記事保存 日経BizGate会員の方のみご利用になれます。保存した記事はスマホやタブレットでもご覧いただけます。 織田信長、豊臣秀吉が徹底した「能力主義」の人事を貫いたのに対し、徳川家康には微温的、地元の三河(愛知県東部)重視のイメージが付きまとう。実際、家康が約260年続く江戸幕府を樹立できたのは「三河武士」の貢献が大きい。隣国の人質だった家康を鉄の団結力で守り、勇猛な戦闘力と自己犠牲の精神で盛り立てていったからだ。しかし家康自身は人材を地元優先で採用してはいなかった。外部からや時には自分への反逆者も積極的に登用し、家康の天下取りに大きく貢献したのは、むしろこれら非主流の家臣たちだった。地味に見えて実は大胆だった家康の抜てき術は現代ビジネスへのヒントにもなるかもしれない。 「徳川四天王」で唯一の非三河出身者 井伊直政は徳川外交の担当者に抜てきされた(彦根市提供) 外部登用の代表格が「徳川