東京メトロの広告や人気テレビシリーズ『孤独のグルメ』にも登場するシャン民族料理の有名店「ノングインレイ(NONG INLAY)」(東京・高田馬場)。 だが、現在72歳のオーナー、ハンウォンチャイ・スティップさんが日本で暮らすことになった理由までよく知る人は多くないかもしれない――。それは、冷戦下に大国間の代理戦争の現場ともなった「ラオス内戦」だった。 ベトナム戦争の影に隠れてあまり知られていないが、ラオスは「史上最も空爆された国」とも言われ、当時の米軍によって2億6000万発もの爆弾が投下されたという。ラオス内戦はベトナム戦争と同じ1975年に終結し、左派のパテート・ラオが勝利、アメリカが支援した王政側の敗北に終わった。 そんなラオス内戦にスティップさんはどう関わっていたか。実は、米軍やCIAの通訳として従事していたのだ。それは彼にとって「内戦の終結(敗北)」が自らの「命の危機」であったこ
オリンピックというひのき舞台で輝いたスポーツ界のヒロインたちの「その後」は、意外に知られていません。競技者人生がカセットテープのA面だとすれば、引退後の人生はB面。私たちの記憶に残るオリンピアンたちの栄光と挫折に、ジャーナリストの吉井妙子さんが迫ります。 (上)14歳で金メダル、今も失われた2年間の記憶 ←今回はココ (下)40歳でシングルマザーに。芽生えた自覚 「目標は決勝進出」だった14歳が手にした金メダル ―― 1992年のバルセロナ五輪で発した「今まで生きてきた中で一番幸せです」のフレーズは、27年たった今も多くの人の心にあります。 岩崎恭子さん(以下、敬称略) あのとき14歳になったばかりで、まさか私が金メダルを獲得するなんて夢にも考えていませんでしたし、そもそも私は決勝直前まで誰からも注目されず、期待もされていなかったと思います。実際バルセロナ五輪直前までは日本記録さえ破れてい
オリンピックというひのき舞台で輝いたスポーツ界のヒロインたちの「その後」は、意外に知られていません。競技者人生がカセットテープのA面だとすれば、引退後の人生はB面。私たちの記憶に残るオリンピアンたちの栄光と挫折に、ジャーナリストの吉井妙子さんが迫ります。 【関連画像】41歳、1児の母となった現在。金メダル後のつらい日々について話すとき、岩崎さんの目からは涙がこぼれそうになった ●「目標は決勝進出」だった14歳が手にした金メダル ―― 1992年のバルセロナ五輪で発した「今まで生きてきた中で一番幸せです」のフレーズは、27年たった今も多くの人の心にあります。 岩崎恭子さん(以下、敬称略) あのとき14歳になったばかりで、まさか私が金メダルを獲得するなんて夢にも考えていませんでしたし、そもそも私は決勝直前まで誰からも注目されず、期待もされていなかったと思います。実際バルセロナ五輪直前までは日本
トルシエ監督は「フラット3」をはじめ斬新な発想で、日本サッカーに大きな影響を与えた 【写真:Action Images/アフロ】 黄金世代にとって、自分たちをA代表へと引き上げてくれたフィリップ・トルシエ監督は、まさに恩師とも言うべき存在だろう。ところが、実際の関係はちょっと違ったようで……。彼らの口からはトルシエ監督のパワハラ(!?)の数々が明かされていく。前回に引き続き、今回もエキセントリックかつ、憎めない面も多かった、愛すべきトルシエ監督との思い出話をお届けする。(出演:小野伸二、稲本潤一、永井雄一郎、中田浩二、南雄太、酒井友之、播戸竜二)※スポナビアプリでノーカット版を全文公開 【本編】テーマ1:トルシエ監督 永井:試合ギリギリになったときもあったよね。出発前の散歩でさ、テニスコートの中で急に始めちゃてさ、「水もねえ」って言って怒り始めてさ。 小野:散歩なのに。 稲本:あった、あっ
ワールドユース準優勝メンバーが20年ぶりに集結。左から南雄太、播戸竜二、稲本潤一、小野伸二、永井雄一郎、酒井友之、中田浩二 【佐野美樹】 1998年10月、U-19日本代表はアジアユース準優勝に輝き、翌年のワールドユース出場権を勝ち取った。このチームの主軸を担っていたのが、79年生まれのタレントだった。その才能に惚れ込んだフィリップ・トルシエ監督はA代表、五輪代表だけでなく、ユース代表も率いることを希望し、翌年ワールドユースで指揮を執ることになる。その後、トルシエ監督に抜てきされる形でA代表へと引き上げられた黄金世代は、まさに「トルシエの息子たち」――。そこで今回集まった、小野伸二、稲本潤一、永井雄一郎、中田浩二、南雄太、酒井友之、播戸竜二の7人に、まずは彼らの恩師であるフランス人指揮官について語ってもらう。 ――今日は特別に、ゲストとしてトルシエさんをお招きしています。よろしくお願いしま
「コロンブスの卵」という格言がある。たとえ簡単そうに思えることであっても、それを最初に発想してやり遂げることは想像以上に難しいという意味の言葉だ。この格言のとおり、こうした偉大な第一歩は往々にして、後に第三者から当たり前のことと捉えられたり、起こるべくして起こったことと評される。しかし、慣習や習慣というのは人を縛り付けやすく、そこから逸脱したことを新たな常識として定着させることほど難しいものはない。その第一歩が踏み出される前と後では、世界はがらりと様変わりしているはずだ。 2017年7月に淡路島・洲本で「ドラゴンクエストミュージアムセレクションズ」と共に開催された「堀井雄二展」。そこには『ドラゴンクエスト』シリーズの30年の軌跡を振り返るだけではなく、堀井雄二氏が『ドラゴンクエスト』以前に手がけたゲームも展示されていた。堀井氏は『ドラゴンクエスト』シリーズの生みの親として知られているが、そ
ディスプレイを一新し、大きな話題となったiPhoneX。そのiPhoneXと同時に発表されたiOS11で、新たに搭載された機能のひとつが「QRコードの読み取り」だった。 手軽に文字情報を読み込めるとして、カメラ付き携帯電話の普及と共に広がったQRコード。登場から20年あまり経った今も、LINEのID交換や電子チケットに活用されるなど身近なものとなっている。iPhoneへの機能追加も、QRコードが海外で決済などに利用されていることを受けてのものだ。 このQRコード、実は開発者が日本の会社員であることをご存じだろうか。 その人物が、デンソーウェーブの原昌宏さん。QRコードはデンソーで開発され、現在はデンソーウェーブの登録商標となっている。今なお広がりをみせるQRコードは、いったいどのように開発されたのか。あの特徴的な白黒のドットにはどんな技術が秘められているのか。「QRコードの生みの親」に話を
ホーム 全記事 インタビュー 『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』音楽家・高見龍氏インタビュー 今明かされる『EVE burst error』『YU-NO』秘話 『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO(以下、YU-NO)』は1996年12月に発売されたアドベンチャーゲームだ。SFやミステリーが絡む骨太で重厚なストーリーと、時間軸を自由に行き来できるA.D.M.Sというシステムが渾然一体となっている点が最大の特徴であり、しばしば「アドベンチャーゲームの金字塔」とも評される。2000年代以降に流行ったループものの再評価の道筋をいち早くつけた作品であり、ループものをゲームシステムに落とし込んだという意味では、いまだにこのゲームを超えたゲームは登場していないと言っても過言ではない。 『YU-NO』はまずPC98からリリースされ、97年にセガ・サターンに大幅にアレンジされて移殖、2000年にはW
鳥山明の名作漫画『Dr.スランプ』に、則巻千兵衛博士のライバルとしてアラレたちに立ちはだかるDr.マシリトなるキャラがいたのを皆さんは、覚えているだろうか。 このキャラのモデルになった人物こそが、今回インタビューする白泉社代表取締役社長・鳥嶋和彦氏にほかならない。 彼の編集者人生は数々の伝説に彩られている。新人賞にかすりもしなかった新人漫画家・鳥山明を一から育て上げ、何百枚にも及ぶボツ原稿を出したあげくに、『Dr.スランプ』や『ドラゴンボール』などの名作をタッグで世に送り出したこと。鳥山明のみならず多くの漫画家にネタにされてきた、その“悪魔のような”強烈なキャラクター。そして90年代後半、週刊少年マガジンにジャンプが追い越された「暗黒期」に編集長として呼び戻され辣腕をふるい、『ONE PIECE』や『NARUTO』、『テニスの王子様』などの作品を次々に世に送り出し、再びジャンプを王者の座に
[Jリーグサッカーキング5月号 掲載] 世界的なビッグネームが次々に日本に新天地を求めた草創期、ストイコビッチもまた、生まれたばかりのJリーグに強い関心を抱き、大きな希望と決意を持って足を踏み入れた。あれから約20年、Jリーグの変化を見守ってきた彼の目に映る、日本サッカーの“現在地”とは。 インタビュー・文=大島久之介 写真=鷹羽康博 Jリーグは今年で20周年を迎えます。この20年という期間をどのようにお考えですか? ストイコビッチ 率直に言って、日本サッカー界はこの20年で飛躍的に発展したと感じています。リーグやクラブの運営体制、ピッチ上でのパフォーマンス、そしてファンの皆さんのサッカーに対する理解、こういった部分は目覚しい進歩を遂げてきたのではないでしょうか。20年前と比べると、すべてがポジティブな方向に向かっていると言える気がします。 ストイコビッチ 当時の私にとっては、すべてが新し
10月31日、コミックマーケットの前代表 故・米沢嘉博氏の名を冠した図書館がオープンした。「米沢嘉博記念図書館」と名づけられたこの施設は、米沢氏が生前蒐集していたマンガ単行本・雑誌、書籍、風俗誌などを収蔵する閉架式の図書館で、国立国会図書館や京都国際マンガミュージアムなどでも欠本扱いの貴重本が多数収められている。また、コミックマーケットで販売された同人誌も期限付きで閲覧対象に入るとあって、開館前から研究者やファンたちの熱い視線を浴びてきた。 今回は、この米沢嘉博記念図書館の設立を推進した明治大学国際日本学部准教授の森川 嘉一郎氏に、設立のきっかけと今後の展開についてうかがった。 ―― この図書館を開館することになったきっかけから教えてください。 森川 わたしの立場から振り返ると、はじまりは2003年のことでした。その翌年に開催される「ヴェネチア・ビエンナーレ第9回国際建築展」に向けて、日本
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