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歴史と増田に関するKIKUKOのブックマーク (5)

  • 個人的ネットミームまとめ(改訂版)

    anond:20230806015455を改訂しました。 追記内容のまとめ・8/6の01:54 元増田を投稿した時からの記載→注釈なし ・8/6~7 元増田を一部修正した記載→【前回追加】表記 ・8/9の00:44 この増田を投稿した時からの記載→【今回追加】表記 ・8/9の13:00頃まで この増田を一部修正した記載→【今回追加2】表記 ・8/10の01:00頃まで この増田をさらに修正した記載→【今回追加3】表記 まあ、ここまで区別しなくてもとも思ったけど、 頂いたコメントを活かして作ったという性格上、この辺はある程度書いた方が不義理にならないかなと思って、こうしました。 なお、更新はここで打ち切ります。だらだら更新されても、見る側もつらいかと思います。この辺が引き際。 (僕はあとは基オフラインでやります。なお、ブコメはあと一週間くらいは見続けると思います。) どうしても続けたい方が

    個人的ネットミームまとめ(改訂版)
  • 武士政権が千年近く続いてたのに 誰も天皇殺して自分がこの国の王になろう..

    武士政権が千年近く続いてたのに 誰も天皇殺して自分がこの国の王になろうと しなかったのがずっと不思議。 信長はそれに近いことをやろうとしてたみたいだけど。 外国じゃ王様とか平気で殺されてるじゃん。

    武士政権が千年近く続いてたのに 誰も天皇殺して自分がこの国の王になろう..
    KIKUKO
    KIKUKO 2023/02/13
    これ。古墳時代の豪族達もそうで自分達が擁立した天皇筋の人を立てて争うのを読んで、ずっと不思議だった。ちなみに負けた方の擁立された天皇筋の人は殺されたりしてる。
  • 1分でわかるウクライナの歴史

    16世紀:ポーランド「なんや荒野に『コサック』っていう連中が住み着いてオスマン帝国を襲撃して略奪しとるわ…怖…」 →ポーランド「自治を認めたるからワイらのためにオスマン帝国と戦ってくれや」 →コサック「やったりますわ」 1648年:フメリニツキー「ポーランドの貴族どもが横暴やからコサックのみんなを集めて独立するで!」 →「ヘーチマン国家」誕生(現在のウクライナの中部あたり) 1654年:フメリニツキー「同盟しとったクリミア国に裏切られたから、ポーランドに対抗するにはロシアの保護下に入るしか無いわ…」 →ロシア「共通の先祖から分かれた兄弟がまた元通りひとつになれたんやね(にっこり)」 →ロシアウクライナの共通の源流にキエフ大公国があり、ロシア的には「生き別れの弟が兄を慕ってやってきた」みたいに受け取ったらしい 1656年:フメリニツキー「スウェーデンに対抗するためにポーランドとロシアが同盟

    1分でわかるウクライナの歴史
  • 1分でわかるアフガニスタンの歴史

    1747年:アフマド・シャー「イランから独立するで!」 →アフガニスタンの建国 1838年:イギリス「ロシアがインドを狙っとるからアフガンにイギリス軍を置かせてくれや」 →交渉決裂 →イギリス「ほな戦争や!」 →第一次アフガン戦争 1842年:イギリス「あかん、とりあえずアフガンを占領したけど、反乱が多すぎるから撤退するわ」 →和睦 1878年:イギリス「今度のアフガン国王はロシア寄りっぽくて怪しいわ! また戦争するで!」 →第二次アフガン戦争 1881年:イギリス「今回は勝ったけど、めちゃくちゃ苦労したわ…」 →イギリスがアフガンを保護国化 1919年:アフガン国王「世界大戦でイギリスが弱っとるみたいやで! いまこそアフガンから追い出す好機や! ジハードや!」 →第三次アフガン戦争 →アフガン国王「あかん、勝てへんわ。和睦するで!」 →イギリス「こっちも戦争はうんざりやし、もう独立してえ

    1分でわかるアフガニスタンの歴史
    KIKUKO
    KIKUKO 2021/08/18
    ずっと殴り合いしてて、ほんま大変な国なんやなぁ
  • 中国名将

    中国の名将について検索をかけたときによく挙げられている人物を紹介する。春秋孫武世界史上に名高い兵法書「孫子」の著者。伍子胥と共に呉王が覇者となるのに貢献した。戦国呉起孫子と並び称される兵法家。いわゆる「呉子」。魯・魏・楚などに仕えたが、強引な改革で周囲の恨みを買って殺された。孫臏「孫臏兵法」の著者。友人に裏切られて罪人となり脚を切断されたが、逃げ出した先の斉で将軍となり、「馬陵の戦い」で復讐を成し遂げた。白起秦の名将。包囲殲滅戦の名手にして虐殺者。「長平の戦い」では四十万人もの捕虜を生き埋めにした。そのあまりの強さから王に恐れられて賜死された。李牧趙の名将。匈奴に大勝を収め、秦の大軍を退けたが、離間の計によって王に疑われて殺された。趙が滅亡したのは李牧の死からわずか三ヶ月後のことだった。王翦秦の名将。趙や楚を滅ぼし、始皇帝の中華統一に多大なる貢献を行った。猜疑心の強い始皇帝に誅殺されること

    中国名将
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