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  • 小野ほりでい on Twitter: "オタク(趣味)の性質が、昔は「集団・主流の雰囲気に馴染まない人が個人的に没頭する何か」みたいなイメージだったけど、最近は「同じことについてみんなと一緒に盛り上がるスキル」を要求するものにシフトしてるように感じることがある。この変化でオタクになった人と逆に疎外された人もいるのでは?"

    オタク(趣味)の性質が、昔は「集団・主流の雰囲気に馴染まない人が個人的に没頭する何か」みたいなイメージだったけど、最近は「同じことについてみんなと一緒に盛り上がるスキル」を要求するものにシフトしてるように感じることがある。この変化でオタクになった人と逆に疎外された人もいるのでは?

      小野ほりでい on Twitter: "オタク(趣味)の性質が、昔は「集団・主流の雰囲気に馴染まない人が個人的に没頭する何か」みたいなイメージだったけど、最近は「同じことについてみんなと一緒に盛り上がるスキル」を要求するものにシフトしてるように感じることがある。この変化でオタクになった人と逆に疎外された人もいるのでは?"
    • <男対女>はなぜ終わらないか? 「逆エコーチェンバー」現象の仕組み|小野ほりでい

      皆さんは「エコーチェンバー」とか「サイバーカスケード(集団極性化)」とかいったワードをご存知でしょうか?どちらも、主にネット上で「同じような思想を持った集団が形成されて歯止めが効かなくなり、思想が過激化する」ような現象をさす概念ですね。 しかし、今回はこの「エコーチェンバー」や「サイバーカスケード」のように、「外部から見た集団」が極性化するという見方自体が認知バイアスであり得るという暴論を打ち立てたいと思います。 以前、この問題を「ごはん派」と「パン派」の対話になぞらえて、その本質が「反パン派」と「反ごはん派」という泥沼の闘争の文脈に横滑りする様子を簡易的に図で表現したことがあります。これがその図です。 △対話と闘争には境界がない! ここでは、「ごはんはおいしいよ」とか「パンもおいしいよ」が建設的な意見、そして「ごはんはまずい!」「パンは消滅すべき!」というのが不毛な論争だと受け取ってくだ

        <男対女>はなぜ終わらないか? 「逆エコーチェンバー」現象の仕組み|小野ほりでい
      • 「性善説の人」はなぜ争うのか|小野ほりでい

        相反する立場で争っている人間たちが互いに極度に似通っているということはあまり珍しくないが、ネット上では特にその傾向は強いように思われる。 特に、加害者と被害者、強者と弱者といった二元論的対立は、最終的には互いが相手のほうこそ加害者であり、真の被害者は我々のほうであるといったふうな堂々巡りに帰着することが多いが、こういった議論では立場Xと立場Yがそれぞれの加害性の否認にリソースを割いてしまい、その加害性を必然たらしめている構造Zにまで及ぶことが少ない。 そして、二元論的な対立では「差別対反差別」のような、一見するとどちらが正義でどちらが悪かはっきりしているような問題でも、糾弾する側とされる側の勧善懲悪的世界観が「似通っている」ことが多く見られる。 それは差別だー差別ではない! ネット上の反差別運動とさらに反ー反差別運動を横断している大きな誤解とはまず、差別の有無を悪意の有無と厳密に結びつける

          「性善説の人」はなぜ争うのか|小野ほりでい
        • 最も残酷なのは、「誰でも幸せになれる世界」に住む人々|小野ほりでい

          不幸や理不尽の存在を抹消することによってこの世を「肯定」しようとする試みはどれほど善意で取り繕っても暴力という本質を外れない。この世に回避不可能な不幸や理不尽はなく、みな平等の可能性のもとに暮らしているという思い込みを公正世界信念などと呼んだりするが、なかでも自己責任論(すべての不幸には“原因”がある)はその最も単純な表現だろう。 「自由意志」には「責任」が伴っているという合理主義的な世界観は、ともすれば合理の存在し得ないところに合理を見出そうとする不合理に帰結する。つまり、「自由意志」に基づいて判断したから「責任」が生じるのではなく、「責任」を追及したい事件に対して遡及的に「自由意志」とか「判断の余地」が生じるのだ。世の中で「理不尽」な「不幸」があれば、必ずそこに駆けつけて「責任」や「自由意志」の存在を見出し、世界の合理性を保とうと試みる者が存在するが、これが自己責任論者の一般的な倫理で

            最も残酷なのは、「誰でも幸せになれる世界」に住む人々|小野ほりでい
          • 子どもを発生させることは善行ではない:トートロジー型出生賛美主義批判|小野ほりでい

            ある思想への批判や擁護がその思想自体ではなく「名前から想起される内容」をめぐって繰り広げられることは珍しくないが、反出生主義ほど「なんとなく生を否定するもの」として暴力的に利用されたり反対に糾弾される機会の多いものはないだろう。なかでもそのピントのずれた反出生主義批判の代表例として挙げられるのは「生を冒涜しておきながら生きているのは矛盾だ」とか「なぜ自殺しないのか」といったものである。 言うまでもなく、「反出生」とは生きることではなく生命を発生させること(つまり子供を産むこと)の是非についての主張であり、この是非をそのまま「生きることそのもの」に対して反映させることはできない。なぜなら、子どもは「生とはかくかくしかじかのものである」との十分な説明を受け、納得のうえで自発的に生まれるのではなく、他人の都合で勝手に生を授かるからである。 しかし、ここにある混同はむしろ注目に値する。つまり、「生

              子どもを発生させることは善行ではない:トートロジー型出生賛美主義批判|小野ほりでい
            • ”弱者”がなぜ”羨望”されるのか?ー「傷ついた」と言えない人たち|小野ほりでい

              さて、ネット上には傷ついていると主張する人にむかって「そんなことでいちいち傷つくな」とか「被害者ぶるな」とわざわざ唾を吐きかけにくる人が沢山いますね。一般論としては、この人たちは「自分の加害者性を認めていない」のだと批判されがちです。しかし、今回はむしろ「この人たちが認めていないのは自分の弱者性や被害者性のほうではないか」という視点の話をしてみたいと思います。 前半では、すでに何度か説明した「傷つきやすい人」に過敏反応する人ほど精神的に弱いという逆説について書いています。本題である「弱者への羨望」というねじれた現象に関しては後半から触れているので、必要な方は読み飛ばしてください。 傷つきやすい、“イノセント“な自己像 さて、「弱者をいたわるなんてとんでもない!」というマッチョ論は注意深く観察すれば必ずひとつの矛盾にぶつかることがわかります。「弱者をいたわるなんてとんでもない!」と主張する人

                ”弱者”がなぜ”羨望”されるのか?ー「傷ついた」と言えない人たち|小野ほりでい
              • 『被害者はなぜ”追撃”される? 冷笑系クラスタの仕組み|小野ほりでい』へのコメント

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                  『被害者はなぜ”追撃”される? 冷笑系クラスタの仕組み|小野ほりでい』へのコメント
                • 被害者はなぜ”追撃”される? 冷笑系クラスタの仕組み|小野ほりでい

                  皆さんは、自分の見ている前でいじめが起きているときに加害者と被害者のどちらに寄り添いたいと思いますか? 「当然、被害者だ」と答えたあなたは・・・たぶん、心の強い人です。世の中には、「加害者」と「被害者」が存在しているときに「加害者」のほうに加担することを選ぶ人が実は少なくありません。なぜそういうことになるのでしょうか? これには次のような理由があります。 △加害者と被害者、どっちに味方する? さて、世の中誰が本当の「加害者」で「被害者」なのかを見定めることは簡単ではありませんが・・・ここでは、単純に「いじめ」の加害者と被害者がいたとしましょう。 このとき、それを目撃したわたしたちは単純に図のAとBのように、「加害者側」に立ってそれを笑い飛ばすか、それとも「被害者側」に立って寄り添うかという選択を迫られます。 このとき、「加害者側」に立とうとするひとたちの動機はシンプルです。それは・・・ 被

                    被害者はなぜ”追撃”される? 冷笑系クラスタの仕組み|小野ほりでい
                  • 小野ほりでい on Twitter: "昨日、二時間ぐらいかけて作ったあと見返して「何だよこれ」となって貼らなかった画像見てください https://t.co/1fSFRM08ZF"

                    昨日、二時間ぐらいかけて作ったあと見返して「何だよこれ」となって貼らなかった画像見てください https://t.co/1fSFRM08ZF

                      小野ほりでい on Twitter: "昨日、二時間ぐらいかけて作ったあと見返して「何だよこれ」となって貼らなかった画像見てください https://t.co/1fSFRM08ZF"
                    • 『リアリストはなぜ話が通じないのか?|小野ほりでい』へのコメント

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                        『リアリストはなぜ話が通じないのか?|小野ほりでい』へのコメント
                      • リアリストはなぜ話が通じないのか?|小野ほりでい

                        どんな人も、何かを特別に重要だと考えることによって生きる糧にしています。その多くは、社会で成功してお金を稼ぐこととか、子供を育てることとか、あるいは信仰的なものかもしれませんが、もっと個人的なものに対する愛好を糧に生きている人はオタクなどと呼ばれたりしますね。 いずれにせよ、その「信じているものがある」から生きていける、という主観的な部分を取り沙汰すれば、どんな人もオタク的であるという言い方もできるかもしれません。 一方で、特別に個人的なものを糧にして生きている人にとって避けられないのは、「自分が信じている」ものの価値を冷笑されたり、否定されるという経験です。特に、趣味を持っている人は、以下のような物言いをする人たちに遭遇したことがあるかもしれません。 このような物言いをする人たちは、自分のことをリアリスト(現実主義者)だと言ったり、思っていたりするようです。リアリストにとって、自明に存在

                          リアリストはなぜ話が通じないのか?|小野ほりでい
                        • ピンフスキー on Twitter: "小野ほりでいさんも津田さんもそうだけど好き勝手インターネットやってきて今更自分だけ正しい世界に足抜けしようとしたら沼から手が出てきて足首掴んでくるんだよな"

                          小野ほりでいさんも津田さんもそうだけど好き勝手インターネットやってきて今更自分だけ正しい世界に足抜けしようとしたら沼から手が出てきて足首掴んでくるんだよな

                            ピンフスキー on Twitter: "小野ほりでいさんも津田さんもそうだけど好き勝手インターネットやってきて今更自分だけ正しい世界に足抜けしようとしたら沼から手が出てきて足首掴んでくるんだよな"
                          • 「井戸に毒」のデマに見る、「2ちゃんねる的インターネット」を引きずる人々|小野ほりでい

                            2021年2月13日の地震後、Twitterなどで「~~が井戸に毒を入れた」というデマが多数投稿されました(現在は多数のアカウントが凍結済み)。これは1923年の関東大震災後の(虐殺の発端ともなった)悪質なデマが再生産されたものですが、なかでも一部は「匿名掲示板型のアイロニー」という文脈によってパロディされたものであり、擁護する立場の者の主張によれば、これは「パロディ(つまりパロディ元への批判的な笑い)」―――すなわち「ネタ」であるので問題ではない、とのことです。 このような書き込みが「なぜ問題なのか」については、もはや説明するまでもないほどに論じ尽くされているので、今回はむしろ「なぜこのような書き込みが起こったのか」について考えてみましょう。 アイロニーとしてのパロディ さて、先ほど触れたように、この「悪質なデマのパロディ」および「これは政権による人工地震だ」というような「パラノイア的な

                              「井戸に毒」のデマに見る、「2ちゃんねる的インターネット」を引きずる人々|小野ほりでい
                            • ”いじめっ子”はなぜ崇拝されるのか?|小野ほりでい

                              最近では、閉鎖された組織内でのハラスメント体質が告発されたり、オンラインサロンの参加者が詐欺まがいの搾取を受けるといったニュースは特に珍しいものではありません。このタイプの「嗜虐的な」リーダーに追従する人たちは、自分の不利益をすすんで受け容れ、対等な関係を結んでくれないリーダーに対して献身的に尽くしますが、外部から見ればこれは不思議に見えて仕方ありません―――なぜ、自分を対等に扱ってくれる人よりも軽視する人のほうが、利益をもたらしてくれる人よりも搾取する人のほうが「カリスマ的」な崇拝を受けることになるのでしょうか? このような関係を紐解くためにたったひとつ、アンナ・フロイトが防衛機制のなかで特に重視した「攻撃者との同一視」という概念を導入したいと思います。フロイトは「攻撃者との同一視」を、幽霊を恐れる子どもが幽霊の格好を真似てその恐怖から逃れようとする態度にたとえます。自分に恐怖や不安を感

                                ”いじめっ子”はなぜ崇拝されるのか?|小野ほりでい
                              • 【パソコン】やばい人に絡まれた!どうしたらいい?【インターネット】|小野ほりでい

                                誰でもインターネットで発信したり、意見を言ったりすると変な人に絡まれることがありますね(現実でもそうですが)。中には極端に攻撃的な人がいて、怖くなって発信することをやめたり、何も言わないようになってしまう人も少なくないと思います。 攻撃的な人に遭遇したらふつうの人はびっくりして傷つきますし、その責任は傷ついた人にあるわけではありませんが、いくつかのことを知っておけばこういう人と遭遇したときに冷静に対処できるかもしれません。 そこで今回は、ネットにいる攻撃的な人は何を考えているのか、どうしてほしいのか、詳しく掘り下げてみたいと思います。 1.そもそもなんで攻撃するの? 大前提として知っておくべきなのは、「攻撃的な人」とは「精神的に不安定な人」だということです。ネット上にはよく、色んな人にけんかを売ってまわって、そのようにしている自分を「強い」と勘違いしている人がいますが、このような人は強いの

                                  【パソコン】やばい人に絡まれた!どうしたらいい?【インターネット】|小野ほりでい
                                • ゼロ和ゲームと「日本的な」貧困|小野ほりでい

                                  格差社会、つまり一見すると豊かな先進国における新しい貧困は、それまで当たり前に可能だったものが不可逆的に失われる形で進行する。私たちが日々目撃している限りでは、その貧困は社会から「無駄なもの」を省くという努力がますます貧困を促進するという皮肉な矛盾によって加速する。 この矛盾はシンプルに、「貧しい人が増えれば社会は貧しくなる」にも関わらず、社会は「貧しい人を増やすこと」を歓迎せずにはいられない、という形で発現する。 この新しい形式の貧困の最大の特徴は、貧困者それ自体が貧困者を憎悪する点にある。たとえばアメリカの白人貧困層は、格差社会やその上流にある富裕層ではなく、自分たちの仕事を奪う移民(つまり自分たちと同等の、あるいはそれ以上の弱者)を差別し、むしろ社会保障を縮小する新自由主義的な文脈での「保守派」に転じる。日本でもこのような光景は見るに事欠かない―――生活保護叩きや貧困者の救済を訴える

                                    ゼロ和ゲームと「日本的な」貧困|小野ほりでい
                                  • 女はなぜ「攻撃」されるか?―ミソジニーと母性|小野ほりでい

                                    「とにかく大勢の赤ん坊がイラついてるの―――ママがお乳をくれないからよ。お乳が欲しいと赤ん坊は泣き叫ぶ、ママが来たときには頭に来て乳首をかむ」 「ホント?」 「ええ 拒絶するの 空腹でもね」 「つまり母さんは大人も同じだと?望む物が得られず腹が立ち―――望む物がもらえたと思ったら今度は周りに八つ当たりを?」 「そうよ」(ミッドナイト・ゴスペル) 男はなぜ女を攻撃するのか、という疑問に答えられる人はいない。私たちが知っているのはその攻撃のパターン、たとえば構造的な差別や蔑視、アシッド・アタックのような直接的な暴力、それに言論による暴力、軽視、揶揄などである。 フェミニズムやジェンダー論のような体系だてられた議論は、これらの暴力の構造を分析してきたが、この「なぜ」という部分の問いに学術的な見地から「客観的な」答えを出すことは難しい。言ってみればこの問いは、小説を題材にした国語の問題がいう「この

                                      女はなぜ「攻撃」されるか?―ミソジニーと母性|小野ほりでい
                                    • 「お母さん食堂」のどこが問題なのか|小野ほりでい

                                      政府見通しによれば、2020年の出生数は5年連続で過去最少を更新しての84万人台にまで落ち込む。社会が継続するための最低条件である出生数の漸減は、そのまま私たちの社会が緩やかだが確実に破滅へと向かっていることを示している。 しかし、この傾向は日本に限らずほとんどの先進国が共通して抱えている問題であり、環境問題とならんで後期資本主義国が直面する大きな矛盾のひとつである。 恐れ多くも私見を述べさせてもらえば、そしていきなり結論から述べてしまえば、この問題の根本は市場原理―――生産的か非生産的か―――が社会全体を覆い尽くしてしまったことにある。 つまり、生産的<価値を生み出す>か非生産的<価値を生まない>の軸で考えれば、生産的な人間とは何らかの形で金銭を発生させる人間のことであり、価値をうまない「子ども」とは非生産的であるばかりか過大な金銭・時間的負担を要求するものでしかない。20年近くを費やし

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                                      • 【新型コロナウイルス】を軽視した2020年を振り返る|小野ほりでい

                                        新型コロナウイルスとともにあった2020年に私たちが知ったただひとつの事実は、よく言われるように、たとえ人類共通の危機にあっても人々は協調するどころか分裂し、仲違いするということだった。私たちの敗因は、ウイルスという見えないリスクへの認識を統一し、それに立ち向かうための共同の文化を形成できなかった点にある。 ウイルスのリスクは、まずその多寡の評価において分裂しており、続いてその[責任]の所在―――発生源である外国にあるのか、対策を怠る政府にあるのか、身勝手な市民にあるのか、あるいは[騒ぎ立てるマスコミ]にあるのか、といった具合に分岐する。 しかし、これらの「イデオロギー的な対立」は表層的なものであり、むしろこのリスクを「イデオロギー的に見る」こと自体がひとつの罠にはまっている。この前提を得るためにそもそもの「文化」の意義を振り返ってみたい。 自然には、人間のいかなる強制もあざ笑うようなさま

                                          【新型コロナウイルス】を軽視した2020年を振り返る|小野ほりでい
                                        • 「私がモテないのではなく、恋愛が流行ってない」という可能性|小野ほりでい

                                          せっかくのクリスマスなので恋愛の話をしてみよう。 「普通」の人は誰でも―――生殖をゴールとした異性愛としての―――恋愛、結婚をするものだという価値観は、文化・社会的な環境の変化によって実質的にそれが「普通」でなくなってからも根強い。 そして、この前時代的な価値観は、満足のいく恋愛状態にない場合、当然のことながら「普通」の人なら誰でもできることを自分はできていない、という劣等感を伴うことになるので、結果的には自らを追い込み呪うものに他ならない。 であれば、このような「普通」という概念は崩しておくのに越したことはないという話になるが、一方でこの「普通の恋愛」への信念は長い間自我の安定の役に立ってきたもので、おいそれと捨てるわけにはいかないものであることも確かだ。 しかし、それでも断言できることがあるとすれば、「普通の恋愛」なるものがあるとすれば、それができないからといって傷つくような時代はとっ

                                            「私がモテないのではなく、恋愛が流行ってない」という可能性|小野ほりでい
                                          • ”一発アウト”の文化 キャンセル・カルチャーに未来はあるか|小野ほりでい

                                            「あなたを応援していましたが、今回の発言には失望しました。これでもうファンをやめさせて頂きます。」 アメリカでは有名人や影響力のある発信者の言動をめぐって公の場に引きずり出し、罰したり恥じ入らせたりする文化がコールアウト・カルチャーと呼ばれるが、なかでも発信側の個人や企業に「深く失望」し、「あなたは用済みだ」と再起不能の烙印を押すような文化はキャンセル・カルチャーと呼ばれる。 キャンセル・カルチャーの支持者の視点では、この文化は権力者やマジョリティに対する「弱者のカウンター」であり、キャンセル・カルチャーの有効性を問い直すことはそれ自体が「強者への加担」だということになる。 しかし、実のところキャンセル・カルチャーという手法はイデオロギーをまたいで日常的に利用されている。たとえば有力者の差別・偏見に基づいた発言、ハラスメントや搾取を発端としたキャンセルはリベラル的な立場と結び付けられるが、

                                              ”一発アウト”の文化 キャンセル・カルチャーに未来はあるか|小野ほりでい
                                            • 『政治の話をやめて、猫や犬の画像でも見ましょう|小野ほりでい|note』へのコメント

                                              ブックマークしました ここにツイート内容が記載されます https://b.hatena.ne.jp/URLはspanで囲んでください Twitterで共有

                                                『政治の話をやめて、猫や犬の画像でも見ましょう|小野ほりでい|note』へのコメント
                                              • 政治の話をやめて、猫や犬の画像でも見ましょう|小野ほりでい

                                                cakesという媒体がこの2ヶ月で立て続けの炎上を経験している。3回目になる今回は、ざっくり言えば声優・文筆家のあさのますみさんが以前からcakesでの掲載に向けて準備していた友人の死にまつわる連載が、cakes1回目の炎上(DV被害を虚偽と決めつけた人生相談)、そして2回目の炎上(ホームレス取材記事)を受けて「センシティブな内容だから」という理由で反故にされ、掲載を拒否されてしまったというものだ。(詳しくは本人の記事を参照。) 言うまでもなく、この掲載拒否の動機は内容に関する倫理的な吟味によってではなく「炎上するかもしれないから、もう炎上したくないから」という消極的な理由によるもので、その判断が裏目に出てかえって炎上してしまった格好になる。 しかし、今回の件についてのcakes側の粗末な対応は、cakesが抱えている特別な問題ではなく、断言してもいいが、ほとんど全てのメディアで日常茶飯事

                                                  政治の話をやめて、猫や犬の画像でも見ましょう|小野ほりでい
                                                • ポリコレが抱える6つの脆弱性|小野ほりでい

                                                  皆さん、ポリコレは好きですか?好きですよね、分かります。 ポリティカル・コレクトネスの主だった機能のひとつは端的に言えば善の普遍化、あるいはガイドライン化です。ご存知のように人間社会には、「上司の酒は断るな」とか「みんなが残業しているのに新人が帰ってはいけない」とか「無理にしなくてもよい、というのはしたほうがよいという意味だ」というような数々の不文律が存在し、私のように共感性に乏しい人間はこのような明文化されていないルールに翻弄されながら生活しています。 しかし、倫理的なルールを明文化する動きとしてのポリティカル・コレクトネスは基本的にこういった「空気」的な概念と対立するものであり、なかでも「男ならこうだ」「女はこうすべきだ」といった差別的なものであれば批判的に検討可能にしてくれます。このために、私のように「空気を読む」のが苦手なタイプの人間は「書かれていないルール」を「書かれたルール」に

                                                    ポリコレが抱える6つの脆弱性|小野ほりでい
                                                  • サブカルはどこへ消えたか|小野ほりでい

                                                    たかだか十数年前まで、私たちはSNSやTwitterの「いいね」だの「フォロワー数」が何の意味もない幻だと”熟知”していた。しかし、そのたった十数年の間に、そこには信じられない速度で”意味”が付与され、一部ではもはやそれを除いては他に何も意味をなさないと言わんばかりに扱われるものになった。 意味のないものに意味が付与されるのに伴って、それまで意味を持っていた”何か”がその意味を喪失するという事態にも私たちは遭遇した。たとえば”サブカル”と略されるもの―――つまりかつてアニメやオタク文化までを含んで包括されていたメインストリームに抗う文化群のうちから、いまではメインストリームと化したアニメーオタク文化を除いたもの―――が表現されてきたコンテクストは急速に不可視化され、主流でない文化はそもそも何に抗っていたのか、どのような人々にどのような思いで支持されてきたかについて私たちは知る由もなくなりつ

                                                      サブカルはどこへ消えたか|小野ほりでい
                                                    • どうしてインターネットの人は喧嘩ばかりするの?|小野ほりでい

                                                      まさひろくん、質問ありがとう。どうしてインターネットの大人たちはけんかばかりするのか、ということについては、大人たちもいつも考えていることだけれど、よく分かっていないね。でも、まさひろくんのような子どもだちは、将来、いまの大人のように愚かな争いに加担してほしくないから、知っている範囲で説明できたらと思う。 「ハグとキス」とは何か 今のテレビはもはや、視聴者に何を感じるべきか教えるものだ。もう、何を考えるべきか教えるものではない。 『イーストエンダーズ』からリアリティ番組に至るまで、あなたは他人の感情を旅する。そして編集によってテレビは、みなが合意できる感情のあり方をやさしく伝えてくるのだ。僕はそれを「ハグとキス」と呼んでいる。 この表現は、マーク・レイブンヒルの秀れた論評から借用したものだが、それによると、今日のテレビを分析すれば、それは誰が「嫌な気持ち」、そして誰が「いい気持ち」を経験し

                                                        どうしてインターネットの人は喧嘩ばかりするの?|小野ほりでい
                                                      • HSPブームと”カジュアル”心理学|小野ほりでい

                                                        恐れていたHSPブームが来てしまいました。 メディアを信じ、自分がそうなのかもと思ってしまう人に罪はありません。しかし存在しない病名や耳障りのいいことだけ呟き安心させる専門家は罪です。。(´・_・`) HSPに当てはまる気がする背景に、何か別の病気がないかをきちんと考える必要があります。 — 藤野智哉@精神科医 (@tomoyafujino) September 20, 2020 HSP<Highly Sensitive Person,とても敏感な人>という精神的カテゴリが脚光を浴びつつあります。 Wikipediaによればその定義は「五感が鋭く、精密な中枢神経系を持ち、良い刺激にも、悪い刺激にも強く反応する感受性の強い人達(テッド・ゼフ)」とのことで、ざっくりと受け容れられているように「繊細/敏感な人」という意味になるでしょう。 しかし、「あなたは繊細な人ですか、それとも鈍感なほうですか

                                                          HSPブームと”カジュアル”心理学|小野ほりでい
                                                        • 憎悪は自分を苦しめますねって話|小野ほりでい

                                                          現代は個性の時代です。どこもかしこも「ありのままの自分を受け入れよう」というメッセージで溢れかえっています。言われてそれができれば苦労はないのだが、と私たちは思います。実際には社会に受け入れられるのは「生産性のある」人間だけではないか、と。 「頑張らなくていいよ」と歌手が勝手に許してくれます。そうしたいのは山々だが、そうさせてくれないのは社会じゃないか、と私たちは思います。そう言うのは簡単かもしれないが、頑張らなかった責任を取らされるのは結局自分ではないか、と。そうです、誰になんと言われて行動を取ったとしても、最終的に責任を取るのは自分です。 「そうはいっても仕方ないのだから」という事情で、私たちは自分の願望ないし主体性を捻じ曲げ、しまいには他者の要請するままに自己を最適化してしまいます。何をそんなに頑張っているのか、と問われた私は「頑張るしかないからだ」と答えます。そうしたいと自分で感じ

                                                            憎悪は自分を苦しめますねって話|小野ほりでい
                                                          • 『非モテは不幸だという呪い|小野ほりでい|note』へのコメント

                                                            ブックマークしました ここにツイート内容が記載されます https://b.hatena.ne.jp/URLはspanで囲んでください Twitterで共有

                                                              『非モテは不幸だという呪い|小野ほりでい|note』へのコメント
                                                            • 雁琳(がんりん) on Twitter: "非モテは不幸だという呪い|小野ほりでい @onoholiday #note https://t.co/19d7nLCrPZ この文章、結論にも行論にも全く同意出来ないが、「アップデートされた」啓蒙主義的な哲学の最大の問題点が実は見事なまでに明らかになっている。"

                                                              非モテは不幸だという呪い|小野ほりでい @onoholiday #note https://t.co/19d7nLCrPZ この文章、結論にも行論にも全く同意出来ないが、「アップデートされた」啓蒙主義的な哲学の最大の問題点が実は見事なまでに明らかになっている。

                                                                雁琳(がんりん) on Twitter: "非モテは不幸だという呪い|小野ほりでい @onoholiday #note https://t.co/19d7nLCrPZ この文章、結論にも行論にも全く同意出来ないが、「アップデートされた」啓蒙主義的な哲学の最大の問題点が実は見事なまでに明らかになっている。"
                                                              • 非モテは不幸だという呪い|小野ほりでい

                                                                人間ははじめ無能の役立たずとして産声をあげ、そして遅かれ早かれ無能の役立たずになって死んでいくものである。人間の本質を有用さと無能さのどちらに置くかで迷ったら、まず後者と考えて間違いないだろう。したがって、私たち人間は大なり小なり自分の無能さを受け容れなければ立ち行かなくなる時がやってくる―――無能な自分に対する否定的感情は、自分自身に対してか、それを転嫁された他人に対する攻撃として結末するだろう。相模原障害者施設殺傷事件などはその結末の一例である。 無能で役立たずな自分に対する愛情を私は自己肯定感と呼んでいる。しかし、無能で役立たずな人間に対する愛情のまなざしを示すもっと普遍的な名前がある。人権である。人権は、どのような人にも変わらない条件で一様に存在している。私が人権を、ほかの何を差し置いても最も偉大な発明だと感じざるを得ないのは、それが存在するという主張なしには存在し得なかったものだ

                                                                  非モテは不幸だという呪い|小野ほりでい
                                                                • 感覚派ヒューマニストの世界|小野ほりでい

                                                                  インターネットによって席巻したポリティカル・コレクトネス的な善は、私たちが潜在的に持っていた性善説的な願望を打ち砕いた。ハラスメント、差別、偏見、ジェンダーバイアスといった議論が旧い世代にある種の衝撃と分断をもたらしたのは、これらが内包している「悪への無自覚」という視点のためである。これまで悪とはヒーロショー的な二元論によって管理されるもの―――つまり「悪人が・悪意を持って」なす所業とみなされ、「一般的な善人である私たち」と隔てられているものとして描写されてきた。 ポスト・ポリティカルコレクトネス時代の悪の議論は、「何も考えていなくても」なんとなく善人でいられた私たちに、これまで無自覚のうちに権威勾配の「上に」立っていたこと、知らないうちに差別や偏見を実践していたこと、あるいは階層的な構造に加担していることを自覚させ、悪が否認されたエデンの園から罪悪の蔓延る地上まで叩き落とした。ここで起こ

                                                                    感覚派ヒューマニストの世界|小野ほりでい
                                                                  • 成り上がりコンプレックス|小野ほりでい

                                                                    性別や境遇、社会的地位など「自分が不幸なのは〇〇だから」と”属性”のせいにするのは楽ですが、これは単に根本的な問題から目を逸らしてるだけなので、なにも解決しないまま時が過ぎてゆきます。 — 深爪 (@fukazume_taro) September 7, 2020 先日、タイムラインに上のようなつぶやきが漂着して来ました。皆さんは、これを読んで「その通りだ」と思うでしょうか、それとも「うーん…」と感じるでしょうか。個人的な話をすれば、数年前までの自分なら「その通り」だと思っていただろうし(というより、まんまこういう文章を書いたことがあります)、今は「怖いな」と感じる部分もあります。 まず、この文章に関して私たちが賛同すべき部分をあげると、自分に起きている問題をすべて環境や境遇に帰結していると一種の宿命論的な諦観が身につき、自分の行動や問題に対する関わり方という主体性にかかる部分に責任が持て

                                                                      成り上がりコンプレックス|小野ほりでい
                                                                    • 『無思想はなぜヤバいのか|小野ほりでい』へのコメント

                                                                      ブックマークしました ここにツイート内容が記載されます https://b.hatena.ne.jp/URLはspanで囲んでください Twitterで共有

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                                                                      • 無思想はなぜヤバいのか|小野ほりでい

                                                                        ヤバい思想、と言われると皆さんが思い浮かべるのはなんでしょうか。ファシズムや全体主義?差別主義?優性思想?それとも宗教的原理主義? この世に数多ある危険思想のなかで、ユダヤ人哲学者・思想家のハンナ・アーレントが最も重大視したのは「無思想」でした。 無思想、ノンポリ、無宗教…という「無属性」なステータスを自認していることは私たちの国では取り立てて珍しいものではありません。実際、多くの人は自分は「偏った考え方」に染まっておらず、「普通の感覚を持った/普通の日本人」であるというふうに考えています。よく異文化から揶揄されるように私たちは、「他の人と違う」ことに漠然とした恐怖を持っており、「普通であること」、そして「特定の立場や意見を主張しないこと」によって他の人たちとの温かい連帯関係の中に存在できます。 しかし実のところ、この「自分は普通の感覚を持っている」という自認こそが危険な状態だ、というのが

                                                                          無思想はなぜヤバいのか|小野ほりでい
                                                                        • 小野ほりでい on Twitter: "男ですけど… https://t.co/W4wBr9K6Uh"

                                                                          男ですけど… https://t.co/W4wBr9K6Uh

                                                                            小野ほりでい on Twitter: "男ですけど… https://t.co/W4wBr9K6Uh"
                                                                          • 性がゲーム化することとその弊害について|小野ほりでい

                                                                            やはり僕らの社会においてセックスは、金銭とはまったく別の、もうひとつの差異化のシステムなのだ。そして金銭に劣らず、冷酷な差異化システムとして機能する。(中略)何割かの人間は毎日セックスする。何割かの人間は人生で五、六度セックスする。そして一度もセックスしない人間がいる。何割かの人間は何十人もの女性とセックスする。何割かの人間は誰ともセックスしない。これがいわゆる「市場の法則」である。(「闘争領域の拡大」、M・ウエルベック) 私たちの暮らしている社会は、「闘争領域の拡大」から四半世紀を経てもその世界観を寸分違わぬ形で再現しているばかりか、むしろその傾向を加速さえしている

                                                                              性がゲーム化することとその弊害について|小野ほりでい
                                                                            • 『反出生主義はやさしさの塊|小野ほりでい』へのコメント

                                                                              ブックマークしました ここにツイート内容が記載されます https://b.hatena.ne.jp/URLはspanで囲んでください Twitterで共有

                                                                                『反出生主義はやさしさの塊|小野ほりでい』へのコメント
                                                                              • 反出生主義はやさしさの塊|小野ほりでい

                                                                                どうやら、「反出生主義」と聞くと反射的に不快な感情を抱く人が多いようだ。確かに、内容をよく知らずに字面だけを見ると自分が不幸に暮らしているだけの人がその主観を人類全体に拡大して「産むな」と生命そのものを呪っているような印象を受けるかも知れないし、実際にそういう側面もあるだろう。生まれたこと、存在していることが幸福であるか苦痛であるかなんてその本人にしか決められないし、場合によっては本人にも分からない。しかしそれは逆に言えば、産んでおけば何がなんでも感謝してもらえるわけでもないということを示している。 それはともかくとして、どっちにしろこの反出生主義という考え方は時代にマッチしていてとても有用な側面があり、脊髄反射で否定するには勿体ない代物ではないかと思う。なにも反出生主義という立場に立って、その思想に同調しなくとも、視点として持っておくだけでよいのだから。 ”とりあえず”産むか産まないか

                                                                                  反出生主義はやさしさの塊|小野ほりでい
                                                                                • 炎上マーケティングしたときに起こること|小野ほりでい

                                                                                  Go Toでちょっと高い旅館に泊まったら、大失敗。出てきた夕食がこれ。さらに天麩羅とごはん、お吸い物。多すぎて到底食べきれない。シニア層がメインターゲットのはずなので、つまり廃棄前提(としか思えないし、実際にかなりの廃棄が出ているはず)。不味くはないけど、体験価値としては…… pic.twitter.com/hw3xsCQTfM — よりかね けいいち@子どもに伝えたいIT/メディアリテラシー(noteサークル) (@k_yorikane) August 10, 2020 先日、「旅館で出てきた料理が多すぎる」という苦言風のtweetが拡散し、結果的に宣伝効果があったこと、そして発信者のプロフィールに「田端大学」というキーワードがあったことから「炎上マーケティングではないか」と話題になりました。 この田端信太郎という方を調べてみると、以前にも「コロナ禍で同業者が倒産すれば競合が減るのだから

                                                                                    炎上マーケティングしたときに起こること|小野ほりでい