ロカルノさんが、拙著の書評を書いてくださいました。 【書評】『流動型『学び合い』の授業づくり』 - ならずものになろう ネット上で多くの方にイメージされている私の姿は(当然ですが)実際の私とは大違いです。私は、臆病な面があります。本を出す、というのは怖いことだし、苦しいことだと感じています。 でも、ロカルノさんの書評を拝見して、子供たちとの営みをこんな風に受け取っていただけるのならば、本を書いてよかった、書いた意味があったと思えました。 ロカルノさん、本当にありがとうございました。
授業をしていると、私は時々、手の内を隠したくなる。特に顕著なのが国語科。物語文の読み取りの授業だ。私は、子供たちが思いつかないであろう「とっておき」の解釈を持っている。何度も授業をしているし、先行研究や先行実践も学んでいる。だから、子供たちよりも様々な読み取りができて当たり前。でも、最初はそれを出さない。 子供たちが一生懸命に読んでいて、ちょっと行き詰まった頃を見計らい、ヒントを与える。 「ねえ、みんな、ちょっといいかな。あのね・・・」 それを聞いて、数名が 「あ!」 と気づく。私は笑顔でうなずきながら、 「どうやら、気づいた人がいるみたいだよ」 なんて言って、暗に「その考えで合っているよ」と示す。そうすると、私が隠していた「とっておき」の解釈が、だんだんと広まっていく。 こういう手の内を隠して、後出しするような授業を何度もしたことがある。『学び合い』に出会う以前も、出会ってからも。国語科
学校にはたくさんの「思い込み」があって、それが正しいかどうか、必要かどうかを判断することが難しくて、どんどん自分たちで仕事を大変にしているよなあ。そんな風に感じることが時々あります。 「子供達を意のままに操れるのが良い教員。そのための力が指導力。そのための技が指導技術」というのもその一つ。そういう価値観の存在を感じます。教員を縛る呪縛と言ったら、言い過ぎでしょうか。 「子供達を操りたい!」と思って教員になった人って、そんなに多くないでしょう。だって、教員になるまではみんな「児童・生徒・学生」だったのですから、操られて嫌な経験をしたり、操られているふりをして裏で舌を出したりした経験をしていると思うんですけれど。操る・操られるということに、マイナスの感情を抱いている人が大多数じゃないのかな。違うのかな。 それがいつのまにか「操ることができるようにならなきゃいけない」と思い込まされているのは、学
最初の語り 今年は、授業開きの日に、次の4点を話すつもりです。 学校に来る目的は何か どうすればもっと勉強が分かるのか 分かるとはどういうことか 全員が分かるように 1は、一言で言うと「立派な大人になりましょう」ということです。 2は、「先生がどんなに説明しても無理。友達と自由に相談できる方が成績が上がる」ということです。 3は、「分かったつもりでいても、友達に説明できないと、分かったとは言えない」ということです。 4は、「立派な大人とは、より広い範囲で人とつながれる人である。自由と言っても、仲間外れやいじめや無視は許さない。友達とは仲良しの人ではない。仲良しと「分かった?」「うん、オッケー!」と分かってもいないのに分かったふりをしてはいけない。学級全員ができるまで、力を合わせて学びなさい」と1から3の話をからめてまとめようと思っています。 課題は 学年等はまだ明かせませんので具体的には書
良いか悪いかは別にして、「国語の授業」と言えば「文学教材」というイメージが根強いなあと思います。教育書コーナーに並ぶ国語の本も、研究授業で扱われるのも、文学教材が多いですよね。 でも、良いか悪いかは別にして、私が教員になったばかりの頃と比べると、教科書や学力テストでの扱いは減っているように思います。 平成10年の指導要領改訂の際には 特に、文学的な文章の詳細な読解に偏りがちであった指導の在り方を改め、自分の考えをもち、論理的に意見を述べる能力、目的や場面などに応じて適切に表現する能力、目的に応じて的確に読み取る能力や読書に親しむ態度を育てることを重視する。 平成10年改訂の指針より とされていましたから、それ以降減っているのは当然なのでしょうね。 そして、おそらくこの流れは今後も継続していくでしょう。で、きっと偉大なる先輩国語教師の方々は、この流れを好ましく感じていないでしょうし、批判なさ
11月20日に、東京池袋を会場に「学びのカリキュラム・マネジメント」セミナーin東京を開催致します。 11月20日 「学びのカリキュラムマネジメント」セミナーin東京(東京都) 日本一の爽やか教育実践グループ・みゆき会が上梓した子どもの書く力が飛躍的に伸びる! 学びのカリキュラム・マネジメント。おかげさまで多くの方々に手に取って頂けたようです。感謝感謝! でも「2学期から挑戦したけれど、まだコツが分からない」「やってみたいけれど、難しそう」そんな声も聞こえてきます。 じゃあ、分からないなら聞いてください、我々に!ということで、本に書いたことは更に詳しく、書ききれなかったことも付け加えて、お話致します。 ただなあ。ウチのリーダーは無闇矢鱈とハードルを高く高くしてくるから、私と古田さんにはプレッシャーなんですけど。 皆様、池袋でお会いしましょう。
学校は「教科の学習」をするところです。だから、私は、子供達に「教科の学習」をさせます。 中には、私のあまり好きじゃないことも学習指導要領に含まれています。が、やります。なぜなら、公教育に携わる教育公務員ですから。 本音を言うと、学習内容には「それほど」こだわりはありません。どんな内容であっても、合う子もいるし、合わない子もいますから。ただ、何でも良いとは思っていません。「より多くの人間にとって学ぶ意味のあるもの」を公教育では扱うべきだとは思っています。現行の学習指導要領は、だいたいはそうなってると感じます。 けれど、繰り返しますが、どんな内容でも合う子もいるし、合わない子もいるでしょう。全ての子に合う勉強はありません。 じゃあ、合わない子はどうするの? 合わない子であっても、楽しく学んでしっかり伸びて欲しいと願っています。全ての子が、一人残らず。 その為に必要なのは「仲間」だと思っています
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