然るに、「国民感情」とは、個々人の判断と自由意

    弁護士であることと人間であること - 地を這う難破船
    ken_wood
    ken_wood 2007/10/16
    >人間としての是非「のみ」をもっての社会的制裁は異端審問。外科医は「人間として」許し難い者の手術であろうと命を救うべく全力を尽くす。当該弁護団は「弁護士・法曹の使命」を閑却しているか。一貫して否。
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