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philosophyに関するkeloinwellのブックマーク (72)

  • 書評 「生物学者のための科学哲学」 - shorebird 進化心理学中心の書評など

    生物学者のための科学哲学 勁草書房Amazon 書は生物学にかかわる科学哲学の主要トピックについて科学哲学者や科学史家たちが解説したもの.編者は科学哲学者のカンプラーキスと生物学者のウレルで,書名にもあるように想定読者としては生物学者が念頭に置かれている. これまでの生物学の科学哲学の入門書だと「種とは何か」「自然淘汰の単位は何か」「系統樹の推定はどのような営みか」「利他行動の進化とマルチレベル淘汰」「発生システム論」などの個別の各論のトピックが主要テーマになっているものが多いが,書が取り上げるものは必ずしも「生物学の科学哲学」に限らないということで,「説明」「知識」「理論とモデル」「概念」などの基礎ブロック的なテーマが数多く取り上げられていてなかなかハードな内容になっている.原題は「Philosophy of Science for Biologists」. 第1章 なぜ生物学者は科

    書評 「生物学者のための科学哲学」 - shorebird 進化心理学中心の書評など
  • 近代哲学に取り掛かる前に、今話題のマルクス・ガブリエルを読んでみた(生命科学の目で読む哲学書 第13回) | AASJホームページ

    AASJホームページ > 新着情報 > 生命科学の目で読む哲学書 > 近代哲学に取り掛かる前に、今話題のマルクス・ガブリエルを読んでみた(生命科学の目で読む哲学書 第13回) これまで12回、ギリシャ、ローマ、中世と哲学書を読んできた。大学時代から今まで、古典的な哲学書も比較的読んできた方だと思うが、系統だって読むことはなかった。時代を追って哲学書を読むという体験は今回が初めてだ。哲学を教えているわけでもないのに、ちょっと馬鹿げているとは思ったが、「この機会を逃せばもう気力は失せるだろう」と読み始めて、そろそろ一年になろうとしている。こんなことでもなければローマ時代や中世哲学書など手に取ることはまずなかったと思う。「しんどいか?」と問われれば、確かに「しんどい」し、何より他のことを犠牲にしてを読む必要がある。すなわち、論文を読むときと同じで読書が義務になる。しかし、しんどいだけではない。

  • アリストテレス 形而上学 :プラトンからの決別と4因説(生命科学の根本問題) (生命科学の目で読む哲学書 第7回) | AASJホームページ

    AASJホームページ > 新着情報 > 生命科学の目で読む哲学書 > アリストテレス 形而上学 :プラトンからの決別と4因説(生命科学の根問題) (生命科学の目で読む哲学書 第7回) アリストテレスの最後は「形而上学」(岩波書店 出隆訳)を選んだ。この著作はひとつのまとまった著作ではなく、また「形而上学とは何か?」などが議論されているではない。岩波版の訳者、出隆の解説によると、実際のタイトル「τὰ  μετὰ  τὰ  φυσικά」の意味は、「自然学の次に来る(メタ フィジカ)という意味で、前回まで紹介したように、自然に魅せられ観察と思索に没頭したアリストテレスが、その経験をもとにさらに実体が存在し動いている世界の原理について整理を試みた14の独立したエッセーだと考えればいい。まとまった思想が語られるわけではないので、よほどアリストテレスの興味がある人はともかく、自然科学者に是非読む

  • アリストテレス「霊魂論」:本当は「生命とは何か」(生命科学の目で読む哲学書 6回) | AASJホームページ

    今日紹介したいのは、アリストテレスの「霊魂論」(「心とは何か」)で、前回紹介した動物論諸作に先がけて書かれた著作で、現代の生命科学者でもそれほど抵抗なく読める面白い作品だ。 図1 アリストテレスの「Peri Psyches」は、岩波書店版では「霊魂論」、講談社版は「心とは何か」と訳されている。生命科学者から見るとどちらもタイトルとして適切でないと思うが、訳としては圧倒的に講談社版が読みやすく、生命科学の若い研究者や学生でもスムースに入っていける。 しかしこのを読み通してまず浮かぶ疑問は、なぜこのを「霊魂論」と訳したのかという点だ。冒頭の写真には、山光雄訳の岩波版と、講談社桑子俊雄訳「心とは何か」を示したが、他にも京大出版会 中畑正志訳「魂について」の3冊の翻訳がある。それぞれプシューケースを「霊魂」「心」「魂」と訳しており、私たちがこれらの訳から受ける印象は、「心と体」という時の「心

  • アリストテレス 「動物誌」「動物発生論」:アリストテレスの生命への関心の源を探る(生命科学の目で見る哲学書 第5回) | AASJホームページ

    AASJホームページ > 新着情報 > 生命科学の目で読む哲学書 > アリストテレス 「動物誌」「動物発生論」:アリストテレスの生命への関心の源を探る(生命科学の目で見る哲学書 第5回) 前回述べたが、バートランド・ラッセルは「西洋哲学史」の中で、 「プラトンがもたらしたものは、感覚の世界を拒否して、自ら作り出した純粋な思惟の世界を優位に据える、という事であった。アリストテレスとともにやってきたものは、科学における根概念としての目的というものに対する信仰であった」 と述べて、プラトンとアリストテレスを、せっかくイオニアで生まれ始めた科学の芽を摘み取った犯人として扱っている。 このを先に読んでしまった結果、プラトンやアリストテレスを読もうという気持ちになかなかなれなかったが、今回何冊か読んでみて大きく印象は変わった。前回述べたように、プラトンについては今も苦手だが、アリストテレスには親近

  • プラトン「テアイテトス」(生命科学の目で読む哲学書 第4回) | AASJホームページ

    図1 プラトン著「テアイテトス」は光文社と岩波書店から出版されている。この機会に、両方を読んでみた。 これまで、フロイトの「モーセと一神教」を題材に普遍宗教の誕生、そして柄谷行人の「哲学の起源」を題材に、ユダヤ教誕生、およびほぼ同じ時期に起こったイオニア哲学誕生について見てきた。この2回で、哲学の誕生と普遍一神教の誕生の背景に見られる共通性や、両者の差異についてわかっていただいたのではないだろうか。またこの2回を通して、これから私が目指している長い道のりについても理解していただけたのではないだろうか。 さて、イオニアでの哲学誕生の次は、プラトンやアリストテレスに代表される、いわゆるギリシャ哲学の主流が続くことになる。この二人は、ギリシャ哲学にとどまらず、ローマ時代から近世まで、ヨーロッパの哲学にとっては最も影響力のある思想家として位置づけられてきた。当然私にとっても、生命科学の観点から見た

  • イオニアでの哲学誕生と、柄谷行人著 「哲学の起源」(生命科学の目で読む哲学書 第3回 | AASJホームページ

    図1:今回は柄谷行人さんの哲学の起源(岩波書店)を中心にイオニアでの哲学誕生を考える。 「生命科学の目で見る哲学書」では様々な著作を取り上げるつもりだが、あくまでも生命科学誕生の過程をたどることが主目的で、この観点から私が重要と思う著作を哲学書を中心に時代を追って自分なりにまとめ、現代の科学が成立するために必要だった条件を読み解きたいと思っている。 ただ、その当時を知るための著書がない場合も多い。例えば前回は、現代もなお科学や生命科学に大きな社会的影響力を及ぼしている一神教の誕生を取り上げたが、聖書や仏典は取り上げなかった。残念ながら仏典を読んではいないが、聖書は原典や注釈書は読んでいる。しかしこれを紹介したところで、科学の誕生を知るための作業にとっては、反面教師以外の価値を持たないと思った。キリスト教については、トマス・アクィナスに触れる時もう一度取り上げるつもりだが、今後も原典に当たる

  • 「語りえぬもの」とは何か?『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考 』

    「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」 ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』は、この一文で終わっている。 ウィトゲンシュタインは、この一文を証明するために『論考』を書いた。 すなわち、この一文が分かることは、『論考』が分かることに等しい。 何度も挑戦し、挫折し、さまざまな回り道をしてきたが、古田徹也氏が著した『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』で、ようやくたどり着いた。やっと「分かった」と言えるようになった。 しかし、当に「分かった」のか? 独りよがりに陥っていないか? それを確かめるために、自分の言葉で説明しなおす。「語りえぬもの」とは何か? なぜ沈黙しなければならないのか? 「語りえぬもの」について、わたしの理解を確かめたい。 「語る」とは何か まず、「語る」について語ろう。ここで言っている「語る」とは、何か意味のあることを言葉で表現することだ。たとえば、 あの日見た花

    「語りえぬもの」とは何か?『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考 』
    keloinwell
    keloinwell 2019/05/21
    論理哲学論考は家にあって、ことあるごとに読み返すんだけど、分かった、という感覚には到達できない。
  • 普遍宗教の誕生 フロイト著 「モーセと一神教」(生命科学の目で読む哲学書 第2回) | AASJホームページ

    これから連載する「生命科学の目で読む哲学書」は、哲学を学ぶことが目的ではない。45年前臨床医としてスタートしたのを皮切りに私自身が関わった生命科学とはなんだったのか、現役を引退した今、今度はアウトサイダーとして知りたいという個人的動機に基づいており、もちろん独断と偏見で作業を進めるつもりだ。また、取り上げる著書も、ほぼ全て日語訳をベースとしており、翻訳というベールを通しているため、著者が伝えたい内容について正しく理解ができているのかどうかはわからない。しかし哲学を講義するわけではなく、私がそのを通して考えたことを伝えることが目的なので、それで十分だと思っている。従って哲学を知ろうと私の文章を読んでもらっても期待外れに終わること間違いない。しかし、こんながあるのだということについては、的確に紹介して、古典を読むことの楽しみを伝えたいと思っている。 こう断った上で、生命科学の誕生までの歴

  • Amazon.co.jp: 嘔吐 新訳: J‐P・サルトル (著), 鈴木道彦 (翻訳): 本

    Amazon.co.jp: 嘔吐 新訳: J‐P・サルトル (著), 鈴木道彦 (翻訳): 本
  • 『ツァラトゥストラはかく語りき』の思い出: 極東ブログ

    ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』を最初に読んだのは、中学生のころだった。中二だったのではないか。この作品はまさに中二病で読めそうな古典である。そう思える理由としてすぐに思いつくことは、単純な神話劇の構造をもっていることと、芥川龍之介の『侏儒の言葉』のようにアフォリズムであることだ。保守派論客のようになってしまって久しい西尾幹二だが1978年に講談社現代新書で『ニーチェとの対話 ツァラトゥストラ私評』を書いたころはドイツ出羽守といった感じだった。同書は新書という性格から読みやすさを狙ったのかもしれないが、基的にアフォリズムとしての理解が基で、かつ『ツァラトゥストラはかく語りき』の前半しか扱ってなかった。当時高校生の私ですら、専門家でも意外に稚拙な読みをするものだなと思ったりもしたものだ。中二病は悪化していたのである。 ニーチェの思想は、そうした部分部分で見るなら、140文字で収

  • もしソクラテスが現代に転生したら『新哲学対話』

    「よい/わるい」に客観的な基準はあるのか? AIと人の決定的な違いとは何か? 何かを「知っている」とはどういうことか? 現代に蘇ったソクラテスと仲間たちが対話する。 現代の風潮に染まり、日語をしゃべるソクラテスが、ユーモアまじりで語りかける。面白いだけでなく、哲学の質が「語り」の中から浮かび上がってくる。哲学の質は、名詞ではなく動詞であり、独白ではなく対話である。 たとえば、アガトンの章。「よい/わるい」について。「いいワインとは何か」という問いから、相対主義の問題に踏み込む。プラトン『饗宴』の続きの体裁をとりながら、なぜか現代で議論しているのが楽しい。 いま飲んだワインを「おいしい」「おいしくない」と感じるのは、飲んだ人でしかありえないから、結局のところ、ワインの良しあしは主観的にしか判断できないのか。あるいは、ワインを「おいしい」と感じるまでに飲んできたワインや銘柄を教えてくれた

    もしソクラテスが現代に転生したら『新哲学対話』
  • ユニークな分析哲学入門『今夜ヴァンパイアになる前に』

    「ヴァンパイアになれるチャンスがある」思考実験から始まる分析哲学。 もちろん「ヴァンパイアになる」はメタファーだ。結婚する、子をもつなど、見通しが不透明で、人生を劇的に変えてしまうような判断を指す。この決断を迫られたとき、どうすれば合理的な意思決定が導けるかを、徹底的に考え抜く。深くて濃くて、ユニークな一冊。 象徴的とはいえ、「ヴァンパイアになる」は言いえて妙だ。あなたの友人の何人かは既にヴァンパイアになっていて、その生活形態や価値観について、色々と教えてくれる。人ではとても理解できない仕方で、この世界を理解することができるという。ただ、ヴァンパイアとしての理解を、人に説明することは、とてもできない。この充足感と万能感は、文字通り人知を越えており、それがどんなものであるかを知るには、ヴァンパイアになるしかない。 問題はここからだ。この状況で、あなたは一体、どうやって十分な情報に基づいた選択

    ユニークな分析哲学入門『今夜ヴァンパイアになる前に』
    keloinwell
    keloinwell 2017/08/03
    これ面白そう
  • 東大・京大で『勉強の哲学』が一番売れている理由「勉強するとキモくなる」

    「勉強とは何か?」を根源的に考えた一冊。一言なら「勉強とは変身である」になる。 巷に数多のノウハウではない。意識高い系の自尊心をくすぐるではない。勉強するとはどういうことか、勉強することで何が起きるのかを、言語と欲望の問題にまで踏み込み、掘り下げる。 議論のバックグラウンドに、フーコーの権力システム、ドゥルーズ&ガタリの脱コード化、さらにウィトゲンシュタインの言語観をも引き込んでいるが、咀嚼しきった上で原理的に考え抜く、その知的格闘が面白い。 勉強すると何が起きるのかを考える際、勉強する「前」はどうなっているかに着目する。自分が話す(=考える)言葉やコードは、そのときに自分がいる環境に依存しているという。半径5mの仲間や学校、家族、手元の端末のSNS、マスコミ、社会などから、「こうするもんだ」というコードにノッて話し、考え、行動する保守的な状態だという。 それが、勉強することにより、慣

    東大・京大で『勉強の哲学』が一番売れている理由「勉強するとキモくなる」
  • それ、もう三木清が言ってた 〜『三木清 教養論集』から〜 - 科学と生活のイーハトーヴ

    現代の知識階級の悲哀は彼等が次第に自分の質を失って無識になるつつあるということである。なるほど彼等は物を読む、けれどもそれは彼等の生の不安に原因を有するところの好奇心に刺戟されてのことであり、そういう風にして唯新しいものを漁っていたのでは好いものと悪いものとの区別も出来なくなり、知識は結局無識に等しい。否、彼等は新しいものと古いものとの区別さえ出来なくなりつつあるのである。 三木清 「講義録狂」(1932年8月) 今年は哲学者・三木清の生誕120年目。 ということで、年明け早々、講談社文芸文庫から『三木清 教養論集』が出ていました。 三木清教養論集 (講談社文芸文庫) 作者:三木 清講談社Amazon 1932年から1941年までの10年間に、新聞や雑誌などに寄稿された比較的短いエッセイの数々が、読書論・教養論・知性論の三部に大きく分けて収録されています。 情熱的で明晰でチャーミングな文

    それ、もう三木清が言ってた 〜『三木清 教養論集』から〜 - 科学と生活のイーハトーヴ
  • かしこいはつくれるー来たるべき人文知のためのプログラム(大風呂敷)

    この文章は、おそらくコードや技術的文書を書く人たちならポエムと自嘲する類のものであるが、詩人に「舐めてんのか」と恫喝されるのも面倒なので、綱領のようなものだと言い張ってむしろプログラムと呼び、加えて大風呂敷とルビをふるつもりでいく。 第一に自分のような頭の悪い人間が何をやっているのかを知るために書いた。 第二にこれはネイティブ広告のつもりである。昔から人を引き寄せようとすればするほど遠ざける性分であるから、むしろ営業妨害となっている恐れがあるのだが、案の定「宣伝するのに考え込ませてどうする?敷居が高くなって失敗だ」とコメントをもらった。 自由への教養 以前「何故学ぶのか」という問いに、「自由になるため」と答えた。 この応答は、イソクラテス以来のあの定義、「教養とは、運命として与えられた生まれ育ちから自分を解放するもの」を念頭においたものである。 生まれと育ちは人を強く拘束している。その価値

    かしこいはつくれるー来たるべき人文知のためのプログラム(大風呂敷)
    keloinwell
    keloinwell 2016/12/18
    毎度のことながら毎回記事の分量がすごくて勉強になる
  • 『規則と意味のパラドックス』が超絶的に面白い

    今から奇妙なことを書くが、いったん真面目に受け取ってほしい。 68 + 57 = 5 ……(1) いろいろ前提はあるが、(1)は正しいという。前提を聞くと、屁理屈にしか見えない。だが、いったん理解すると、論理的に正しいことが導かれる。これまでわたしが受けてきた「正しさ」が揺らぐ。そこから、ウィトゲンシュタインとクリプキを出汁にして、言葉と意味に内在するパラドックスを解き明かす。狂っているのに信じられる感覚が、超絶的に面白い。 前提として、著者は生まれてこのかた、57より小さい数の計算だけしかしたことないという(普通もっと大きい数を計算しているだろうが、桁は議論の質ではない)。 そして「+」は和を示すプラスではなく、「クワス」という規則だと言い出す。クワスとはつまりこうだ。 x と y がどちらも57より小さいとき x クワス y = x と y の和 ……(2) 上記以外のとき x クワ

    『規則と意味のパラドックス』が超絶的に面白い
  • medieviste.org

    (bib.deltographos.com 2023/11/23) イスラエルとパレスチナの紛争。地理的に(心理的にも)遠いせいか、凄惨な映像を見てもなお、この極東の島国では、なかなかその出来事をヴィヴィッドなものとして受け止めることができないように思います。何年か前、南アジアで仕事をしている知り合いに、中東が落ち着いたら旅行にでも行きたいと言って、たしなめられたことがあります。中東が落ち着いたことなどなかったし、これからもない、そんなふうに言うのは典型的な平和ボケ、認知バイアスだ、というわけですね。 しかしながら、私たちには、そうした緊張感を実感できるだけの「基盤」がないことも確かです。もたらされるのは映像や音声、あるいは文字での情報だけです。それらをどう自身の内的な感覚につなげていけるのか。これはとても困難な問いのようにも思えます。 ちょうど、X(旧Twitterですね)で、『記憶/物

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    keloinwell
    keloinwell 2016/12/01
    哲学ブログ
  • 知の巨人たちが取り組んでいる問題はこれだ『いま世界の哲学者が考えていること』

    やり方が分かっているものは、哲学に向いていない。森羅万象の問題のうち、やり方どころか、そもそも「問題」とすら認識されていないところから始まるのが哲学である。もしくは、問題の背景や根領域からメタに捉え直し、やり方そのものを生み出すのが哲学である。 だから、哲学に取り組むことで、視野は拡張され、思考ツールが集まり、なによりも「問題」そのものを疑う目が養われる。 たとえば、与件を「物理学の問題」や「経済学の問題」に落とすならば、物理学や経済学の「やり方」で考えるしかない。それは一定の成果を生む一方、それぞれの「学」の前提から離れることはできない。 しかし、哲学なら、それぞれの学問領域の成果に加え、「問題」そのものを疑い、再定義することで、さらに深く・広く考えることができる。「〇〇とは何か」をその学問領域に囚われずに追求し、「〇〇からもたらされるものは、結局なんなのか」を新しい目で評価することが

    知の巨人たちが取り組んでいる問題はこれだ『いま世界の哲学者が考えていること』
  • 人工知能=科学∩技術∩哲学『人工知能のための哲学塾』

    人工知能を実現するための、哲学的な手がかりとなる一冊。 人工知能は、科学、技術、哲学が交錯するところにある。「知能とは何か?」を問うのが哲学であり、この問いを探索するのが科学であり、実現するのが技術になる。最近の人工知能ブームでは、科学と技術に目が行きがちだが、書は根のところから応えようとしている。新しく見えるだけの場所から離れ、現象学や認識論を俯瞰することで、現在の人工知能の限界が逆説的に見えてくる。 ブームに乗っかって、たくさんが出ているが、わたしが求める「質」は無い。たいていの人工知能は、「考える」が質であるといい、意思決定用のモジュールを積めばよしとする。「考える」とは何かという問いは保留され、おなじみの「入力→処理→出力」ルーチンに落とし込まれる。 そして、意思決定のためのデータを機械学習で増やしたり、アルゴリズムに動的にフィードバックさせる話になる。プロ棋士に勝つソ

    人工知能=科学∩技術∩哲学『人工知能のための哲学塾』