タグ

あとで読むと本に関するYuta_Enoのブックマーク (5)

  • コンサルタントはこうして組織をぐちゃぐちゃにする『申し訳ない、御社をつぶしたのは私です。』

    「嘘つきは経済学者の始まり」という諺があるが、コンサルタントも入れるべき。 中の人として働いたことがあるので、その手法は分かってる(まとめ:[そろそろコンサルタントについて一言いっておくか])。だから書は、徹頭徹尾、黒い笑いが止まらない。騙される幹部が悪いのだが、振り回される社員はたまったものではない。ファームであれジコケーハツであれ、理論武装を「外」に求める人は、予習しておこう。あるいは、コンサルティングを「説得の技術」と捉え、逆にそこから学ぼう。 書は、マジシャンが種明かしするようなもの。コンサルタントの方法論である「適応戦略」や「最適化プロセス」「業績管理システム」は、役に立たないどころか、悪影響にもなると暴きたてる。著者は経営コンサル業界で30年も働いて、いいかげんこの「お芝居」にウンザリして、懺悔の名を借りた曝露を出したという。その具体例が生々しい&おぞましい&あるある。

    コンサルタントはこうして組織をぐちゃぐちゃにする『申し訳ない、御社をつぶしたのは私です。』
  • 青空文庫のほぼ全作品を、仕様策定中のCSS3ドラフトに従って縦書きHTML化

  • 森鴎外 阿部一族

    従(じゅ)四位下(いのげ)左近衛少将(さこんえのしょうしょう)兼越中守(えっちゅうのかみ)細川忠利(ほそかわただとし)は、寛永十八年辛巳(しんし)の春、よそよりは早く咲く領地肥後国(ひごのくに)の花を見すてて、五十四万石の大名の晴れ晴れしい行列に前後を囲ませ、南より北へ歩みを運ぶ春とともに、江戸を志して参勤(さんきん)の途(みち)に上ろうとしているうち、はからず病にかかって、典医の方剤も功を奏せず、日に増し重くなるばかりなので、江戸へは出発日延べの飛脚が立つ。徳川将軍は名君の誉れの高い三代目の家光で、島原一揆(いっき)のとき賊将天草(あまくさ)四郎時貞(ときさだ)を討ち取って大功を立てた忠利の身の上を気づかい、三月二十日には松平伊豆守(まつだいらいずのかみ)、阿部豊後守(あべぶんごのかみ)、阿部対馬守(あべつしまのかみ)の連名の沙汰書(さたしょ)を作らせ、針医以策(いさく)というものを、京

  • 正岡子規 病牀六尺

    ○病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。僅(わず)かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団(ふとん)の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚(はなは)だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤(まひざい)、僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪(むさぼ)る果敢(はか)なさ、それでも生きて居ればいひたい事はいひたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限つて居れど、それさへ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つ事、癪(しゃく)にさはる事、たまには何となく嬉しくてために病苦を忘るるやうな事がないでもない。年が年中、しかも六年の間世間も知らずに寐て居た病人の感じは先づこんなものですと前置きして ○土佐の西の端に柏島といふ小さな島があつて二百戸の漁村に水産補習学校が一つある。教室が十二

  • 森鴎外 大塩平八郎

    一、西町奉行所 天保(てんぱう)八年丁酉(ひのととり)の歳(とし)二月十九日の暁方(あけがた)七つ時(どき)に、大阪西町奉行所(にしまちぶぎやうしよ)の門を敲(たゝ)くものがある。西町奉行所と云ふのは、大阪城の大手(おほて)の方角から、内町通(うちほんまちどほり)を西へ行つて、町橋(ほんまちばし)に掛からうとする北側にあつた。此頃はもう四年前から引き続いての飢饉(ききん)で、やれ盗人(ぬすびと)、やれ行倒(ゆきだふれ)と、夜中(やちゆう)も用事が断(た)えない。それにきのふの御用日(ごようび)に、月番(つきばん)の東町(ひがしまち)奉行所へ立会(たちあひ)に往(い)つて帰つてからは、奉行堀伊賀守利堅(ほりいがのかみとしかた)は何かひどく心せはしい様子で、急に西組与力(にしぐみよりき)吉田勝右衛門(かつゑもん)を呼び寄せて、長い間密談をした。それから東町奉行所との間に往反(わうへん)して

  • 1