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んじゃないでしょうか。単純に。 例えばこちらも最近話題のオーストラリアの反捕鯨運動を見るとよく分かるんですが、あからさまに日本を嫌っている人達の言葉やパフォーマンスは、反発を招けど決して正しい効果は持ち得ません。 日本や日本人の態度を硬化させるだけで、捕鯨抑制に理解を示そうとする人にすら反感を抱かせるし、たとえ正しい理屈を言っても届かなくしてしまうわけです。 チベット問題に関して重要なのは中国当局が合理的判断によってチベットへの暴力行使を止め、自治の方向へ向かい始めるような流れを作ること。 面子を重視する中国のこと、嫌中的なアプローチでは多様な中国内の親チベット派にすら反感を抱かせかねません。 それでも悪いのは中国だ?もちろんその通り。 しかし今この場合最優先なのはチベットの利益であって、中国の不利益ではない。 とかく社会運動で重要なのは、目的を見失わないこと。ドラッカーもいうように、ビジ
日本の捕鯨海域に軍艦派遣も 「追跡し、証拠集める」 - MSN産経ニュース 近頃オーストラリア政府が捕鯨監視に軍隊を出すといって話題になっている。前々回強調したように、これは単なる選挙対策であり、私はことさらにそれを非難することはしない。 だがさすがにビックリするような話であり、日本のネット周りでの反発は「こいつら狂ってやがる」とかなんとか、それはそれは強烈である。多少冷静そうな人でも「クジラが相対的に見て可愛くて賢いことは認める。だけど所詮ちょっと大きい動物じゃないか。この強硬さはちょっと理解できない。」ぐらいのことは言う。 気持ちはわかる。非常によくわかる。だがちょっと待ってもらいたい。 あなたはおそらく、過去の数限りない宗教戦争を、愚かなことだとは思っても「狂っている」の一言で片づけたりはしないだろう。現在も世界中で起きている宗教紛争を、悲しいことだとは思っても必ずしも「狂っ
(ガイア教の天使クジラ その4 の続き)ずいぶん間が空いたが久しぶりに続きを書く。あちこちからリンクされているのは喜ばしいのだが、若干誤読されていそうな気配も出てきたのでちょっと今までの流れを止めて、この一連のエントリで扱わない物事は何かということを書く。 まず、反捕鯨運動の始まりやそのきっかけに関しては扱わない。昔調べた名残でまんざら知らないわけではないが、一切扱わない。これらは(少なくとも私にとっては)どうでもよいことである。 仏伝でいえば毒矢の譬。山火事で煙に巻かれている時「この火事のきっかけは、落雷か、放火魔か、タバコのポイ捨てか、子供の火遊びか、DQNのバーベキューパーティーか、それを知りたい。解明するまで逃げたりしないぞ!」と考えることは明らかに馬鹿げている。そのような時に必要とされている知識は、火を消す方法であり、煙から逃れる道筋である。 どうも2ch等では反捕鯨運
(ガイア教の天使クジラ その1の続き) 21世紀の現在では想像するのも難しいが、概ね19世まではキリスト教の真理と人種差別はまったく自明のものであった。全知全能の神をトップに戴く一次元的な階層構造があった。 そういうものを書き表すのにおあつらえ向きな不等号厨メソッドを使うとこうである。 古い存在の大いなる連鎖(各階層の差を作り保証しているのは神) 全知全能の父なる神>>>(全知全能の壁)>>>天使>(できるだけ低いと思いたい壁)>白人>(越えさせたくない壁)>黄色人種>黒人≧(あまり高くないと思いたい壁)≧霊長類>鳥獣>魚>地を這うもの>草木>無生物>塵芥 進化論を筆頭とする科学の進歩によって、この美しく居心地の良いヒエラルキーを維持するのはだんだん難しくなっていった。もはや人間は動物とは違って神によって特別に創造されたと信じることは難しくなってきた。この“危機”に際しての対応は大き
オーストラリアの一部が大きく反捕鯨の動きを見せているからだろうか。 それに対し日本の一部のバカがヘタな行動にでてさらに反感を買うというマヌケを演じている。 こういう話に正解も答えも無いので、思いつくまま適当に書く。 勝手に話を整理すると。 反捕鯨の人達は、クジラが可愛そうだからクジラを捕るなと言っているのではない。 さらに、日本人蔑視や、食文化の違いから、反対しているのでもない。 これは、海洋利権の話なんでしょ。 知ってのとおり、200カイリ(排他的経済水域)外での漁業は国籍を問わない。 問わないけど、そんな遠洋漁業ができる技術とシステムを持つ国は限られる。ていうかメインは日本。 世界の人々は、誰のものでも無い海の資源を日本人が根こそぎ持っていく事に、強い反感を持っているわけ。マグロの漁獲量も制限された。 おそらく、「日本の領海内でしかクジラ捕らないよ」といえば、グダグダ言う奴は出ない。そ
昨日のエントリーで、結構見抜かれた皆様が多いことにニンマリ。というわけで、“最後の”エントリーとなります。 レインボーさん。 あのね、チュコトやアリュートの捕鯨は、彼らの伝統的文化、いわば彼らのアイデンティティの一部ですよ。それを奪うとすれば、彼らはまさに“死ぬ”んです。 彼等のばかり捕鯨が”アイデンティティ”と認められて日本は”死ぬ”と表現しない理由はなんですか? 前言通り、「バカか、オマエ。」 で済ましてもいいんだが、 あのね、チュコトやアリュート(アレウト)達は“狩猟採集文化”を近年まで保ってきたんです。彼らが彼らのアイデンティティたる根本に“捕鯨”が位置するんです。アリュートなど、皮張りのウミヤックやカヤックで北極の海に出て鯨を捕るという勇敢さ。その生活の中にある儀礼的捕鯨が彼らの精神文化のバックボーンにあるんですよ。 現在の日本文化(と見なせる)中に、商業捕鯨が位置しますか?商業
いや、シー・シェパードの連中がいらん真似してくれたので、あちこちで煮えてますねぇ。 自分もだいぶ面倒になってきました。 ま、一応答えていきましょ。 T・Hさん 例えば「美味しんぼ」を読んだことがありますか?この作品では文化としての伝統的漁法としてより むしろ、食文化として、文化としての料理法として、ヒゲの利用法としての文化を描いているのですよ。 「伝統的漁法」だけに矮小化した論法はフェアとは言えませんね。 わたしゃ、「美味しんぼ」連載開始時からのファンですよ。雁屋氏も好きですし。いっとけばニコルさんだって尊敬してます。 でもね、鯨のひげを使うような伝統工芸、現在どの程度残ってます?江戸時代より少ない規模ですよ。で、明治以降日本がとりまくった鯨は江戸時代の比じゃありません。ストックはたっぷりあるんです。 食文化も同じ。伝統的食文化が存在するのは伝統的捕鯨を行っていた地域に限られます。その程度
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