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小野ほりでいの検索結果1 - 40 件 / 65件

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小野ほりでいに関するエントリは65件あります。 社会note考え方 などが関連タグです。 人気エントリには 『無思想はなぜヤバいのか|小野ほりでい』などがあります。
  • 無思想はなぜヤバいのか|小野ほりでい

    ヤバい思想、と言われると皆さんが思い浮かべるのはなんでしょうか。ファシズムや全体主義?差別主義?優性思想?それとも宗教的原理主義? この世に数多ある危険思想のなかで、ユダヤ人哲学者・思想家のハンナ・アーレントが最も重大視したのは「無思想」でした。 無思想、ノンポリ、無宗教…という「無属性」なステータスを自認していることは私たちの国では取り立てて珍しいものではありません。実際、多くの人は自分は「偏った考え方」に染まっておらず、「普通の感覚を持った/普通の日本人」であるというふうに考えています。よく異文化から揶揄されるように私たちは、「他の人と違う」ことに漠然とした恐怖を持っており、「普通であること」、そして「特定の立場や意見を主張しないこと」によって他の人たちとの温かい連帯関係の中に存在できます。 しかし実のところ、この「自分は普通の感覚を持っている」という自認こそが危険な状態だ、というのが

      無思想はなぜヤバいのか|小野ほりでい
    • 「自分が我慢していることをお前も我慢しろ」という心理|小野ほりでい

      人間が備えている認知バイアスのうちもっとも凶悪なものは、自分の経験した苦労はそれがどれほど無意味なものであろうと有益だったと考えたがる傾向だろう。生が本質的に不合理なものである以上、僕たちは不可避的に全く無意味な労苦や不幸に見舞われる―――しかもこれといった理由もなく。人は、そういった不合理が耐えがたいために、自分の経験した不幸や労苦には何らかの意味があったと正当化することで精神の平衡を保とうとするのだ。 たとえば、ある会社の新入社員は毎年全く根拠のない精神論的訓練で構成された研修で人格否定を受けるのが習わしになっているとしよう。罵倒されたり大声を出したり走り回ったりわけのわからない文言を復唱させられたりする。これらの経験はその時ばかりは耐えがたい屈辱、無意味な苦行に過ぎないが、時間を経るほどに記憶に対してはこの経験を正当化しなければならないという力がはたらく。すると、これらの苦痛の経験が

        「自分が我慢していることをお前も我慢しろ」という心理|小野ほりでい
      • 【コロナ】怖がってくれない人たちについて|小野ほりでい

        今回のコロナ禍では、世界中で「どうしてそうなるの?」と疑問に思うようなできごとがたくさん起きていますね。記憶に新しいのは、テキサスで「ウイルスはデマだ」と考えていた30歳の男性が罹患者と触れ合ういわゆる「コロナパーティ」に参加し、死亡したというニュース(付記:このニュース自体がデマではないかという指摘もあります)です。 人間は何らかのリスクに直面すると(生命でなく)精神を防衛するためにさまざまな策をめぐらすのですが、この性質についてよく知っておくと今起きていること、今後起こるであろうことに対する理解が深まるかもしれません。今から書く見方は仮定を多分に含みますが、身近な考える足がかりにしていただければと思います。 頑なにリスクを認めない人 さて、まず問題になるのはどんなに説得してもリスクを認めようとしない人々のことです。コロナは単なる風邪だとか、昔からある病気だから今までどおりに過ごすべきだ

          【コロナ】怖がってくれない人たちについて|小野ほりでい
        • 炎上マーケティングしたときに起こること|小野ほりでい

          Go Toでちょっと高い旅館に泊まったら、大失敗。出てきた夕食がこれ。さらに天麩羅とごはん、お吸い物。多すぎて到底食べきれない。シニア層がメインターゲットのはずなので、つまり廃棄前提(としか思えないし、実際にかなりの廃棄が出ているはず)。不味くはないけど、体験価値としては…… pic.twitter.com/hw3xsCQTfM — よりかね けいいち@子どもに伝えたいIT/メディアリテラシー(noteサークル) (@k_yorikane) August 10, 2020 先日、「旅館で出てきた料理が多すぎる」という苦言風のtweetが拡散し、結果的に宣伝効果があったこと、そして発信者のプロフィールに「田端大学」というキーワードがあったことから「炎上マーケティングではないか」と話題になりました。 この田端信太郎という方を調べてみると、以前にも「コロナ禍で同業者が倒産すれば競合が減るのだから

            炎上マーケティングしたときに起こること|小野ほりでい
          • 政治の話をやめて、猫や犬の画像でも見ましょう|小野ほりでい|note

            cakesという媒体がこの2ヶ月で立て続けの炎上を経験している。3回目になる今回は、ざっくり言えば声優・文筆家のあさのますみさんが以前からcakesでの掲載に向けて準備していた友人の死にまつわる連載が、cakes1回目の炎上(DV被害を虚偽と決めつけた人生相談)、そして2回目の炎上(ホームレス取材記事)を受けて「センシティブな内容だから」という理由で反故にされ、掲載を拒否されてしまったというものだ。(詳しくは本人の記事を参照。) 言うまでもなく、この掲載拒否の動機は内容に関する倫理的な吟味によってではなく「炎上するかもしれないから、もう炎上したくないから」という消極的な理由によるもので、その判断が裏目に出てかえって炎上してしまった格好になる。 しかし、今回の件についてのcakes側の粗末な対応は、cakesが抱えている特別な問題ではなく、断言してもいいが、ほとんど全てのメディアで日常茶飯事

              政治の話をやめて、猫や犬の画像でも見ましょう|小野ほりでい|note
            • 被害者はなぜ”追撃”される? 冷笑系クラスタの仕組み|小野ほりでい

              皆さんは、自分の見ている前でいじめが起きているときに加害者と被害者のどちらに寄り添いたいと思いますか? 「当然、被害者だ」と答えたあなたは・・・たぶん、心の強い人です。世の中には、「加害者」と「被害者」が存在しているときに「加害者」のほうに加担することを選ぶ人が実は少なくありません。なぜそういうことになるのでしょうか? これには次のような理由があります。 △加害者と被害者、どっちに味方する? さて、世の中誰が本当の「加害者」で「被害者」なのかを見定めることは簡単ではありませんが・・・ここでは、単純に「いじめ」の加害者と被害者がいたとしましょう。 このとき、それを目撃したわたしたちは単純に図のAとBのように、「加害者側」に立ってそれを笑い飛ばすか、それとも「被害者側」に立って寄り添うかという選択を迫られます。 このとき、「加害者側」に立とうとするひとたちの動機はシンプルです。それは・・・ 被

                被害者はなぜ”追撃”される? 冷笑系クラスタの仕組み|小野ほりでい
              • 非モテは不幸だという呪い|小野ほりでい|note

                人間ははじめ無能の役立たずとして産声をあげ、そして遅かれ早かれ無能の役立たずになって死んでいくものである。人間の本質を有用さと無能さのどちらに置くかで迷ったら、まず後者と考えて間違いないだろう。したがって、私たち人間は大なり小なり自分の無能さを受け容れなければ立ち行かなくなる時がやってくる―――無能な自分に対する否定的感情は、自分自身に対してか、それを転嫁された他人に対する攻撃として結末するだろう。相模原障害者施設殺傷事件などはその結末の一例である。 無能で役立たずな自分に対する愛情を私は自己肯定感と呼んでいる。しかし、無能で役立たずな人間に対する愛情のまなざしを示すもっと普遍的な名前がある。人権である。人権は、どのような人にも変わらない条件で一様に存在している。私が人権を、ほかの何を差し置いても最も偉大な発明だと感じざるを得ないのは、それが存在するという主張なしには存在し得なかったものだ

                  非モテは不幸だという呪い|小野ほりでい|note
                • リアリストはなぜ話が通じないのか?|小野ほりでい

                  どんな人も、何かを特別に重要だと考えることによって生きる糧にしています。その多くは、社会で成功してお金を稼ぐこととか、子供を育てることとか、あるいは信仰的なものかもしれませんが、もっと個人的なものに対する愛好を糧に生きている人はオタクなどと呼ばれたりしますね。 いずれにせよ、その「信じているものがある」から生きていける、という主観的な部分を取り沙汰すれば、どんな人もオタク的であるという言い方もできるかもしれません。 一方で、特別に個人的なものを糧にして生きている人にとって避けられないのは、「自分が信じている」ものの価値を冷笑されたり、否定されるという経験です。特に、趣味を持っている人は、以下のような物言いをする人たちに遭遇したことがあるかもしれません。 このような物言いをする人たちは、自分のことをリアリスト(現実主義者)だと言ったり、思っていたりするようです。リアリストにとって、自明に存在

                    リアリストはなぜ話が通じないのか?|小野ほりでい
                  • 【新型コロナウイルス】を軽視した2020年を振り返る|小野ほりでい

                    新型コロナウイルスとともにあった2020年に私たちが知ったただひとつの事実は、よく言われるように、たとえ人類共通の危機にあっても人々は協調するどころか分裂し、仲違いするということだった。私たちの敗因は、ウイルスという見えないリスクへの認識を統一し、それに立ち向かうための共同の文化を形成できなかった点にある。 ウイルスのリスクは、まずその多寡の評価において分裂しており、続いてその[責任]の所在―――発生源である外国にあるのか、対策を怠る政府にあるのか、身勝手な市民にあるのか、あるいは[騒ぎ立てるマスコミ]にあるのか、といった具合に分岐する。 しかし、これらの「イデオロギー的な対立」は表層的なものであり、むしろこのリスクを「イデオロギー的に見る」こと自体がひとつの罠にはまっている。この前提を得るためにそもそもの「文化」の意義を振り返ってみたい。 自然には、人間のいかなる強制もあざ笑うようなさま

                      【新型コロナウイルス】を軽視した2020年を振り返る|小野ほりでい
                    • 反出生主義はやさしさの塊|小野ほりでい

                      どうやら、「反出生主義」と聞くと反射的に不快な感情を抱く人が多いようだ。確かに、内容をよく知らずに字面だけを見ると自分が不幸に暮らしているだけの人がその主観を人類全体に拡大して「産むな」と生命そのものを呪っているような印象を受けるかも知れないし、実際にそういう側面もあるだろう。生まれたこと、存在していることが幸福であるか苦痛であるかなんてその本人にしか決められないし、場合によっては本人にも分からない。しかしそれは逆に言えば、産んでおけば何がなんでも感謝してもらえるわけでもないということを示している。 それはともかくとして、どっちにしろこの反出生主義という考え方は時代にマッチしていてとても有用な側面があり、脊髄反射で否定するには勿体ない代物ではないかと思う。なにも反出生主義という立場に立って、その思想に同調しなくとも、視点として持っておくだけでよいのだから。 ”とりあえず”産むか産まないか

                        反出生主義はやさしさの塊|小野ほりでい
                      • 「井戸に毒」のデマに見る、「2ちゃんねる的インターネット」を引きずる人々|小野ほりでい

                        2021年2月13日の地震後、Twitterなどで「~~が井戸に毒を入れた」というデマが多数投稿されました(現在は多数のアカウントが凍結済み)。これは1923年の関東大震災後の(虐殺の発端ともなった)悪質なデマが再生産されたものですが、なかでも一部は「匿名掲示板型のアイロニー」という文脈によってパロディされたものであり、擁護する立場の者の主張によれば、これは「パロディ(つまりパロディ元への批判的な笑い)」―――すなわち「ネタ」であるので問題ではない、とのことです。 このような書き込みが「なぜ問題なのか」については、もはや説明するまでもないほどに論じ尽くされているので、今回はむしろ「なぜこのような書き込みが起こったのか」について考えてみましょう。 アイロニーとしてのパロディ さて、先ほど触れたように、この「悪質なデマのパロディ」および「これは政権による人工地震だ」というような「パラノイア的な

                          「井戸に毒」のデマに見る、「2ちゃんねる的インターネット」を引きずる人々|小野ほりでい
                        • 「傷つかない心」の危うさ|小野ほりでい

                          メンタリストDaiGo 4年で変わってしまったな。 他人に人生をコントロールされてしまっている…。 pic.twitter.com/xXnoHzGmxK — こがねぃ (@koganeaki25) July 24, 2020 先日、Twitterで上のような発言が流れてきた。かつて悪口や批判に対して「相手にしなければ影響はない」「気にするのは他人に人生をコントロールされることだ」と表明していたメンタリストDaiGoさんが誹謗中傷に対する徹底抗戦の構えを見せたという、言ってみれば180°の方向転換について指摘するものだ。 「心の強さ」という概念に関しては私たちはまだ知らない部分が多いらしく、一定の持論や自負のある人がその「強さ」の秘訣についてレクチャーを試みたあとに何らかの方向転換を迫られるという事態は存外よく起こる。たとえば「死ぬこと以外かすり傷」という勇ましいタイトルの著者である箕輪厚介

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                          • ポリコレが抱える6つの脆弱性|小野ほりでい|note

                            皆さん、ポリコレは好きですか?好きですよね、分かります。 ポリティカル・コレクトネスの主だった機能のひとつは端的に言えば善の普遍化、あるいはガイドライン化です。ご存知のように人間社会には、「上司の酒は断るな」とか「みんなが残業しているのに新人が帰ってはいけない」とか「無理にしなくてもよい、というのはしたほうがよいという意味だ」というような数々の不文律が存在し、私のように共感性に乏しい人間はこのような明文化されていないルールに翻弄されながら生活しています。 しかし、倫理的なルールを明文化する動きとしてのポリティカル・コレクトネスは基本的にこういった「空気」的な概念と対立するものであり、なかでも「男ならこうだ」「女はこうすべきだ」といった差別的なものであれば批判的に検討可能にしてくれます。このために、私のように「空気を読む」のが苦手なタイプの人間は「書かれていないルール」を「書かれたルール」に

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                            • HSPブームと”カジュアル”心理学|小野ほりでい

                              恐れていたHSPブームが来てしまいました。 メディアを信じ、自分がそうなのかもと思ってしまう人に罪はありません。しかし存在しない病名や耳障りのいいことだけ呟き安心させる専門家は罪です。。(´・_・`) HSPに当てはまる気がする背景に、何か別の病気がないかをきちんと考える必要があります。 — 藤野智哉@精神科医 (@tomoyafujino) September 20, 2020 HSP<Highly Sensitive Person,とても敏感な人>という精神的カテゴリが脚光を浴びつつあります。 Wikipediaによればその定義は「五感が鋭く、精密な中枢神経系を持ち、良い刺激にも、悪い刺激にも強く反応する感受性の強い人達(テッド・ゼフ)」とのことで、ざっくりと受け容れられているように「繊細/敏感な人」という意味になるでしょう。 しかし、「あなたは繊細な人ですか、それとも鈍感なほうですか

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                              • ”一発アウト”の文化 キャンセル・カルチャーに未来はあるか|小野ほりでい|note

                                「あなたを応援していましたが、今回の発言には失望しました。これでもうファンをやめさせて頂きます。」 アメリカでは有名人や影響力のある発信者の言動をめぐって公の場に引きずり出し、罰したり恥じ入らせたりする文化がコールアウト・カルチャーと呼ばれるが、なかでも発信側の個人や企業に「深く失望」し、「あなたは用済みだ」と再起不能の烙印を押すような文化はキャンセル・カルチャーと呼ばれる。 キャンセル・カルチャーの支持者の視点では、この文化は権力者やマジョリティに対する「弱者のカウンター」であり、キャンセル・カルチャーの有効性を問い直すことはそれ自体が「強者への加担」だということになる。 しかし、実のところキャンセル・カルチャーという手法はイデオロギーをまたいで日常的に利用されている。たとえば有力者の差別・偏見に基づいた発言、ハラスメントや搾取を発端としたキャンセルはリベラル的な立場と結び付けられるが、

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                                • サブカルはどこへ消えたか|小野ほりでい

                                  たかだか十数年前まで、私たちはSNSやTwitterの「いいね」だの「フォロワー数」が何の意味もない幻だと”熟知”していた。しかし、そのたった十数年の間に、そこには信じられない速度で”意味”が付与され、一部ではもはやそれを除いては他に何も意味をなさないと言わんばかりに扱われるものになった。 意味のないものに意味が付与されるのに伴って、それまで意味を持っていた”何か”がその意味を喪失するという事態にも私たちは遭遇した。たとえば”サブカル”と略されるもの―――つまりかつてアニメやオタク文化までを含んで包括されていたメインストリームに抗う文化群のうちから、いまではメインストリームと化したアニメーオタク文化を除いたもの―――が表現されてきたコンテクストは急速に不可視化され、主流でない文化はそもそも何に抗っていたのか、どのような人々にどのような思いで支持されてきたかについて私たちは知る由もなくなりつ

                                    サブカルはどこへ消えたか|小野ほりでい
                                  • 最も残酷なのは、「誰でも幸せになれる世界」に住む人々|小野ほりでい

                                    不幸や理不尽の存在を抹消することによってこの世を「肯定」しようとする試みはどれほど善意で取り繕っても暴力という本質を外れない。この世に回避不可能な不幸や理不尽はなく、みな平等の可能性のもとに暮らしているという思い込みを公正世界信念などと呼んだりするが、なかでも自己責任論(すべての不幸には“原因”がある)はその最も単純な表現だろう。 「自由意志」には「責任」が伴っているという合理主義的な世界観は、ともすれば合理の存在し得ないところに合理を見出そうとする不合理に帰結する。つまり、「自由意志」に基づいて判断したから「責任」が生じるのではなく、「責任」を追及したい事件に対して遡及的に「自由意志」とか「判断の余地」が生じるのだ。世の中で「理不尽」な「不幸」があれば、必ずそこに駆けつけて「責任」や「自由意志」の存在を見出し、世界の合理性を保とうと試みる者が存在するが、これが自己責任論者の一般的な倫理で

                                      最も残酷なのは、「誰でも幸せになれる世界」に住む人々|小野ほりでい
                                    • 性がゲーム化することとその弊害について|小野ほりでい

                                      やはり僕らの社会においてセックスは、金銭とはまったく別の、もうひとつの差異化のシステムなのだ。そして金銭に劣らず、冷酷な差異化システムとして機能する。(中略)何割かの人間は毎日セックスする。何割かの人間は人生で五、六度セックスする。そして一度もセックスしない人間がいる。何割かの人間は何十人もの女性とセックスする。何割かの人間は誰ともセックスしない。これがいわゆる「市場の法則」である。(「闘争領域の拡大」、M・ウエルベック) 私たちの暮らしている社会は、「闘争領域の拡大」から四半世紀を経てもその世界観を寸分違わぬ形で再現しているばかりか、むしろその傾向を加速さえしている

                                        性がゲーム化することとその弊害について|小野ほりでい
                                      • 女はなぜ「攻撃」されるか?―ミソジニーと母性|小野ほりでい

                                        「とにかく大勢の赤ん坊がイラついてるの―――ママがお乳をくれないからよ。お乳が欲しいと赤ん坊は泣き叫ぶ、ママが来たときには頭に来て乳首をかむ」 「ホント?」 「ええ 拒絶するの 空腹でもね」 「つまり母さんは大人も同じだと?望む物が得られず腹が立ち―――望む物がもらえたと思ったら今度は周りに八つ当たりを?」 「そうよ」(ミッドナイト・ゴスペル) 男はなぜ女を攻撃するのか、という疑問に答えられる人はいない。私たちが知っているのはその攻撃のパターン、たとえば構造的な差別や蔑視、アシッド・アタックのような直接的な暴力、それに言論による暴力、軽視、揶揄などである。 フェミニズムやジェンダー論のような体系だてられた議論は、これらの暴力の構造を分析してきたが、この「なぜ」という部分の問いに学術的な見地から「客観的な」答えを出すことは難しい。言ってみればこの問いは、小説を題材にした国語の問題がいう「この

                                          女はなぜ「攻撃」されるか?―ミソジニーと母性|小野ほりでい
                                        • 「若者が投票に行かないせいで社会が悪くなる」という論理|小野ほりでい|note

                                          新型コロナウイルス感染症やコロナワクチンについては、必ず1次情報として厚生労働省や首相官邸のウェブサイトなど公的機関で発表されている発生状況やQ&A、相談窓口の情報もご確認ください。※非常時のため、すべての関連記事に本注意書きを一時的に出しています。 最近、コロナウィルスにまつわるドタバタ劇があったので、ふだんは滅多にそういうことを口にしない人物からも珍しく社会に対する不平不満というか、重い吐露のようなものが見受けられた。 そして、社会に対する不平不満に対しては最近では付き物になった例の口調、つまり個人の持っている不平不満の全ての原因はその張本人にあるのだという自己責任論的な調子で、「このように世の中が腐敗しているのは君たちが選挙に行かないからだ」と巡り巡って若者が責められているのを目にした。このような光景は珍しいものではないというか、誓って言うが、僕が物心ついたときから既に言われているの

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                                          • 感覚派ヒューマニストの世界|小野ほりでい|note

                                            インターネットによって席巻したポリティカル・コレクトネス的な善は、私たちが潜在的に持っていた性善説的な願望を打ち砕いた。ハラスメント、差別、偏見、ジェンダーバイアスといった議論が旧い世代にある種の衝撃と分断をもたらしたのは、これらが内包している「悪への無自覚」という視点のためである。これまで悪とはヒーロショー的な二元論によって管理されるもの―――つまり「悪人が・悪意を持って」なす所業とみなされ、「一般的な善人である私たち」と隔てられているものとして描写されてきた。 ポスト・ポリティカルコレクトネス時代の悪の議論は、「何も考えていなくても」なんとなく善人でいられた私たちに、これまで無自覚のうちに権威勾配の「上に」立っていたこと、知らないうちに差別や偏見を実践していたこと、あるいは階層的な構造に加担していることを自覚させ、悪が否認されたエデンの園から罪悪の蔓延る地上まで叩き落とした。ここで起こ

                                              感覚派ヒューマニストの世界|小野ほりでい|note
                                            • 政治的な発言は誰でもしていいよって話|小野ほりでい

                                              こんにちは!小野ほりでいだよ。 最近、SNSやネット上で政治的な発言や意見を目にする機会が多くなったね。僕は基本的に、ネットでは「ネコの画像とか面白い漫画のほうが見たい!」と思っているのだが、それでもいろんな意見が活発に出されているのは良いことだと思うね。なぜなら、色んな意見が自然に出されていてどれも不当に抑圧されていないというのは民主主義で大事な前提だからだ! でも最近、「有名人や音楽家は政治的な発言するな」とか「内容によらずもう意見自体を言うな」みたいなことを言う人たちも沢山いるように見えるね。それは少しまずいと思うので、少し面倒ではあるが今から書くことについて考えてほしいと思います。 △意見が異なっていても「言うな」とはならないのが民主主義じゃんね まず民主主義の国では「みんなの意見が違う」ということが前提になっているね。みんなそれぞれ立場や意見が違うのは当然だから、話し合って最適な

                                                政治的な発言は誰でもしていいよって話|小野ほりでい
                                              • 憎悪は自分を苦しめますねって話|小野ほりでい

                                                現代は個性の時代です。どこもかしこも「ありのままの自分を受け入れよう」というメッセージで溢れかえっています。言われてそれができれば苦労はないのだが、と私たちは思います。実際には社会に受け入れられるのは「生産性のある」人間だけではないか、と。 「頑張らなくていいよ」と歌手が勝手に許してくれます。そうしたいのは山々だが、そうさせてくれないのは社会じゃないか、と私たちは思います。そう言うのは簡単かもしれないが、頑張らなかった責任を取らされるのは結局自分ではないか、と。そうです、誰になんと言われて行動を取ったとしても、最終的に責任を取るのは自分です。 「そうはいっても仕方ないのだから」という事情で、私たちは自分の願望ないし主体性を捻じ曲げ、しまいには他者の要請するままに自己を最適化してしまいます。何をそんなに頑張っているのか、と問われた私は「頑張るしかないからだ」と答えます。そうしたいと自分で感じ

                                                  憎悪は自分を苦しめますねって話|小野ほりでい
                                                • 『反出生主義はやさしさの塊|小野ほりでい|note』へのコメント

                                                  Twitter連携機能をご利用のみなさまへ 代替手段として、ブックマーク完了後の共有メニューを新たに追加いたしました Twitter共有ダイアログの追加 こちらは、シェアアイコンがONの場合のみ表示されます Twitter・マストドン共有ボタンの追加

                                                    『反出生主義はやさしさの塊|小野ほりでい|note』へのコメント
                                                  • ピンフスキー on Twitter: "小野ほりでいさんも津田さんもそうだけど好き勝手インターネットやってきて今更自分だけ正しい世界に足抜けしようとしたら沼から手が出てきて足首掴んでくるんだよな"

                                                    小野ほりでいさんも津田さんもそうだけど好き勝手インターネットやってきて今更自分だけ正しい世界に足抜けしようとしたら沼から手が出てきて足首掴んでくるんだよな

                                                      ピンフスキー on Twitter: "小野ほりでいさんも津田さんもそうだけど好き勝手インターネットやってきて今更自分だけ正しい世界に足抜けしようとしたら沼から手が出てきて足首掴んでくるんだよな"
                                                    • 小野ほりでい on Twitter: "男ですけど… https://t.co/W4wBr9K6Uh"

                                                      男ですけど… https://t.co/W4wBr9K6Uh

                                                        小野ほりでい on Twitter: "男ですけど… https://t.co/W4wBr9K6Uh"
                                                      • 小野ほりでい|note

                                                        平気で生きるということ(β)のお知らせ(有料マガジン) 愛情に関して育ちの良い人は、基礎体力がちがう。 (「傘をひらいて、空を」 2013/8/20, 槙野さやか) いわゆる精神的に健全に育って、健全に生きている人を、そうでない側から見たときの感情としてこの言葉ほど適切なものはないと思う。体力が違う。 愛されて育った人は、適度に自分を愛し、余裕があって、そのぶん他人に自然に気をまわして、自然に愛されて暮らすことができる。自分の好きなことを自分の意志でして、そのことに満足しているので、他人に多くを求めないし、むやみに怒ったり嘆い

                                                          小野ほりでい|note
                                                        • 『無思想はなぜヤバいのか|小野ほりでい』へのコメント

                                                          Twitter連携機能をご利用のみなさまへ 代替手段として、ブックマーク完了後の共有メニューを新たに追加いたしました Twitter共有ダイアログの追加 こちらは、シェアアイコンがONの場合のみ表示されます Twitter・マストドン共有ボタンの追加

                                                            『無思想はなぜヤバいのか|小野ほりでい』へのコメント
                                                          • 攻撃的な人は強い人ではない|小野ほりでい

                                                            先日、ジャーナリストの伊藤詩織さんに対する名誉毀損で計3人が提訴されたのを受けて、うちの一人である漫画家のはすみとしこさんがSNS上で反応を示した。内容は伊藤さんに向けて、あなたの提訴の影響で私のところにも誹謗中傷が集まっているとか、自死した木村花さんを引き合いに出して「私がそうならないように注意すべきだ」というようなもので、端的に言えば自分を被害者の立場に置いて提訴してきている相手に甘えるようなものである。 ご存知でない方に説明すると、はすみさんは「そうだ難民しよう」という文言を加えて、他人の金でしたたかに生きているように演出した難民少女のイラストだとか、冒頭の顛末の原因となった、性被害者が実は枕営業を試みていたという趣旨のイラストに類する、勇ましい反リベラル的な風刺画を持ち味にしている方であり、このような弱々しい態度は少なからず意外な印象を受ける。 ネット上では特に、勇ましくふるまって

                                                              攻撃的な人は強い人ではない|小野ほりでい
                                                            • 小野ほりでい on Twitter: "昨日、二時間ぐらいかけて作ったあと見返して「何だよこれ」となって貼らなかった画像見てください https://t.co/1fSFRM08ZF"

                                                              昨日、二時間ぐらいかけて作ったあと見返して「何だよこれ」となって貼らなかった画像見てください https://t.co/1fSFRM08ZF

                                                                小野ほりでい on Twitter: "昨日、二時間ぐらいかけて作ったあと見返して「何だよこれ」となって貼らなかった画像見てください https://t.co/1fSFRM08ZF"
                                                              • 子どもを発生させることは善行ではない:トートロジー型出生賛美主義批判|小野ほりでい

                                                                ある思想への批判や擁護がその思想自体ではなく「名前から想起される内容」をめぐって繰り広げられることは珍しくないが、反出生主義ほど「なんとなく生を否定するもの」として暴力的に利用されたり反対に糾弾される機会の多いものはないだろう。なかでもそのピントのずれた反出生主義批判の代表例として挙げられるのは「生を冒涜しておきながら生きているのは矛盾だ」とか「なぜ自殺しないのか」といったものである。 言うまでもなく、「反出生」とは生きることではなく生命を発生させること(つまり子供を産むこと)の是非についての主張であり、この是非をそのまま「生きることそのもの」に対して反映させることはできない。なぜなら、子どもは「生とはかくかくしかじかのものである」との十分な説明を受け、納得のうえで自発的に生まれるのではなく、他人の都合で勝手に生を授かるからである。 しかし、ここにある混同はむしろ注目に値する。つまり、「生

                                                                  子どもを発生させることは善行ではない:トートロジー型出生賛美主義批判|小野ほりでい
                                                                • <男対女>はなぜ終わらないか? 「逆エコーチェンバー」現象の仕組み|小野ほりでい

                                                                  皆さんは「エコーチェンバー」とか「サイバーカスケード(集団極性化)」とかいったワードをご存知でしょうか?どちらも、主にネット上で「同じような思想を持った集団が形成されて歯止めが効かなくなり、思想が過激化する」ような現象をさす概念ですね。 しかし、今回はこの「エコーチェンバー」や「サイバーカスケード」のように、「外部から見た集団」が極性化するという見方自体が認知バイアスであり得るという暴論を打ち立てたいと思います。 以前、この問題を「ごはん派」と「パン派」の対話になぞらえて、その本質が「反パン派」と「反ごはん派」という泥沼の闘争の文脈に横滑りする様子を簡易的に図で表現したことがあります。これがその図です。 △対話と闘争には境界がない! ここでは、「ごはんはおいしいよ」とか「パンもおいしいよ」が建設的な意見、そして「ごはんはまずい!」「パンは消滅すべき!」というのが不毛な論争だと受け取ってくだ

                                                                    <男対女>はなぜ終わらないか? 「逆エコーチェンバー」現象の仕組み|小野ほりでい
                                                                  • どうしてインターネットの人は喧嘩ばかりするの?|小野ほりでい

                                                                    まさひろくん、質問ありがとう。どうしてインターネットの大人たちはけんかばかりするのか、ということについては、大人たちもいつも考えていることだけれど、よく分かっていないね。でも、まさひろくんのような子どもだちは、将来、いまの大人のように愚かな争いに加担してほしくないから、知っている範囲で説明できたらと思う。 「ハグとキス」とは何か 今のテレビはもはや、視聴者に何を感じるべきか教えるものだ。もう、何を考えるべきか教えるものではない。 『イーストエンダーズ』からリアリティ番組に至るまで、あなたは他人の感情を旅する。そして編集によってテレビは、みなが合意できる感情のあり方をやさしく伝えてくるのだ。僕はそれを「ハグとキス」と呼んでいる。 この表現は、マーク・レイブンヒルの秀れた論評から借用したものだが、それによると、今日のテレビを分析すれば、それは誰が「嫌な気持ち」、そして誰が「いい気持ち」を経験し

                                                                      どうしてインターネットの人は喧嘩ばかりするの?|小野ほりでい
                                                                    • 「他人の意見や考えを知るのが気持ち悪い」という感覚について|小野ほりでい

                                                                      最近はネット上が真面目な議論、とりわけポリティカル・コレクトネスとかジェンダー関連の話題で噴き上がることが多い。知り合いの何人かも、そこかしこが「意見」で溢れる傾向を気味悪がったり、嫌な時代になったというふうに嘆いたりしていて、同じようにストレスや負担に感じている人は少なくないのではないかと思う。 実際にはこういう「意見」とか「議論」がネット上を真っ黒に塗りつぶしているわけではないのだが、こういうことは一旦気になり始めるとそればかりが目につくようになるというのが必定で、この文章を読んでいる人の中にもそのことで悩んでいる人がいるのではないかと思う。 前提として言っておかなければならないのは、他人が真剣に言っていることを受け止めるのは、とりわけ何かに苦しんだり怒っている人が言うことに関しては、受け止めること自体が負担になるし、自分自身にその余裕がないと考えるのならば避けて通ることは全く問題ない

                                                                        「他人の意見や考えを知るのが気持ち悪い」という感覚について|小野ほりでい
                                                                      • 小野ほりでいが書いた記事 | オモコロ

                                                                        どうして、地球には分け合えばありあまるほどの資源があるのに、人々は憎しみ、奪い合い、富の豊かさを競うのでしょうか。そんな疑問を抱き、心はすさみ、路上で子供に切り餅を投げつけていた私を拾ってくれたのがオモコロでした。今ではオモコロスタッフ全員で切り餅を投げています。

                                                                          小野ほりでいが書いた記事 | オモコロ
                                                                        • 「お母さん食堂」のどこが問題なのか|小野ほりでい

                                                                          政府見通しによれば、2020年の出生数は5年連続で過去最少を更新しての84万人台にまで落ち込む。社会が継続するための最低条件である出生数の漸減は、そのまま私たちの社会が緩やかだが確実に破滅へと向かっていることを示している。 しかし、この傾向は日本に限らずほとんどの先進国が共通して抱えている問題であり、環境問題とならんで後期資本主義国が直面する大きな矛盾のひとつである。 恐れ多くも私見を述べさせてもらえば、そしていきなり結論から述べてしまえば、この問題の根本は市場原理―――生産的か非生産的か―――が社会全体を覆い尽くしてしまったことにある。 つまり、生産的<価値を生み出す>か非生産的<価値を生まない>の軸で考えれば、生産的な人間とは何らかの形で金銭を発生させる人間のことであり、価値をうまない「子ども」とは非生産的であるばかりか過大な金銭・時間的負担を要求するものでしかない。20年近くを費やし

                                                                            「お母さん食堂」のどこが問題なのか|小野ほりでい
                                                                          • "有用性"は精神病の入り口ではないか|小野ほりでい

                                                                            はじめに言っておくと、これから書くことはこの1年ほどを費やしてようやく考えるに至ったあることについて、前提をすっ飛ばして結論だけを書くような内容なので、わけがわからないということがあるかもしれない。同時に、もともと分かっている人からすれば全く意味のない内容かもしれない。いずれにせよ、あまり役に立つ文章ではないことを踏まえて最後まで読んでいただければと思う。 先日、相模原の障害者施設で入所者・職員計45人を刃物で死傷させた被告に死刑が言い渡された。この男は、その障害者施設で「他人のお金と時間を奪う重度障害者は死んだほうが良い」という確信的な意志を持って犯行に及んだという。報道によれば、この優生思想的な考え方は、世の政治家や実業家といった「合理主義的で生産性を重んじるような」著名人の発言を受けて総合的に肉付けされていったものであるらしい。実業家が功利主義的であったり新自由主義的に振舞うのは何も

                                                                              "有用性"は精神病の入り口ではないか|小野ほりでい
                                                                            • 『被害者はなぜ”追撃”される? 冷笑系クラスタの仕組み|小野ほりでい』へのコメント

                                                                              ブックマークしました ここにツイート内容が記載されます https://b.hatena.ne.jp/URLはspanで囲んでください Twitterで共有

                                                                                『被害者はなぜ”追撃”される? 冷笑系クラスタの仕組み|小野ほりでい』へのコメント
                                                                              • 成り上がりコンプレックス|小野ほりでい

                                                                                性別や境遇、社会的地位など「自分が不幸なのは〇〇だから」と”属性”のせいにするのは楽ですが、これは単に根本的な問題から目を逸らしてるだけなので、なにも解決しないまま時が過ぎてゆきます。 — 深爪 (@fukazume_taro) September 7, 2020 先日、タイムラインに上のようなつぶやきが漂着して来ました。皆さんは、これを読んで「その通りだ」と思うでしょうか、それとも「うーん…」と感じるでしょうか。個人的な話をすれば、数年前までの自分なら「その通り」だと思っていただろうし(というより、まんまこういう文章を書いたことがあります)、今は「怖いな」と感じる部分もあります。 まず、この文章に関して私たちが賛同すべき部分をあげると、自分に起きている問題をすべて環境や境遇に帰結していると一種の宿命論的な諦観が身につき、自分の行動や問題に対する関わり方という主体性にかかる部分に責任が持て

                                                                                  成り上がりコンプレックス|小野ほりでい
                                                                                • いつから恋愛は不可能になったか<ミグタウについて>|小野ほりでい

                                                                                  中学生や高校の時分には、よく「学生の本分は勉強だ」などと勉強以外の遊び、なかでも色恋ざたを咎めるようなことを言われ、大人たちに釘を刺されるものだ。そうして、それを真に受けた学生たちは浮ついた青春を繰り広げる周囲を尻目に本を読んだり勉強したりして、今に見ていろ、「将来」こっちのほうが正しかったと分かるんだから、と歯を食いしばる。 ところが大人になり、社会に出てみると、我慢したわりに何も楽しいことなどなく、怒られ、馬鹿にされ、非難され、ようやく「これからも暮らせる」程度の金銭が得られる。もしも何か「これのために頑張れる」と思えること、楽しいことや大切なものがあればそのために「暮らせる」かもしれないが、その楽しいことは「本分ではない」と学生の時代に置いてきたのだった。慌てて失くした青春を取り戻そうと各々のタイミングで努力を始めるが、そこでようやく気付くのは、大人に恋愛能力などもはやないということ

                                                                                    いつから恋愛は不可能になったか<ミグタウについて>|小野ほりでい

                                                                                  新着記事