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歴史に関するkenjouのブックマーク (61)

  • 真田幸村はどうして大坂城の南に真田丸を築いたのか?

    真田幸村は「大坂冬の陣」の戦いにおいて、大坂城の南に真田丸という出城を築きました。 そしてそこを拠点として防戦にあたり、徳川方の攻撃を防ぎつつ、多大な損害を与えることに成功します。 この文章では真田丸と、それをめぐる戦いの様相について書いてみようと思います。 【真田丸を築いて徳川家康と戦った真田幸村の肖像画】 真田幸村の大坂入城1614年になると、豊臣氏と徳川氏の関係が急速に悪化し、一触即発の状態になっていました。 これを受け、徳川氏に比べると兵士の数で大きく劣っている豊臣氏は、主君を持たない浪人たちを集めることで、これを補おうとします。 そして関ヶ原の戦いで敗れるなどして領地を失っていた武将たちに使者を送り、豊臣氏のために働いてくれるようにと勧誘します。 誘われた武将たちの中には、真田幸村も含まれていました。 彼は信濃(長野)上田の大名・真田昌幸の次男で、父とともに西軍について戦い、敗者

    真田幸村はどうして大坂城の南に真田丸を築いたのか?
    kenjou
    kenjou 2016/10/19
    歴史の読み物を更新しました。今回は真田幸村と真田丸についてです。
  • 明智光秀はどうして本能寺の変で織田信長を討ったのか?

    明智光秀は低い身分から織田信長に引き立てられ、多くの領地や軍の指揮権を与えられた武将です。 しかしやがて光秀は謀反を起こし、京都の能寺で織田信長を討ちました。 そして天下人になることを目指しますが、その野心は世から受け入れられず、裏切り者として多くの敵を作ることになり、あえなく滅亡しています。 この文章では、どうして光秀は信長を裏切ったのかについて、書いてみます。 【信長に謀反を起こし、自らも滅んだ明智光秀の肖像画】 不明な前半生明智光秀は1528年に美濃(岐阜)で生まれた、と言われていますが、異説が複数あり、出自がはっきりとしていません。 父親が誰なのかも定まっておらず、その出生は謎めいています。 明智氏は美濃の守護・土岐氏の一族であるとされていますが、父の名前も伝わっていないことから、かなり低い身分の出身だったのではないかと言われています。 光秀はかつて足軽(最下級の兵士)や中間(雑

    明智光秀はどうして本能寺の変で織田信長を討ったのか?
    kenjou
    kenjou 2016/10/17
    歴史の読み物を更新しました。今回は本能寺の変についてです。
  • 木下藤吉郎が豊臣秀吉を名のるまで | 歴史の読み物

    羽柴秀吉は関白になって豊臣秀吉を名のるようになり、天下人としての地位を手に入れました。 秀吉は元々は低い身分の出で、そこに至るまでの過程で何度も名前を変えています。 この文章では、秀吉の名前の変化とともに訪れた、彼の出世の道のりについて書いてみます。 【異例の出世を遂げ、何度も名前を変えた豊臣秀吉の肖像画】 幼名は日吉丸?秀吉は1537年の生まれで、幼名は日吉丸だったと言われています。 しかしどこで生まれたのか、父や母は誰だったのかについては諸説あり、どれが真実なのかは誰にもわかりません。 関白という尊貴な身分になりながら、その素性が定かでないというのは異常なことです。 秀吉自身が明らかにしなかったことからして、人に誇れるような出自でなかったのは確かでしょう。 広く知られている説では、尾張国(愛知県)中村郷の出身だったとされています。 父は足軽(兵士)をしていた木下弥右衛門で、母は「なか」

    木下藤吉郎が豊臣秀吉を名のるまで | 歴史の読み物
    kenjou
    kenjou 2016/10/14
    歴史の読み物を更新しました。今回は豊臣秀吉の名前の変遷と、出世の過程について書いています。そこそこ長いです。
  • 松平元康が徳川家康を名のるまで

    征夷大将軍となり、幕府を開いて天下を制した徳川家康は、その生涯において何度も名前を変えています。 はじめは人に支配される立場から始まり、やがて独立し、三河の国主となるに従って、その名前も変遷していきます。 この文章では、家康の名前の変遷が、どのようなきっかけで発生したのかについて、書いてみようと思います。 【松平元康こと、徳川家康の肖像画】 幼名は竹千代家康は1543年に、三河(愛知県西部)の豪族・松平広忠の嫡男として誕生しました。 幼名は竹千代といいます。 (この時代には貴族や武家の子に、幼児の間にだけ用いる名前をつける風習があり、それを幼名といいます。) この頃の松平氏の勢力は弱体化しており、尾張(愛知県西部)の織田信秀からの圧迫を受けて危機に陥っていました。 このため、松平広忠は駿河や遠江(静岡県)を支配する今川義元の庇護を求め、家の存続を図ります。 人質になる今川義元から従属の証と

    松平元康が徳川家康を名のるまで
    kenjou
    kenjou 2016/10/13
    歴史の読み物を更新しました。今回は徳川家康の名前の変遷についてです。4,500字くらいですので、けっこう短めです。このサイトにしては。
  • 桶狭間の戦い 織田信長が5倍の兵力差を覆して今川義元に勝利できたワケ

    織田信長は1560年、桶狭間《おけはざま》の戦いで今川義元《よしもと》を討ち取り、一躍天下に名を上げました。 信長の兵力は5千で、義元は2万5千であり、5倍もの差がありました。 この文章では、それにも関わらず、どうして信長が桶狭間で勝利できたのか、について書いてみようと思います。 【桶狭間で勝利した織田信長の肖像】 当時の情勢今川義元は駿河《するが》、遠江《とおとうみ》(静岡県)、三河《みかわ》、そして尾張《おわり》(愛知県)の東部をも支配し、合わせて100万石の領地を持つ大大名でした。 しかも東の北条氏と、北の武田氏と同盟を結んでおり、西に向かうにあたって、後顧の憂いがない外交状況を作り出していました。 このため、義元は尾張に侵攻するにあたり、ほぼ全軍である、2万5千の兵力を繰り出しています。 これに対し、信長はまだ尾張の5分の2、17万石程度を領有するだけの、ありふれた地方勢力である過

    桶狭間の戦い 織田信長が5倍の兵力差を覆して今川義元に勝利できたワケ
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    kenjou 2016/10/11
    歴史の読み物を更新しました。今回は桶狭間の戦いについてです。6,000字くらいです。
  • 真田信幸(信之)は、どうして昌幸や信繁とは別の道を歩んだのか?

    真田信幸は高名な昌幸の長男で、真田家を発展させつつ、長く存続させることに成功した人物です。 昌幸や弟の幸村(信繁)に比べるとさほど知られていませんが、彼もまた、優れた能力を備えて戦国の世を生き抜いたつわものです。 この文章では、父や弟とは異なった信念を持って生きた信幸の生涯について、書いてみようと思います。 【真田氏の存続に力を尽くした信幸の肖像画】 武藤喜兵衛の子として生まれる信幸は武田氏の家臣・武藤喜兵衛の長男として、1566年に生まれました。 この頃はまだ高名な武田信玄が健在で、武田氏が強勢を誇っていた時代です。 しかし信幸が成長していくのとは逆に、時がたつにつれて武田氏は衰退して行きます。 長篠の合戦と立場の変化1573年に信玄が三河(愛知東部)攻略の最中に病没し、武田勝頼がその後を継ぎました。 そして1575年に行われた織田信長・徳川家康連合軍と、勝頼との間で行われた「長篠の戦い

    真田信幸(信之)は、どうして昌幸や信繁とは別の道を歩んだのか?
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    kenjou 2016/10/06
    歴史の読み物を更新しました。今回は真田信幸兄さんについて書きました。なんか9000字くらいあります。長いです。
  • 長篠の戦いで織田信長が武田勝頼に圧勝できたワケ

    織田信長は1575年に、長篠で武田勝頼と戦って大勝利を収めました。 それまで武田軍は信長と、同盟者の徳川家康の前に強敵として立ちふさがっていましたが、この一戦によって優れた将兵を数多く失い、衰退の道をたどることになります。 この文章では、どうして信長と家康は武田軍を打ち破ることができたのか、について書いてみようと思います。 【長篠の戦いで大勝利を得た織田信長】 当時の信長の勢力信長は1568年に上洛を果たした後、将軍・足利義昭の策謀によって周囲が敵だらけとなり、重大な危機に陥りました。 しかし、1573年に武田信玄が病死したことをきっかけに状況を覆します。 足利義昭を京から追放し、浅井・朝倉氏を攻め滅ぼし、謀反を起こした松永久秀を屈服させ、包囲網を打破して勢力を拡大しました。 この結果、信長の領地は400万石に達し、総兵力は10万以上となっています。 さらに、西に国境を接する勢力は波多野、

    長篠の戦いで織田信長が武田勝頼に圧勝できたワケ
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    kenjou 2016/10/03
    歴史の読み物を更新しました。今回は長篠の戦いについて詳しく書いています。全部で7,000字以上ありますが、よかったらどうぞ。
  • 徳川家康はどうして大坂の陣で豊臣秀頼を滅ぼしたのか?

    徳川家康は1615年、大坂夏の陣と呼ばれる戦いで豊臣秀頼を滅ぼしました。 家康が天下人になったのは1603年のことで、それから約10年の間、豊臣家を臣従させようと試みるなどしていましたが、最終的にはその血を絶やしてしまっています。 この文章では、家康がどうして豊臣家を滅ぼすに至ったのか、その過程について書いてみます。 【江戸幕府の基盤を築いた徳川家康の肖像画】 関ヶ原の戦いに勝利する家康は豊臣秀吉の死後、天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いに勝利し、征夷大将軍に就任しました。 そして江戸に幕府を開き、日全土の統治体制の構築を進めていきます。 全国の大名を従え、江戸を発展させ、後に264年も続く徳川家の支配を確立することになるのですが、そのための障害になるのが、豊臣家の存在でした。 豊臣秀吉はかつて関白の地位について天下人になり、家康の前に日の支配者になっていました。 その時代には家康も秀

    徳川家康はどうして大坂の陣で豊臣秀頼を滅ぼしたのか?
    kenjou
    kenjou 2016/09/29
    歴史の読み物を更新しました。今回は家康と秀頼についてです。7,000字行ってないのでやや短め(?)です。
  • 石田三成はどうして関ヶ原の戦いで徳川家康に敗れたのか?

    石田三成は豊臣秀吉の死後、豊臣政権を守るために徳川家康に戦いを挑みます。 そして10万を超える軍勢を集めることに成功し、関ヶ原で家康と、有利な状況を作った上で対峙します。 しかし三成は、ついにこの戦いに勝利することはできませんでした。 この文章では、いかにして三成は家康に敗れたのか、について書いてみます。 【西軍を組織した石田三成の肖像画】 秀吉の死と家康の台頭1598年に当時の絶対的な権力者であった豊臣秀吉が死去すると、それまで秀吉に抑え込まれていた諸大名が勝手な行動を取るようになっていきます。 秀吉の死によって最大の実力者となった家康は、自らの手で天下を制すべく活動を開始します。 まずは味方を増やすため、伊達や黒田らの諸大名との間に婚姻を結び、自勢力の拡大を図ります。 これは秀吉の遺命によって禁止されていましたが、家康はその命令への誓約を堂々と破ったことになります。 家康は豊臣家の主で

    石田三成はどうして関ヶ原の戦いで徳川家康に敗れたのか?
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    kenjou 2016/09/25
    歴史の読み物を更新しました。今回は石田三成と徳川家康の対決についてです。全部で1万字以上ありますので分割しています。
  • 毛利勝永 大阪の陣で輝いたもう一人の勇将

    毛利勝永は豊臣秀吉の家臣で、「大坂夏の陣」の戦場で大活躍した武将です。 この時に活躍した武将の中では真田幸村(信繁)が最も有名ですが、勝永もそれに劣らぬ働きを見せています。 この文章では豊臣家に仕え、その最後を見届けた武将について書いてみます。 森から毛利へ毛利と言えば中国地方を支配していた毛利氏のことが思い浮かぶかと思いますが、毛利勝永はこの毛利氏の一族ではありません。 もともとは森(もり)という姓でしたが、勝永の父・吉成が毛利氏のところに人質として赴いたことがきっかけになり、姓を変更することになります。 森吉成は長く秀吉に仕え、母衣衆という精鋭部隊に属したこともある優れた武将です。 能寺の変の直後に羽柴秀吉と毛利輝元が和睦し、その証人として毛利家の元に送られていました。 そして人質という立場でありながらも、吉成は輝元に気に入られ、毛利(もうり)の姓を名のったらどうかと勧められました。

    毛利勝永 大阪の陣で輝いたもう一人の勇将
    kenjou
    kenjou 2016/09/19
    歴史の読み物を更新しました。今回は知られざる武将についてです。
  • 井伊直虎 井伊氏の当主となり、直政を守り育てた女性の生涯について

    井伊直虎は激しい動乱が続く戦国時代に、女性でありながら一族の当主となり、滅亡の危機に瀕していた井伊氏を存続させることに成功した人物です。 井伊氏は遠江・浜松湖近くの井伊谷を500年に渡って支配していた国人領主で、駿河の今川義元の勢力に属していました。 直虎はその井伊谷の城主・井伊直盛の娘として誕生しています。 生まれた年ははっきりとしていませんが、1536年頃だったと推定されています。 従兄弟との婚約父・直盛には娘の直虎の他に子がいなかったため、親族から男子を養子に迎え、後継者にすることにします。 そしてこの時に選ばれたのが、直虎の従兄弟の井伊直親でした。 しかしこの従兄弟の父(つまり直虎の叔父)が、1544年に今川義元への謀反の疑いをかけられ、自害させられてしまいます。 この時に今川義元に偽りの告げ口をしたのは、小野道高という井伊氏の家老でした。 小野道高は家老という立場でありながら、主

    井伊直虎 井伊氏の当主となり、直政を守り育てた女性の生涯について
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    kenjou 2016/09/13
    ブログを更新しました。来年の大河の主人公を取り上げてみました。
  • 韓信 劉邦に天下を取らせた国士無双の大将軍

    韓信かんしんは劉邦りゅうほうに仕えて大将軍となり、楚漢戦争の勝敗を決定する重要な役割を担った武将です。 卓越した作戦能力を持ち、戦えば常に勝利をおさめ、『国士無双(比べられる者がいないほど優れた者)』と呼ばれるにふさわしい人物でした。 しかし劉邦が天下を統一して漢の皇帝となってからは、その能力と領土の大きさから警戒されるようになり、最後は謀反を企てるものの、失敗して処刑されてしまいました。 この文章では、そんな韓信の生涯や事績について書いてみます。 【韓信の肖像画】 韓信は臆病な怠け者と見られていた韓信は淮陰わいいんという水辺の街の、貧しい家に生まれました。 家産がなく、品行もよくなかったために職につけず、毎日ぶらぶらとして若い時期をすごしていました。 やむなく韓信は亭長ていちょう(街の治安を担当する役人)のところに居候をし、長い剣一だけを携えて無頼の暮らしをしていました。 しかしある時

    韓信 劉邦に天下を取らせた国士無双の大将軍
    kenjou
    kenjou 2016/08/08
    ブログを更新しました。戦国時代以外にも話題を広げてみました。
  • 今川義元 東海から天下をうかがった「海道一の弓取り」

    今川義元は桶狭間の戦いにで織田信長に討たれ、その躍進のきっかけを作った人物として知られています。 言わば信長の引き立て役となってしまったわけですが、それまでは「海道一の弓取り」と呼ばれ、大きな勢力を築くことに成功した、優れた武将であると見なされていました。 この文章では、そんな今川義元の生涯について書いてみます。 【江戸時代に描かれた義元の武者絵】 誕生後、仏門へ今川氏は将軍家である足利氏の分家にあたる家柄で、代々駿河(静岡県東部)の守護職を務めていました。 正確に言うと足利氏の分家に吉良氏があり、今川氏はさらにその分家である、という関係になっています。 室町幕府を開いた足利尊氏の時代に戦場で活躍し、各地の守護に任じられるなどして勢力を築きました。 こうした守護大名たちは、戦乱が続くにつれその多くが没落していきましたが、今川氏は戦国大名としての統治体制を整えるなど時代の変化に対応することで

    今川義元 東海から天下をうかがった「海道一の弓取り」
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    kenjou 2016/06/21
    ブログを更新しました。今回は今川義元についてです。
  • 伊達政宗 戦国の終わりを生きた、奥羽の「独眼竜」

    伊達政宗は戦国時代の末期に登場した武将で、奥羽(東北地方)を席巻し、伊達氏の最大勢力を築きました。 しかし政宗が活躍し始めた頃には、すでに豊臣秀吉という日全国に影響を及ぼせる大勢力が登場しており、彼の野心はそういった天蓋からの制限を受けることになってしまいます。 この文章では「最後の戦国大名」とも呼べる伊達政宗について書いてみます。 【伊達政宗の肖像画】 伊達氏は古くから陸奥を支配する大名だった伊達氏の歴史は古く、遠く鎌倉時代から出羽や陸奥の国(山形・秋田県のあたり)で勢力を誇っていた名族です。 戦国時代は「下克上」の言葉で知られる通り、古くから続く家柄の大名は時代の変化についていけず、そのほとんどが没落していました。 しかし東北地方では伊達氏を始め、最上氏や南部氏などのいくつかの古い家柄がその勢力を保っています。 それだけ土地柄が保守的だったのだとも言えるでしょう。 また、それぞれの豪

    伊達政宗 戦国の終わりを生きた、奥羽の「独眼竜」
    kenjou
    kenjou 2016/04/28
    今回は伊達政宗について書きました。
  • 長宗我部元親 土佐から四国統一を目指した「鳥無き島の蝙蝠」の生涯について

    長宗我部元親は戦国時代に四国制覇の野望を抱いて活躍した武将です。 しかし四国全土を手の内に収めたかと思ったまさにその時、中央から強大な勢力の侵攻を受け、その達成を阻まれてしまいます。 元親は幾度も降伏勧告を受けましたが、天下を手中に収める野心を抱いていたため、これを受け入れることはありませんでした。 この文章では、野心に駆り立てられて生きた、元親の生涯について書いてみます。 【四国から天下を目指した長宗我部元親の肖像画】 長宗我部氏は土佐の一領主に過ぎなかった長宗我部氏は土佐(高知)の七分の一程度を支配する小大名でしたが、元親の祖父の代に周辺の領主たちに攻めこまれ、領地を失っています。 その後、元親の父・国親は土佐在住の公家である一条氏のとりなしにより、領地を返還されます。 このことから見ても、長宗我部氏は土佐の中で際立って強い勢力であったとは言えません。 元親はその長宗我部氏の当主として

    長宗我部元親 土佐から四国統一を目指した「鳥無き島の蝙蝠」の生涯について
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    kenjou 2016/04/17
    久々に歴史ブログを更新しました。今回は長宗我部元親についてです。
  • 司馬遼太郎の「箱根の坂」を読んだ - 自由と不自由の間

  • 真田昌幸はどうして表裏比興の者と呼ばれたのか?

    真田昌幸は有名な真田幸村の父親で、当人も優れた軍略家として知られた人物です。 しかし一方で「表裏比興(ひょうりひきょう)」の者、と評されたりもしています。 これは老獪なくわせ者、といった意味で、その才覚を褒めているような、嘲っているような、微妙なニュアンスが込められています。 どうして真田昌幸はそう評されるようになったのか、そのあたりをこの文章で書いてみたいと思います。 【真田昌幸の肖像】 真田家の三男として生まれる昌幸は信濃(長野県)の豪族・真田幸隆の三男として生まれました。 兄が2人いましたので、この時点では真田家の相続権を持っていませんでした。 真田家はこのころ甲斐(山梨県)と信濃を支配する武田家に仕えており、昌幸は7才の時に人質として武田信玄の元に送られます。 幼い頃から信玄にその才能を見出され、寵愛を受けたと言われています。 その後、成長した昌幸は跡継ぎのいない武藤家の養子となり

    真田昌幸はどうして表裏比興の者と呼ばれたのか?
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    kenjou 2016/01/22
    歴史の読み物ブログを更新しました。今回は真田昌幸についてです。
  • 小早川秀秋はどうして関ヶ原の戦いで東軍に寝返ったのか?

    小早川秀秋は関ヶ原の戦いにおいて西軍を裏切り、東軍の勝利を決定づけたことで知られています。 その一点でのみ歴史に名を残している、と言ってもよいでしょう。 しかし秀秋がどのような来歴の人物であったのかはあまり知られていません。 この文章ではそのあたりに触れつつ、秀秋がどうして東軍に寝返ったのかについて書いてみようと思います。 【小早川秀秋の肖像】 秀吉の養子になり、後継者候補として育つ秀秋は天下人・豊臣秀吉の義理の甥として誕生しました。 父は木下家定といい、秀吉の・ねねの兄です。 能寺の変が発生した1582年に生まれています。 3才の時に実子のいない秀吉の養子として引き取られ、ねねの元で成長することになりました。 元服して羽柴秀俊を名のり、わずか6才の時に諸大名からの起請文を受け取ったり、秀吉の代理として天皇への誓いを受け取るなど、公的な場での活動が認められます。 (秀秋は生涯で何度か姓

    小早川秀秋はどうして関ヶ原の戦いで東軍に寝返ったのか?
    kenjou
    kenjou 2016/01/20
    歴史の読み物ブログを更新しました。今回は小早川秀秋についてです。
  • 真田幸村(信繁) はどのような人物だったのか?

    真田幸村は大坂の陣で活躍し、「日一の兵(つわもの)」とまで称された武将です。 戦国時代の最後の戦いを飾った武将として半ば伝説化したため、美化して語られることが多い人物でもあります。 この文章では、そんな幸村がどのような生涯を送った人物だったのか、について書いてみます。 【真田幸村の肖像画】 実名は信繁「幸村」というのは後世の軍記物などに記された名前であり、「信繁」というのが歴史上では正しい名前です。 この文章では、よく知られた幸村の名で呼んでいきたいと思います。 さて、信繁は父の真田昌幸によって付けられた名前ですが、これにはどのような意味が込められているでしょう。 信繁というと、同名で著名な人物に武田信繁がいます。 武田信繁は武田信玄の弟で、人望が厚く、兄をよく補佐し、その代理として戦場で大将を務めることがあるほどに信任されていました。 上杉謙信と信玄が争った「川中島の合戦」で戦死してお

    真田幸村(信繁) はどのような人物だったのか?
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    kenjou 2016/01/19
    歴史の読み物ブログを更新しました。
  • 明智光秀と羽柴秀吉はどうして織田氏を衰退させたのか?

    織田信長を能寺で殺害し、織田氏の覇権を打ち砕いたのは明智光秀ですが、その後さらに織田氏の力をそいでいったのが羽柴秀吉でした。 明智光秀と羽柴秀吉、このふたりには意外と多くの共通点があるようです。 この文章ではそのあたりに触れ、どうして信長によってその身分を大きく引き上げられたこの2人が、織田氏を衰退させるふるまいに出たのか、そのあたりを考えてみたいと思います。 【明智光秀の肖像】 明智光秀と羽柴秀吉、それぞれの不鮮明な出発点明智光秀は美濃の豪族・明智氏の出身で、もともとは城持ちの家に生まれたと言われています。 明智氏は美濃を200年に渡って支配した名門、土岐氏の一族であったとされ、事実だとするとなかなかの家柄だと言えます。 しかし土岐氏の支族は美濃に数十家もあり、土岐氏の一族だったとしても必ずしも身分が高かったとは言えないようで、むしろ低い身分の出身だったという説もあります。 伝聞調で続

    明智光秀と羽柴秀吉はどうして織田氏を衰退させたのか?
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    kenjou 2016/01/17
    歴史の読み物ブログを更新しました。