タグ

wakaに関するnabinnoのブックマーク (32)

  • 藤原敏行 - Wikipedia

    藤原 敏行(ふじわら の としゆき)は、平安時代前期の貴族・歌人・書家。藤原南家巨勢麻呂流、陸奥出羽按察使・藤原富士麻呂の長男[1]。官位は従四位上・右兵衛督。三十六歌仙の一人。 経歴[編集] 貞観8年(866年)少内記。大内記・蔵人を経て、貞観15年(873年)従五位下に叙爵し、中務少輔に任ぜられる。のち、清和朝では大宰少弐・図書頭、陽成朝では因幡守・右兵衛権佐を歴任し、元慶6年(882年)従五位上に叙せられた。仁和2年(886年)右近衛少将。 宇多朝に入ると、仁和4年(888年)五位蔵人に任ぜられるが1年ほどで病気により辞任している。寛平6年(894年)右近衛権中将、寛平7年(895年)蔵人頭と要職を歴任し、寛平8年(896年) 正月に従四位下に叙せられるが、同年4月病気により蔵人頭も半年ほどで辞任した。またこの間、春宮大進/亮として春宮・敦仁親王にも仕えている。 寛平9年(897年)

    藤原敏行 - Wikipedia
  • 『秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる』現代語訳と解説

    このテキストでは、古今和歌集に収録されている歌「秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる」のわかりやすい現代語訳・口語訳と解説、そして品詞分解を記しています。

    『秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる』現代語訳と解説
  • 桜はいつ日本の花になったのか - 令和和歌所(歌塾・あかね歌会)

    人間とは不思議なもので、自分達の土地やアイデンティティを象徴するものとして「花」を選ぶ傾向にあるようです。 家紋にはじまり町、市の花、県の花。これが国単位になると「国花」(国の象徴とされる花)となります。国花の例をあげますと、中国は「牡丹」と「梅」、アメリカは「バラ」と「セイヨウオダマキ」です。 では日の国花はなんでしょう? 知らなくてもなんとなく分かりますよね、そう「桜」と「菊」です。 菊の愛好家はそれほど多くないかもしれませんが、桜は広く国民に愛され、まさに「日の花」だと納得の存在感を誇っています。 三月も終わりになると「桜前線北上中!」などとこぞってメディアも囃し立て、いざ開花となれば花の下で宴会に興じる。一種の花に対するこの熱狂ぶりは、他の国にはない現象かもしれませんね。 さてこの「桜」ですが、いつからこんなにも愛されるされる存在になったんでしょう? 古今和歌集。それは醍醐天皇

    桜はいつ日本の花になったのか - 令和和歌所(歌塾・あかね歌会)
  • 古今和歌集 - Wikipedia

    「古今和歌集仮名序」(巻子) 仮名序の冒頭。「古今倭歌集序」と最初に書くが、通常の『古今和歌集』の伝にはこの題はない。12世紀ごろの書写で国宝に指定されている。大倉集古館蔵。 『古今和歌集』(こきんわかしゅう)とは、平安時代の歌集。全二十巻。勅撰和歌集として最初に編纂されたもの[注 1]。醍醐天皇の命により編纂され、905年に奏上された。後世の勅撰和歌集の範となり、国風文化・日文学に影響をのこした。略称を『古今集』(こきんしゅう)という。 成立[編集] 『古今和歌集』は二つの序文を持つ。仮名で書かれた仮名序と、漢文で書かれた真名序である[注 2]。仮名序によれば、醍醐天皇の勅命により『万葉集』に選ばれなかった古き時代の歌から撰者たちの時代までの和歌を撰んで編纂し、延喜5年(905年)4月18日に奏上された[注 3]。ただし現存する『古今和歌集』には、延喜5年以降に詠まれた和歌も入れら

    古今和歌集 - Wikipedia
  • 古今和歌集とは何か ~日本美の原点を知る~ - 二条流 令和和歌所

    古今和歌集とは何か? それは端的に「美の結晶」です。 つまり古今集を語ることは、美について語るのと同意なのです。 うわべをさらっておくと延喜五年(西暦905年)、醍醐天皇の勅命により紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑らによって編纂された最初の勅撰和歌集。総歌数はおよそ1100首、万葉集に倣って巻二十の体裁をとり、仮名序および真名序を備えた構成は以後の勅撰和歌集の手となりました。これを名づけて「古今和歌集」と言ふ! その最大の特徴が時間的推移による歌の配列です。万葉集にも一部(巻一、二)に時系列による配列がみられますが、古今集はこの配列こそが歌集の肝となっており、歌集という集合物の価値が最大限に発揮されています。 →関連記事「万葉集の代表歌、歌風、選者そして歴史をざっと知る!」 実例として、巻一(春)から数首見てみましょう。 1「年のうちに春はきにけり一年を 去年とやいはむ今年とやいはむ

    古今和歌集とは何か ~日本美の原点を知る~ - 二条流 令和和歌所
  • 恋の和歌はなぜつまらないか? - 二条流 令和和歌所

    恋の和歌はなぜつまらないか? 世間一般では「今と変わらぬ恋心に胸キュン必至!」と無条件に礼賛されている感がありますが、 正直申し上げて、恋の和歌は面白いものではありません。 一応断っておくと、全ての恋の和歌がつまらないと言っているのではありません。 中には男の私がウットリするような歌もあります。 だが大半は、つまらない。 では早速その「つまらない」代表例を古今和歌集からあげてみましょう。 487「ちはやふる 加茂の社の 木綿襷 ひと日も君を かけぬ日はなし」 489「駿河なる 田子の浦浪 たたぬひは あれとも君を こひぬ日はなし」 508「いで我を 人なとがめそ おほ舟の ゆたのたゆたに 物思ふころぞ」 493「たぎつ瀬の 中にも淀は ありてふを なと我恋の 淵瀬ともなき」 509「伊勢の海に 釣りする海女の 浮子なれや 心ひとつを 定めかねつる」 534「人しれぬ 思ひをつねに するがな

    恋の和歌はなぜつまらないか? - 二条流 令和和歌所
  • 万葉集その二十七(雁が音:かりがね) | 万葉集遊楽

    秋は渡り鳥の季節です。 渡ってくる鳥は色々ありますが特に日人に印象深かったのは雁でした。 古代の人はその秋、渡ってきた雁の声を聞き漏らすまいと熱心に耳を傾けました。 初めて渡来した雁を「初雁」 その声を「雁が音」という美しい言葉で表し、 そしていつの間にか「かりがね」は雁の別名となったのです。 雁はその名のごとく「グヮングヮン」とか「カリカリ」と心に染透るように鳴きます。 またその整然と空を渡るさまは神々しささえ感じさせ「天つ雁」とか 「遠つ人、雁」とも呼ばれ霊鳥とされていました。 「さ雄鹿の どふ時に 月をよみ 雁が音聞こゆ 今来(く)らしも 」 巻10の2131 作者未詳 「月をよみ」月が良いという意味で ( 皓々と光があたりを照らして 良い月夜だなぁ。 を求めて雄鹿が鳴いている。 あれっ 遠くから雁の鳴き声まで聞こえてきたよ。 今年も初雁がやって来たらしいなぁ。 まるで鹿と雁の

    万葉集その二十七(雁が音:かりがね) | 万葉集遊楽
  • 仏足石歌 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "仏足石歌" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年3月) 仏足跡歌碑 拓 仏足石歌(ぶっそくせきか)は、仏足石(仏足跡)の歌とも呼び、薬師寺の仏足跡歌碑に刻まれた21首の歌、およびそれと同じ歌体を持つ和歌を言う。 薬師寺の仏足石歌[編集] 奈良薬師寺には、仏足石とともに仏足跡歌碑があり、「恭仏跡」(仏徳を賛えたもの)17首、「呵責生死」(世の無常の道理を説いて仏道を勧めるもの)4首の仏教歌謡が、一字一音の万葉仮名で刻まれている。 仏足石は天武天皇の孫・文屋智努(文室浄三、智努王)が753年(天平勝宝5年)亡き夫人(また

  • 幽玄 - Wikipedia

    幽玄(ゆうげん)とは、文芸・絵画・芸能・建築等、諸々の芸術領域における日文化の基層となる理念の一つ。 来は仏教や老荘思想など、中国思想の分野で用いられる漢語であったが、平安時代後期から鎌倉時代前期の代表的歌人であり、千載和歌集を撰集した藤原俊成により、和歌を批評する用語として多く用いられて以来、歌論の中心となる用語となった。同じ歌道の理念である有心(うしん)とともに並び用いられることが多いが、来は別の意味の言葉である。 その後、能楽・禅・連歌・茶道・俳諧など、中世・近世以来の日の芸術文化に影響を与え続け、今日では一般的用語としても用いられるに至っている。 概要[編集] 物事の趣が奥深くはかりしれないこと。また、そのさま。 趣きが深く、高尚で優美なこと。また、そのさま。 気品があり、優雅なこと。また、そのさま。 上品でやさしいこと。そのさま。 中古の「もののあはれ」を受け継ぐ、中世の

  • アララギ - Wikipedia

    『アララギ』(あららぎ)は、日の短歌結社誌。1903年(明治36年)に伊藤左千夫をはじめとした正岡子規門下の歌人らが集まった根岸短歌会の機関誌『馬酔木』を源流とし、1908年(明治41年)に左千夫や蕨真一郎を中心に『阿羅々木』として創刊。翌年、島木赤彦が創刊した『比牟呂』と合併し、『アララギ』と改題された[1][2]。 歴史[編集] 編集体制は当初左千夫を中心とし、古泉千樫、斎藤茂吉、石原純らが交替で編集にあたった。しかし編集主任であった千樫の編集体制のもとでは遅刊休刊が続き、左千夫が死去する直前の1913年(大正2年)には茂吉らとの内部分裂が深刻となり、休刊・廃刊も視野に入るほどの危機に陥った。茂吉は赤彦に窮状を訴え、業を煮やした赤彦が長野県から上京。編集発行人を一時的に千樫から茂吉に交代した。1914年(大正3年)6月より赤彦らと親交の深い岩波茂雄が経営する岩波書店にて販売取扱いを始

  • 結社 - Wikipedia

    結社(けっしゃ、英語:association)は、共通の目的のために組織される継続的な団体のこと。なお、associationは協会と訳されることが多いが、協会は結社の一形態である。 概要[編集] 人類の社会形成の歴史の中で血縁と地縁が2大紐帯原理であるが、約束に基づく紐帯原理も原始農耕に前後する時代まで遡れる[1]。一定の約束のもとに個人で形成される約縁集団を利益集団、または結社と呼ぶ。個を重視する結社の仕組みは近代思想への足掛かりとなり、人々の流動性が高まった近世以降の都市社会の発達とともに、多くの人々がなんらかの組織に帰属するようになった。結社は自己実現を目的とした集団として、アイデンティティの拠り所となっていった。 綾部恒雄は結社について次のように定義している。 なんらかの共通の目的・関心を満たすために、一定の約束のもとに、基的には平等な資格で、自発的に加入した成員によって運営さ

  • 三十六歌仙 - Wikipedia

    成立の過程[編集] 『三十六人歌仙伝』、『袋草紙』、『後拾遺抄注』他、諸典籍からの研究による成立過程は、寛弘5年(1008年)、公任が前十五番歌合(十五人の左右組で合計三十人)を編んだ時に、貫之を一番左方、人麻呂を十五番の左方に配し、貫之を人麻呂の上においた。そのため人麻呂を評価する具平親王との優劣論争となり、それぞれが選んだ秀歌十首ずつを出しあい番えたところ、人麻呂の勝となった(十首歌合。散逸)。その結果を受け、公任は前十五番歌合を発展させて三十人撰を撰び(散逸)、具平親王はそれを改撰した(歌仙歌合)。翌年の具平親王の薨去からまもなくの時期に、公任は三十人撰を改訂し三十六人撰を完成させたと見られている。この時点で七人増えたものの、元の三十人から清原深養父が外されて三十六人となった。 三十六歌仙扁額[編集] 三重県伊賀市の敢國神社(伊賀国一宮)には三重県指定有形文化財とされる三十六歌仙扁額

    三十六歌仙 - Wikipedia
  • 梨壺の五人 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "梨壺の五人" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2020年10月) 梨壺の五人(なしつぼのごにん)とは、天暦5年(951年)村上天皇の命により、平安御所七殿五舎の一つである昭陽舎に置かれた和歌所の寄人である。昭陽舎の庭には梨の木が植えられていたことから梨壺と呼ばれた。『万葉集』の解読、『後撰和歌集』の編纂などを行った。 以下の五人である。 大中臣能宣 源順[1] 清原元輔 坂上望城 紀時文 脚注[編集]

  • 歌会始 - Wikipedia

    1950年頃、宮中歌会始 歌会始(うたかいはじめ)は、和歌(短歌)を披露しあう「歌会」で、その年の始めに行うものを指す。現在では、年頭に行われる宮中での「歌会始の儀」が特に有名。 概要[編集] 元々は、上代にて皇族・貴族等が集い和歌(短歌)を披露しあう「歌会」で、その年の始めに行うものを指す。 今日では宮中歌会始(後述)の他に、京都冷泉家(公家の流れを汲む)で行なわれているものが有名である。冷泉家では、狩衣や袿などの平安装束を身にまとい、数十名が集って行なわれるもので、京都の風物詩として、毎年マスコミ報道[1]、古文教科書(資料集)で紹介される。 この他に、一般の和歌教室(短歌会)で、講師や生徒が年始に歌を披露しあう集いを「歌会始」と呼ぶところもある。 宮中歌会始[編集] 歴史[編集] 起源は必ずしも明らかではないが、鎌倉中期には、『外記日記』に亀山天皇期の文永4年(1267年)1月15日

    歌会始 - Wikipedia
  • 連歌 - Wikipedia

    この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2020年5月) 連歌(れんが)は、日の古来に普及した伝統的な詩形の一種。5・7・5の発句と7・7の脇句の,長短句を交互に複数人で連ねて詠んで一つの歌にしていく。奈良時代に原型ができ、平安時代半ばに長短2句を唱和する短連歌が流行して、やがて連ねて長く読まれる長連歌になり、鎌倉時代初期に50、100、120句と連ね、同後期に100句を基型とする形式の百韻が主流となる。南北朝時代から室町時代にかけて大成されたが、戦国時代末に衰えた。多人数による連作形式を取りつつも、厳密なルール(式目)を基にして全体的な構造を持つ。百韻を単位として千句、万句形式や五十韻、歌仙(36句)形式もある。和歌の強い影響の下に成立し、後に俳

    連歌 - Wikipedia
  • 藤原定家 - Wikipedia

    藤原 定家(ふじわら の さだいえ/ていか)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家・歌人。藤原北家御子左流、正三位・藤原俊成の二男。最終官位は正二位・権中納言。京極殿または京極中納言と呼ばれた。『小倉百人一首』の撰者で権中納言定家を称する。 概要[編集] 平安時代末期から鎌倉時代初期という激動期を生き、歌道における御子左家の支配的地位を確立。日の代表的な歌道の宗匠として永く仰がれてきた。 2つの勅撰和歌集『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』を撰進したほか、秀歌撰に『定家八代抄』がある。歌論書に『毎月抄』『近代秀歌』『詠歌大概』があり、歌取りなどの技法や心と詞との関わりを論じている。家集に『拾遺愚草』がある。拾遺愚草は六家集のひとつに数えられる。また、宇都宮頼綱に依頼され『小倉百人一首』を撰じた。定家自身の作で百人一首に収められているのは、「来ぬ人を まつほの浦の夕凪に 焼くや藻塩の

    藤原定家 - Wikipedia
  • 歌道 - Wikipedia

    歌道(かどう)とは、和歌の創作や和歌自体に関する学問(歌論・歌学)を追究する学芸を道に擬えたもの。 概要[編集] 『万葉集』が編纂された奈良時代より和歌が日語による唯一の文芸であるという自覚が芽生えつつあったが、『古今和歌集』が編纂された10世紀初め頃より、漢詩の紀伝道(文章道)に対抗して「うたのみち」が唱えられるようになった。紀貫之の邸宅で開かれた曲水宴の際に作られた『三月三日紀師匠曲水宴(紀師匠曲水宴和歌)』の序文を書いた凡河内躬恒が「うたのみち」と述べたのが代表的な事例である。更に『古今和歌集』が編纂された醍醐天皇の治世が「延喜の治」と称されたことから、勅撰和歌集の編纂と聖代思想が結びつくことになった。更に遣唐使廃止後の唐風文化の衰退と国風文化の高揚が、歌会・歌合などの行事を活発化させ、それにつれてより良い和歌を作成するために必要であると考えられた歌題・題意の組織化と規範化、和歌に

  • 冷泉為人 - Wikipedia

    冷泉 為人(れいぜい ためひと、1944年3月2日 - )は、兵庫県出身の日美術史家。専攻は近世絵画史。上冷泉家第25代当主。 略歴[編集] 兵庫県加古郡稲美町生まれ。旧姓名、松尾勝彦。上冷泉家第24代当主冷泉為任および布美子夫の長女貴実子と結婚し、旧華族で伯爵家の上冷泉家を継ぐ。冷泉勝彦を名乗っていた時期もあるが、上冷泉家歴代当主の通字に合わせるため、のち正式に為人と改名。 兵庫県立加古川西高等学校を経て、1968年(昭和43年)、関西学院大学文学部美学科卒業。1973年(昭和48年)、関西学院大学大学院文学研究科美学美術史専攻博士課程修了。 1978年(昭和53年)、大手前女子大学専任講師。1983年(昭和58年)、大手前女子大学助教授。1993年(平成5年)、大手前女子大学教授。 1996年(平成8年)、池坊学園理事評議員。1999年(平成11年)、池坊短期大学学長。2002年(

  • 二条派 - Wikipedia

    二条派(にじょうは)は、中世における和歌の流派。 藤原北家御堂流である御子左家は、藤原俊成・定家・為家と和歌の家としての地位を確立した。為家の子二条為氏は大覚寺統に近侍して歌壇を馳せていた。為氏の庶弟為教・為相と相続をめぐって不和となり、為教は京極家、為相は冷泉家に分家した。二条為氏の子為世、京極為教の子為兼の代になると、二条家嫡流の二条派は大覚寺統(のちの南朝)と結んで保守的な家風を墨守し、一方の京極派は持明院統(のちの北朝)と結んで破格・清新な歌風を唱えた。二条派と京極派は互いに激しく対立して勅撰和歌集の撰者の地位を争った。二条派は「玉葉和歌集」「風雅和歌集」「新続古今和歌集」以外の勅撰和歌集を独占したが、二条派の実権は為世に師事していた僧頓阿に移っており、さらに二条家の嫡流は為世の孫の為遠の失態によって足利義満の不興を買い、その子為衡の死によって断絶してしまう。 その後秘伝は、東氏(

  • 冷泉家 - Wikipedia

    冷泉家(れいぜいけ)は、藤原北家御子左家の流れを汲む公家・華族だった家。上冷泉家と下冷泉家があり、公家としての家格はいずれも羽林家、華族としての家格は上冷泉が伯爵家、下冷泉が子爵家だった[2]。歌道の宗匠家の内の一つで冷泉流歌道を伝承している。 歴史[編集] 冷泉家発足から上下冷泉家への分裂まで[編集] 御子左家の権大納言藤原為家の四男である権中納言冷泉為相を祖とする[1]。家名は為相が二条京極北の冷泉小路に住したことに由来する[1]。 なお為家の長男為氏の家系は御子左家(二条家)、次男為教の家系は京極家となっている[1]。為家の没後、為相に譲られた播磨国細川庄、また歌論・歌風、大覚寺統・持明院統の両皇統の対立、勅撰集などをめぐって二条家と冷泉家の間で対立が起きた[1][3]。この争いのために為相はしばしば鎌倉に下向したので鎌倉幕府と関係を深め、鎌倉歌壇に影響力を持つようになり、将軍久明親

    冷泉家 - Wikipedia