先日、大西つねき氏が「命の選別」にまつわる発言で批判を浴び、れいわ新選組から除籍される騒動があった(記事1・記事2)。問題の発端となった動画と除籍後の記者会見をみる限り、大西氏は概略次のようなことを主張している。 (1) 超高齢化社会では医療・介護に多大な人手を割く必要があるが、「高齢者をちょっとでも長生きさせるため」に「若者たちの時間を使う」のは、有意義とは言えないのではないか。 (2) 延命を無条件に正しいとする風潮が支配的だが、人生の最期に生き甲斐のない病院生活が長々と続くのは、幸福とは言えないのではないか。 (3) 「命の選別」は政治の使命であり、どんな政策も広い意味では命の選別に関わっている。 (4) 選別が必要になる場合は、「自然の摂理」に従って、「もちろん高齢の方から逝ってもらうしかない」。 これらのうち、(1)や(2)のような考え(特に後者)はさして突飛なものでもなく、支持
テレビディレクターの思想が理解でき次第チャンネルを変える(故・西部邁先生は数秒だったらしい)ため、ルーチンで観るテレビ番組がありません。よって、年末の漫才のショーレース番組と音楽番組を批評的に観ることで、吾が民族の一年の傾向を理解した気でいます。ある音楽番組で愕然としたことがあります。それは「まったくロックバンドが出ない!」ことです。私が没頭した90年代のまでの音楽番組には、必ず1組バンドが出演していました。彼らは既に大御所としてコンサート会場を埋めるため、宣伝としてテレビに出る必要もないようです。そこに映るのは、小柄で痩せた生意気そうな若い男たち、日焼けサロン店長のようなオジサンのダンスサークル、下手なマスゲームみたいな女子の群れ、余りにも稚拙な出し物で閉口しました。彼らには大衆の消費物である自覚がないのか?なにがアーティストだ。この気分を掬い上げるのは、英国のロックバンドOASISのノ
表現者クライテリオン編集長、 京都大学の藤井聡です。 ニューヨーク州立大学の ステファニー・ケルトン教授が、 7月15日から19日にかけて来日されました。 そのメインの滞在目的は、 京都大学の当方主催のMMT国際シンポジウムでの 基調講演をしていただくこと。 大変有難い事に、当方から打診差し上げたところ、 ご快諾いただき、この度の来日と相成りました。 ケルトン教授滞在中、当方のシンポジウム以外にも、 研究セミナーにもご参加された他、 100人近くもの記者を集めた記者会見、 テレビ、新聞、雑誌各社の単独インタビューと ネット動画(三橋TV)へのご出演、さらには、 与党代議士(西田・安藤・竹内先生)との意見交換会会等、 実に様々なイベントに、精力的にご参加いただきました。 あれこれとご一緒させていただいた中で とりわけ印象深かったのが、 ケルトン教授の「誠実さ」でした。 昨今の筆者は、 政治家
こんにちは、浜崎洋介です。 この頃は、「AIは人間を超える」だの、「AIが人間の仕事を奪う」だのという嘘をよく耳にしますが、つい最近、その嘘を否定する興味深い記事を読みました。数学者の新井紀子氏(国立情報学研究所教授)による「AIは先生に取って代われるか」(https://special.sankei.com/f/seiron/article/20190213/0001.html)という論説記事です。 新井氏は言います、「意味」を理解する能力を持たず、「確率と統計を用いるソフトウエア」にすぎないAIが、「先生」に取って代わるなどということはあり得ないし、もし、「先生をAIに置き換えたら、学校はAI未満の生徒を大量に生み出す機関に成り下がってしまう」だけだろうと。 けれども、どうやら官僚やメディア関係者はそう考えていないらしい。たとえば経済産業省が推進する「未来の教室」プロジェクトでは、教育
昨年末、「流行語大賞2018」の候補に「GAFA(ガーファ)」がノミネートされていました。大して流行はしていないと思いますので違和感があるのですが、現代のビジネスを語る上でよく知っておくべき対象であることは確かです。GAFAというのはグーグル、アマゾン、フェイスブック、アップルの頭文字を取ったもので、要するに今のIT業界を牛耳っている巨大企業を指す用語です。ただし後述するように、本当はすでにIT企業という枠には収まらなくなっているのではありますが。 先日、スコット・ギャロウェイというアメリカのビジネススクールの教授が書いた『the four GAFA 四騎士が創り変えた世界』という本を読みました。あまり面白い本というわけではないのですが、これら巨大企業と社会の関係を考える上で興味深い話がいくつも書かれていました。 アマゾンは周知のとおり小売分野で圧倒的な一人勝ちを続けていて、たとえばアメリ
水道法改正案が国会で可決される見通しと報じられています。平成改革はいよいよ「水」という国民生活の根幹部分に達することになりました。 中身を見てみると、水道事業の広域化を進めるとしている部分はいいとしても、懸念されるのはやはり「民営化」に関わる部分です。 (所有権は公共団体に残して運営権のみを企業に売却する方式なので、厳密には「民営化」ではないという指摘もありますが、ここでは広義の「民営化」と捉えます。) 水道事業の「民営化」は、安倍政権の産業競争力会議や未来投資会議で盛んに提唱されてきたものです。日本の水道事業の料金収入は2兆7千億円(2014年度)と巨額ですので、「民営化」が認められればたくさんの民間企業、特に水メジャーと呼ばれる外資が参入してくるでしょう。 日本の水道事業が老朽化や設備更新費用の不足などの問題を抱えているのは確かです。災害によるインフラ断絶リスクも、他所に比べて高い。こ
こんにちは、浜崎洋介です。 先週は、「就職ルール廃止」の話題を通じて、「カネ」に直結しないもの(例えば教育)について、理解する能力を持たない「企業人」の幼さを批判しておきました。 ただ、これは、戦後の日本人が、人間の「成熟」について何も考えてこなかったことの当然の結果だと言うこともできるのかもしれません。 かつて、孔子は、「十有五にして学に志ざす。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳従う。七十にして心の欲する所に従って矩を踰えず」と語って人間の「成熟」のあるべき姿について述べていました。あるいは、中国の五行説では、人生を「青春」、「朱夏」「白秋」、「玄冬」の四季節に分けて、人生のあるべきサイクル――人間にとって最も自然なサイクル――に対する理解を示していました。 ただ、こういった「成熟論」は、過去の人間論に限った話ではありません。アドラー心理学や、エリクソン
唐突ですが、昨今、我が国の状況を描写するのに、 「ゆでガエル」という比喩がよく言われます。 カエルが入った水を徐々に温めていくと、 その哀れなカエルは、その水が熱い湯になっても気付かず 死んでしまう、という比喩。 一面において確かに、 今の日本ほどこの表現がぴったりと当てはまる国は、 余所にないように思います。 とはいえ、よくよく考えて見れば、実際の日本は、 この「ゆでガエル」よりもさらに愚かに思えてきます。 我が国は、98年、深刻なデフレ不況という 「熱いお湯」の中に無理矢理ぽちゃんと入れられます。 普通なら「あつっ!!」とばかりに逃げ出せば良いのですが、 一向に逃げ出しません。 「おしんのしんは、辛抱のしん!」だの、 「米百俵!」だのと言いつのりながら、 嬉々として国民総出で「無駄な辛抱」をしはじめます。 結果、今や瀕死の重傷に陥っている―― のですが、その状況にほとんど誰も気付かず、
先週のメルマガでは、福田恆存の「教育の普及は浮薄の普及なり」(齋藤緑雨の言葉)というエッセイを引き合いに出して、「偏差値エリート」の「醜悪さ」に言い及んでおきました。が、それは裏を返して言えば、この国が、「具体的な他者に対する適切な距離感」(礼儀)を価値にはしてこなかったということを意味しています。 かつて、福田恆存は、「文化」は「教育」では身につかないと語っていましたが(『私の幸福論』ちくま文庫)、それとは逆に、戦後は「文化」を焼き滅ぼしてしまったその穴を、「教育」で埋め合わせようとして悪あがきを繰り返してきた時代だったと言えるのかもしれません。その結果が、ここ最近繰り返されてきた、「教育」があるはずの大学生による醜悪な事件だったと言えないことはない――記憶に新しいところで言えば、二〇一六年の東京大学、慶応大学、千葉大医学部の学生による集団暴行事件が思い出されます。 ところで、「教育」と
こんにちは、浜崎洋介です 今回は、予定を変更して、編集委員としてというよりは、私自身の「けじめ」として、二人の逮捕者を出した「西部邁自殺幇助事件」に触れざるを得ないと思っています。 正直に書きます。少し前から私は、西部先生の自殺に関して、その幇助者がいるのではないかという噂を耳にしていました。ただ、そんな噂を耳にしはじめたのは、全ての追悼文と西部邁論(次号『表現者クライテリオン』に掲載予定)を書き上げた後のことで、自殺幇助の噂を聞いてから西部先生について書くのは、これが初めてのことになります(とはいえ、「西部邁論」の内容については、今なお私は、その訂正の必要を認めていませんが)。 そこで、まず明確にしておきたいのは、今回の西部先生の自殺から、自殺幇助の疑惑報道、そして幇助者逮捕に至るまでの経緯のなかで、私が、どの段階で、西部先生に対する決定的な違和感を抱いたのかという点です。 既に追悼文な
先週、「西部邁自殺幇助」の容疑で二名の逮捕者が出ました。『表現者』の看板を掲げたメルマガとして、今回はこの事件に触れざるをえません。 とは言ったものの、幇助(として報じられているもの)の具体的な事実については何も知りません。それどころか今回の報に接するまで、私は西部先生が一人で決行されたのだと思い込んでいました。 以前から西部先生の「自死の思想」を繰り返し聞き、また読んできた者として、一月の逝去の報は(驚きがなかったと言えば嘘になりますが)意外ではありませんでした。しかし、その死に際して幇助者がいた、それも晩年の西部先生にとってごく身近な方だったという事実に、意外との印象を拭い去れずにいます。 もちろん、時間が経てばまた変わってくるのかもしれません。ただ今の時点では、ニュースに触れるまではそんなことを考えもしなかった。少なくとも私はそうでした。おそらく多くの読者・関係者にとっても同じだった
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