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円安とは
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理不尽とは、人の姿をしている。 となりの職場に、こんな人がいる。自分の話しかしない。雑談ではなく、仕事の話でだ。一方的に、徹底的に、自分の立場を主張し、相手には耳を貸さない。命令と依頼が仕事の全て。 もちろん論理的な説明などできず、エンドレステープのようにしゃべるだけ。自分の仕事にプラスになるときのみ反応し、後は一切、聞こえない・訊かない・反応しない。take-takeもしくは「ずっとオレのターン」な人。 まるで、立場が服を着て立っているようで、不気味だ。論理がなく、ルールがない。だから、彼に渡った仕事はすべて止まる。誰にもどこにもバトンタッチされず、ひたすら仕事は腐っていく。間違った相手に誤った依頼を繰り返し、忌避されていることに気がつかない。周囲は「ああ、あの人か」と苦笑するだけで、関わらない。 いや、もちろん狂っていないのだが、そういう人に相対するとき、どういう気分になるだろうか?話
「セックスロボットは悪なのか」 という議論がある。 精巧につくられた等身大のドールで、触れると温かい。センサーとAIにより、ユーザーが望む反応を学習して応答する、ロボット工学と人工知能の粋を集めたアンドロイドだ。 愛情を深め合うコミュニケーション手段としてのセックスが蔑ろにされ、女性蔑視や暴力へつながるかもしれない。一方で、感染症の心配もなく安心して愛情を注げるパートナーに救われる人もいるだろう。 あるいは、 「アンドロイドが運転する車が事故を起こしたら、誰に責任を問うべきか?」 という議論がある。 AIは人間よりも安全運転できるだろうから、自動運転をベースとした車社会を設計すべきだという意見がある。一方で、プログラムや学習データの不具合によってAIが暴走する可能性は残されており、その影響は計り知れないという人もいる。 こうした議論は、論点が噛み合わないか、漠然とした話になりがちだ。意識と
ホラーは2種類ある。 血みどろ臓物、怨念呪殺、ゴシック、ゾンビ、モンスター、SF、サイコなど、人を震え上がらせるホラー作品は様々だ。だが、あらゆるホラーは2つに分けることができる。 この2つを分けるのは、「枠」だ。枠の内側に留まっているものと、枠の外に出てくるもので、ホラーは2つに分けることができる。 「枠」とは、私が便宜上そう呼んでいるもので、例えば、恐ろしい絵が収まっている額縁になる。アマプラでホラーを観ているならPCのベゼル(モニター枠)になる。映画館ならスクリーンを縁取るカーテンだし、紙の本で読んでるなら、文字の周囲の余白を「枠」と置き換えてほしい。 「枠」を越境するもの つまり「枠」とは、コンテンツと、コンテンツ外を分け隔てる境界のことだ。 私たちは、本を開くとき、ゲームをするとき、映画館の暗がりに身を潜めるとき、まさにそうした行為によって、現実ではないホラーが始まることを意識す
ウィトゲンシュタインの本のなかで、これが最も分かりやすい&面白い(当社比)。 数学という存在を、人の知性の産物である「発明」と捉える人がいる。いっぽうで、人が見出した世界の本質である「発見」と見なす人がいる。この議論は、[『神は数学者か』はスゴ本]にて語ったが、いずれの場合にせよ、数学の限界が(仮に)あるとしたならば、それは人の理性の限界であることは了解していただけるだろう。なぜなら、「発明」であれ「発見」であれ、主語が人である限り、その限界も人に属するからである。 ウィトゲンシュタインの講義は、数学の限界を見極める一方で、数学の底(もともとの了解事項)を明らかにしてくれる。 数学の底? そんなのユークリッド幾何学やヒルベルトの基礎付けを見るまでもなく、「定義」と「形式」でしょうに(あるいはそこから定義づけられる公理系といってもいい)。本書を手にするまでは、そう考えていた。だが、「発明」で
はじめに 好きな本を持ち寄って、まったり熱く語り合う読書会、それがスゴ本オフ。 本に限らず、映画や音楽、ゲームや動画、なんでもあり。なぜ好きか、どう好きか、その作品が自分をどんな風に変えたのか、気のすむまで語り尽くす。 この読書会の素晴らしいところは、「それが好きならコレなんてどう?」と自分の推し本から皆のお薦めが、芋づる式に出てくるところ。まさに、わたしが知らないスゴ本を皆でお薦めしあう会なのだ。 今回のテーマは「マンガ」、何回読んでも爆笑してしまう作品や、ヘコんだときに癒してくれる短編集、価値観の原点となったマスターピースなど、様々な作品が集まった。いわゆるコミック本に限らず、アニメーションや物語詩など、王道から知る人ぞ知るやつ、直球変化球取り揃えて、キリがないほど集まった。 ▼気になるマンガに手が伸びる ▼懐かしいものから未知の作品まで ▼マンガが縁で「読み友」が増える まず私ことD
研究不正について、私の認識が間違っているのかもしれない。もし誤っているのであれば、指摘してほしい。 まず、2つのケースを紹介する。次に、私の判断を述べる。 ケース1 薬剤Xがタンパク質の血中濃度を上昇させるという仮説検証のため、動物実験を行った。薬剤Xの投与で濃度の平均値は増加することが判明したが、統計学的検定ではp=0.06と、有意水準の0.05にわずかに届かなかった。教授に相談したところ、追加実験を行うこと、さらに実験のたびに検定をして、p<0.05を得た時点で実験を終了するよう指示を受けた。 ケース2 疾患Yの重症化因子を調べるため、診療録から収集した疾患Y患者のデータを元に、臨床検査値と生活習慣の関連性を分析したところ、生活習慣Zを有している患者の予後が不良となる結果を得た。そこで「生活習慣Zを有する疾患Y患者は予後不良である」と学会発表した。 私の考えはこうだ。 ケース1は、 「
この短歌、あなたは、どう感じるだろうか? ほんとうはあなたは無呼吸症候群おしえないまま隣でねむる 鈴木美紀子 同室で枕を並べる夫婦なのに、少なくとも妻は冷めきっているのが分かる。 「ほんとうはあなたは」で、夫の寝息がおかしいことに気づいてから、結構な日数が経っている。おそらく、就寝中の夫の寝息がおかしいことに気づいて、ネットか何かで調べ、「無呼吸症候群」に辿り着いたのだろう。 放っておいたら、そのまま息をしなくなるかもしれない。それも織り込み済みで、「おしえない」。ずっと息をしないようなら、「おしえない」まま目を閉じて、朝まで待つのではないかと、ぞっとする(「教えない」と漢字にしないところに、淡々とした意志を感じる)。 夫婦はホラーだ。これなんかもそう。 湯上りに倒れた夫見つけてもドライヤーかけて救急車待つだろう 横山ひろこ 風呂上りのヒートショックで、夫が脳卒中を起こしたのか。 この場合
嫁様にお願いごとをするなら、食後が最適だ。 こづかいアップとか、相談しにくいことを持ちかけるベストなタイミングは、夕飯後のくつろいでいる時間帯だ。自然に話を持っていくのには創意工夫を要するが、ほぼ100%で了承される。長年の経験で身につけた夫の知恵と言っていい。 これ、私だけの経験則だと思っていたら、2011年の研究で実証されている。 ”Extraneous factors in judicial decisions” によると、司法判断に食事が影響するらしい。 調査対象は、仮釈放の審理になる。 服役中の囚人から提示された仮釈放の申請を認可するか、あるいは却下するか……という審理だ。裁判官は過去の事例や法的根拠を厳密に適用し、可否を判断するはずだ。 ところが、調査により奇妙な傾向が炙り出されている。それは1日に2回ある食事休憩だ。仮釈放の申請は、ほとんどが棄却となるのだが、休憩した直後の申
オレに似て、ヒネクレ小僧になるだろうなぁ。で、あと10年もしないうちに、こんな質問をされるだろうな。 (´∀`)ノ < トーチャン! トーチャン! んー? ドシタ? >(゜ロ゜) (´∀`)ノ < 生きるってなに? 死ぬとどうなるの? んー? じゃぁ「生」と「死」辞書引いて読みを調べろ >(゜ロ゜) (´∀`)ノ < ソースル! 生…セイ、ショウ、シャウ、あり、い、い・かす、い・きながら、い・き、い・きる、い・く、い・ける、う、うぶ、う・まる、う・まれながら、う・まれる、お、お・う、お・き、お・ふ、き、すすむ、たか、なま、なり、なる、のう、のり、は・える、は・やす、は・ゆ、ふ、ぶ、ふゆ、み、よ んー? 分かったか? >(゜ロ゜) (´∀`)ノ < 分からねぇ バカか、「生」の読みを数えてみろ! >(゜ロ゜) (´∀`)ノ < いち、に、さん… トーチャン! いっぱいありすぎて数えられねぇ
サブスクで見放題なのは知ってる。くり返し見たから。 けれど、映画館で観たらまるで違う作品だった。 音が違う。 ホームを吹き抜ける風の音や、覆いかぶさってくる波の轟音、ブレーキをかける列車の車輪が軋む不協和音が耳を聾するばかりで怖いくらいだった。そして沈黙。深々と降りしきる雪の「無音」がよく聴こえた。列車の連結部の鉄板の音が、第1話と第3話で違うことも分かった。液晶テレビのペラッペラなスピーカーとはまるで違う音響にどっぷり浸った。 光が違う。 恐ろしいほどの解像度で描かれる世界の広がりが、丸ごと目に入ってくる。第1話の暗く沈んだ冬の夜の闇と、第2話の広い青い海原と、そしてラストの桜吹雪と雪のひとひらが対照的で、闇と光の映像対比がやっと分かった。あの手紙を書いている机の単語帳に「confession」とあるのが分かったし、第1話で夜を駆けるアカゲラの翼が翻る様と、第2話で彼女が飛ばした紙飛行機
「なぜ、お客が望む通りに見積もりができないのか。顧客ファーストだろう?」とドヤ顔で言い放つマネージャーがいた。自社開発のソフトウェアを組み込む提案をしたときの話だ。 確かに顧客ファーストは重要だが、お客の要望をそのまま実現しようとすると、ソフト改修に設計思想レベルでインパクトがあり、コストも時間も莫大なものになる。見積もるだけでも大変だし、べらぼうな額になるのは必至なので、こう返答した。 「お客のいう通りに見積もるのが仕事じゃないです。お客が目指すビジネスにどう貢献できるかを提案するのが仕事です。見積もりはその一部に過ぎません」 愚かな思いつきばかり口走るマネージャーだが、バカではない。リジェクトされるのが分かっている非現実的なコストを見積もる作業はナンセンスであることを懇々と言って聞かせると、ようやく納得してもらえた。彼の言い分では、経営会議での参考になるからというが、選ばれない方に注ぐ
女のお尻のすばらしさについては、室生犀星が力説している。人間でも金魚でも果物でも、円いところが一等美しいのだという。人間でいちばん円いところは、お尻になる。故に、お尻が最も尊くて美しい場所なのだ。どうせ死ぬなら、お尻の上で首をくくりたいという。同感だ。 しかし、『お尻の文化誌』によると、女のお尻というものは、様々な視線を浴び、いろいろな道具に覆われ、拘束されてきた。女のお尻というものは、そのままの状態であったことは少なく、絶えず評価され、比べられ、鍛えられ、覆われ、曝されてきたというのだ。 「女のお尻」を歴史から語ったものが、本書になる。お尻そのものに焦点を当てたのはジャン ゴルダン『お尻とその穴の文化史』だが、本書はお尻そのものに加えて、「そのお尻を見てきた視線」に焦点を当てている(←ここが面白いところ)。 女のお尻は誰が見てきたのか? 「お尻」の部分は、そのままでは自分で見ることができ
FANZAに日参してるから、よく知っていると思っていた。だが、大まちがいだった。いかに自分は分かっていないか、エロがどれほど広くて深くて激しいかを思い知らされた。 『アダルトメディア年鑑2024』は、「エロ」と呼ばれる性メディアの現在を可能な限り網羅的に切り取ったものだ。マンガ、ゲーム、アニメ、実写動画、小説、音声といった媒体からの紹介や、商業・同人、合法・地下、生身・CG・生成AIといった切り口で、エロの今が詰め込まれている。 私が知ってるのなんて、マンガとゲームの中の、ほんのちょっぴりの欠片でしかなく、それでもって現代エロを語ろうとしていたのには恥ずかしくなる。 とはいえ、私だけに限ったことではないようだ。執筆者たちの座談会で分かったのだが、みんな自分の沼しか知らない。エロが好きだからといって、全ての沼に浸っているわけではなく、好きな所しか知らない。エロとはそういう、個人的で密やかなも
「ナチスがしたことは悪行だけではない。良いこともした」という言説を見かける。悪の代名詞とも言われるナチスだが、評価できる部分があるという主張だ。 例えば、公共事業を拡大して失業者を減らすことで経済復興を果たしたり、充実した家族政策により出生数を向上させた。もちろんそれでナチスの蛮行が減殺されることはありえないが、これらは「良いこと」と言えるのではないか、という意見だ。 『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』は、こうした見方に異議を唱える。ナチスがした「良いこと」とされる政策の一つ一つを取り上げ、その背景や目的を精査し、ナチスのオリジナルなものだったか、さらに成果を生んだものかを考察する。 結論を一言で述べると、著者のこのツイートになる。著者は歴史学者であり、ドイツ現代史を専門としているプロフェッショナルである。 30年くらいナチスを研究してるけどナチスの政策で肯定できるとこないっすよ。
40~60代のおっさん達に、「もし若い頃の自分にアドバイスができるなら、何を伝える?」と聞きまくって集めた名言集。 聞いた場所も、東京なら赤羽・上野、大阪なら新世界、名古屋なら栄の飲み屋街に限定してる。出てきた答えは、下品で下世話で下半身ネタだらけだけれど、心底その通り!と言いたくなる名言ばかり。 誰も教えてくれなかったけれど、長いこと生きてきて、ようやく身に沁みて分かった、何気ない一言が集められている。職場呑みの宴席とか、独りで入った飲み屋のカウンターで、こっそり教わる人生の教訓だ。 わかる人には痛いほどわかるやつで、分からない人は、きっと、幸せな人生だと言えるだろう。 人は、傷ついた分だけ、性格が悪くなる ラブソングとかで、「傷ついた分だけ、人は優しくなれる」というフレーズがある。手垢にまみれまくっているが、これはウソ。 あんなの心地いいだけで、タワゴトです。真実は真逆で、傷ついた分だ
これは友人の話なのだが、「やれたかも」という夜は確かにあるそうだ。 「飲み会で意気投合した女の子と帰りの電車がたまたま一緒で、飲みなおそうという流れからカラオケへ」とか、「夏合宿の雑魚寝が寝苦しくて抜け出したら、後輩の子がついてきた」とか。 だが、イイ感じなのはそこまでで、「朝まで歌っただけ」とか、「ちょっと雑談してから部屋に戻って寝た」とか、他愛のないものに収束する。 まんざらでもない態度や視線に、選択を間違えなければチャンスをモノにできるはず……だが悲しいかな、ヘタレ童貞は何をどうすれば良いかわからない。ギャルゲ―なら2つか3つの「選択肢」だけだが、リアルは無限だ。深夜、女の子と二人っきりというシチュに、胸の鼓動がドキドキ目先はクラクラ、何も思い浮かばない。 かくして何も無いままとなる。その後の進展もなく(むしろ素っ気なくなる)、「やれたかも」は、「かも」のまま、思い出となる……と、そ
精神的ダメージがありすぎて、読んだことを後悔する小説のことを、劇薬小説という。生涯消えないほど深く心を傷つけるマンガのことを、トラウマンガと呼ぶ。 劇薬小説とトラウマンガは、このブログで追いかけているテーマだ。 最近なら、 [BRUTUSのホラーガイド444] あたりが参考になるだろうし、最高傑作は、 [ス ゴ本の本] の別冊付録で紹介している。許容範囲オーバーの激辛料理を食べると、自分の胃の形が分かるように、琴線を焼き切る作品を読むと、自分の心の形が分かるはず(痛みを感じたところが、あなたの心の在処だ)。 『後味が悪すぎる49本の映画』 は、この映画版だ。観ている人の気分をザワつかせ、逃げ道を一つ一つ塞ぎ、果てしない絶望に突き落とし、胸糞の悪さを煮詰める―――そんな作品が紹介されている(49は主に紹介される作品であり関連する他の胸糞も合わせると100を超える)。 ハッピーエンド糞くらえと
他人を服従させるマジックワードは、「責任はとるから」。 この一言で、善良な市民が信じられない残虐なことをする。良心の呵責に耐えきれなくなると、記憶の改変を行う。「自分はまちがってない、あいつが悪いからだ」と平気で人をおとしめる。信じられるか? わたしは信じられなかった … 最初は。 たとえば簡単なバイトを思いうかべて欲しい。心理実験のバイトだ。 実験室に入ると、いかにも研究者然とした人が指示してくる。あなたは先生の役で、一連のテストを行うんだ。で、生徒役の人がまちがえると、罰として、電気ショックをあたえるのがあなたの仕事だ。 そして、何回もまちがえると、そのたびに電撃は強くなってゆき、最後には耐え難いほどの強いショックを与えることになる。生徒は叫び声をあげてやめてくれやめてくれと懇願する。あなたは心配そうに研究者を見やるが、彼は「あなたの仕事を続けてください、責任はわたしが取りますから」と
都合が悪いのは現実だけで沢山だ。 せめて物語のなかだけは、予定調和に進んでほしい。ご都合主義と言われてもいい、悪いものが潰えて、弱き人、良き人が救われる、そんなストーリーになってほしい。 なぜなら、現実がそれだけで酷い世界だから。頭の弱い女は利用され、貧乏老人は虐げられ、居所のない子どもたちは食いものにされる。ポリティカル・インコレクトネスな世間だからこそ、物語だけでも救われてほしい。 そんな現実逃避を踏みにじってくるのが、ホラー短編集『寝煙草の危険』だ。 頭のイカレた老人が、通りでいきなり排便する(しかも下痢気味)。通り一帯に悪臭がたちこめ、近所の人が袋叩きにするのだが、どちらも救われない。ホームレスの老人も、正義感に満ちたその人も、その通りに住む全ての人が、救われない。 一応、老人の呪いという体(てい)で話は進むのだが、それを目撃した人たちは次々と不幸に遭う。強盗に遭って破産する、飼い
有名だけど退屈な小説の代表格は、『一九八四年』だ。全体主義による監視社会を描いたディストピア小説として有名なやつ。 2017年、ドナルド・トランプが大統領に就任した際にベストセラーになったので、ご存知の方も多いだろう。「党」が全てを独裁し、嘘と憎しみとプロパガンダをふりまく国家が、現実と異なる発表を 「もう一つの事実(alternative facts)」 と強弁した大統領側近と重なったからかもしれぬ。 『一九八四年』は、学生の頃にハヤカワ文庫で読んだことがある。「ディストピア小説の傑作」という文句に惹かれたのだが、面白いという印象はなかった。 主人公のウィンストンは優柔不断で、あれこれグルグル考えているだけで、自ら行動を起こすというよりも、周囲の状況に流され、成り行きで選んでゆく。高尚な信念というより下半身の欲求に従っているように見える。 「党」を体現する人物との対話も、やたら小難しく何
ネットで肝試しするなら「蓮コラ」画像が手軽だ。ちょっと検索するだけで簡単にゾワゾワできる。「集合体恐怖症(トライフォビア Trypophobia)」で検索するのもあり。生理的にダメな、見てはいけないものを見ている感覚を味わえる。 あるいは、youtubeで「フライングスーツ flyingsuits」を検索してもいい。ムササビみたいな恰好をして滑空する映像を「一人称で」見ることができる。スカイダイビングとは異なり、切り立った崖から飛び降りるのがスタートだ。だから映像は、飛び降り自殺する人が見ている(見ていた)視点と重なる。 Wingsuit Flight - straight & steep line より 高所恐怖症なら、「Raw Run」で検索しよう。スケボーで長い坂道を延々と滑り降りる映像なのだが、背筋ゾゾゾとなるのを請け合う。乗ってる人はほぼ丸腰で、ヘルメットもしていないのもある。公
「文章の推敲は、自分一人でやるものだ」と思いこんでいないだろうか? しかし、グループウェアなどのコラボレーションツールを使って「みんなで推敲」すると、文章は、驚くほどよくなる。 「Googleドキュメントを文章推敲プラットフォームとして使う」という、誰でも思いつきそうな、しごく単純なアイデアだが、実際にやってみると、驚くほどの威力があり、新鮮な感動を覚える。これは、集合知を使った文章推敲のイノベーションだ。 この「みんなで推敲」の体験談の発表会が8月30日に開催された。具体的に、どのように「みんなで推敲」が行われ、文章が改良されていくのか、そのプロセスが分かる、たいへん興味深い内容だったので、この記事でまとめる。 今回発表を行ったのは、ふろむださん主催の[面白文章力クラブ]のメンバーの3人。このクラブは、ライティングの初心者からプロまでが集まって「みんなで推敲」を行う場所だ。 わたし自身、
「読んだ」というより「見た」というべき。理解できなかったところありすぎ。レベル違いすぎ。著者に挑発されながら読むというのは、かなりユニークな体験だね。 古今集から戦後文学まで、詩・文学・劇・謡の表現を俎上にあつらえて、吉本隆明オリジナルの言語の文学論を創出する。言語の本質・韻律・表現・構成という見出しはあるものの、包括的に論じており、再読を強制している。タイトル「言語にとって美とは何か」に惹かれて読むのだが、激しく肩すかしを喰らう。 もともとの動機は、わたしの中にあった。「ものを読んで美や快を得るのはなぜか?」という疑問を、ずっと追いかけてきた。そして、タイトルに限って言う限り、わたしの「気づき」と同じ結論だった。安心したような残念なような気持ちやね。わたしの気づきは古今の文人からヒントをもらっているものだから、彼の影響が第三者を経、わたしに届いていたのかもしれない。 では結論から。「言語
人はミスをする。これは当たり前のことだ。 だからミスしないように準備をするし、仮にミスしたとしても、トラブルにならないように防護策を立てておく。人命に関わるような重大なトラブルになるのであれば、対策は何重にもなるだろう。 個人的なミスが、ただ一つの「原因→結果」として重大な事故に直結したなら分かりやすいが、現実としてありえない。ミスを事故に至らしめた連鎖や、それを生み出した背景を無視して、「個人」を糾弾することは公正なのか? 例えば、米国における医療ミスによる死亡者数は、年間40万人以上と推計されている(※1)。イギリスでは年間3万4千人もの患者がヒューマンエラーによって死亡している(※2)。 回避できたにもかかわらず死亡させた原因として、誤診や投薬ミス、手術中の外傷、手術部位の取り違え、輸血ミス、術後合併症など多岐にわたる。数字だけで見るならば、米国の三大死因は、「心疾患」「がん」そして
もちろん葬った原稿が沢山ある。 うぬぼれ&創作欲に突き動かされ、勢いだけで書き始め、そのうち行き詰まる。なんとなく良くないのは分かるが、それが人物なのか構成なのかシーンなのか分からない。描写を直すと人物が色褪せ、シーンを変えると構成が崩れる。結果、原稿を書くたびに一からやり直すハメになる。最後まで書き上げられるかは運まかせで、最後まで行けた試しがない。 問題は書く「前に」ある これは、やり方が間違っている。何年かけても完成しない。『工学的ストーリー創作入門』を読まなくても知っていたが、本書でとことん思い知らされる。わたしの努力は無駄ではないかもしれないが、非常に効率が悪い。問題は、書くことそのものよりも、その「前に」存在している。 『工学的ストーリー創作入門』(Story Engineering)は、物語を書き始める「前に」知るべきことを整理するだけで、ストーリーは工学的に作り上げることが
よく「美とは観る者の目に宿る」と言われるし、均整の取れた肉体を美しいと感じる。どちらが「美」かを選ぶことは難しい。 強いて言うならば「B」だろうか。 絵画や音楽、文芸や舞踊などの芸術作品で、「これは美しい」と評価されるものは、独創的で唯一無二であることが重要な要素であるように思える。もちろんそこに、伝統的な「型」があるかもしれないが、それを踏まえたうえであえて破ったものが「美」とされているのではないだろうか。 『近代美学入門』(井奥陽子、ちくま新書)によると、AとB、どちらも正解になる。 「美しい」とは何か?この疑問について、「芸術」「美」「崇高」「ピクチャレスク」という概念からアプローチしたのが本書だ。 これらの概念がいつ・どのように成立し、時代の中でどうやって変遷していったかをたどることで、わたしが抱えていた「常識」が常識ではないことに気づかせてくれる、優れた解説書であり啓蒙書でもある
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