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いい話と人生に関するshichiminのブックマーク (10)

  • 40歳の時、生涯独身を覚悟してヲタ活邁進を決意した私が44歳で結婚することになった

    【追記】 思わずしていろいろな方に読んでもらえて嬉しいです。 ただ、一部の私の言葉の使い方がまずくて気分が悪くなってしまった方には当にごめんなさい。 祝ってくださった方、ありがとうございました! 【編】 40歳の誕生日を迎えた日に私は、自称”地元の郷士”を名乗るご年配のご婦人に罵倒されていた。 なんでも、絹ごし豆腐と思って買ったそれが木綿豆腐だったらしく、絹ごしの気分だった喉が酷く傷ついたらしい。 何できちんと「これは木綿です。絹ごしではありません」と明記してくれなかったのか、と。 たしかにそれはたいへんだ、申し訳ないことをしたと思いながら無心で謝罪をしていた。 その心の裏側では今どきのゴーシさんって自分で豆腐を買いにくるのか、ゴーシさんもご多分に漏れず人手不足なのかなぁ、と余計な憐れみを感じていたことをあわせて詫びていた。 申し訳ないことをしたと思う反面、やはり自分の心は荒むもの。

    40歳の時、生涯独身を覚悟してヲタ活邁進を決意した私が44歳で結婚することになった
    shichimin
    shichimin 2024/05/27
    おめでとう!
  • 50代独り身おじさんの自分語り

    大学卒業後就職に失敗。アルバイトから物流会社に勤務するも辛すぎて数ヶ月で退職しそこから10年以上引きこもり。 母が職場で倒れたことをきっかけに介護施設に就職し、数年経って介護福祉士となった。それからしばらくして転職し現在も勤務する私立病院の事務職に就いた。この時41歳。 そこで知り合ったのが。 同い年でバツイチの看護師。自分も向こうも職場で同僚との人付き合いが殆どなかったが、何故か挨拶する様になって会話するようになって付き合い始めた。女性と交際したことは40年以上生きてて一度もなかったが、その歳だったからか初デートでも初セックスでも一切緊張しなかった。 約2年交際してから結婚。お互い歳で向こうは既に子宮を全摘してるってこともあり子なし夫婦。最初は母と3人で住んでいたが間もなく亡くなったため以後は二人きりの生活になった。ご飯べて、仕事行って、ご飯べて、各々読んだりテレビ観たりして、2

    50代独り身おじさんの自分語り
    shichimin
    shichimin 2023/06/08
    普通にいい話だった
  • プログラマだった親父が死んだ

    俺にとってはビル・ゲイツよりもスティーブ・ウォズニアックよりもリーナス・トーパルズよりもケン・トンプソンよりもアラン・チューリングよりもティム・バーナーズ=リーよりもブライアン・カーニハンよりもビャーネ・ストロヴストルップよりもジョン・バッカスよりもグレース・ホッパーよりもデニス・リッチーよりも数々の功績を挙げた偉大なプログラマよりも当に当に偉大なプログラマだった 親父の職業がプログラマだと子供の頭で理解したとき当に驚きだった 俺の親父はテレビテニスが作れると知ったとき、オリジナルのゲームウォッチを目の前で作りあげ誕生日プレゼントだと渡してくれたとき、俺の親父は何でも出来る人なんだと当に憧れた PC9801やX68000で疑似3Dやワイヤーフレーム3Dをレンダリングされた際の衝撃が理解できるだろうか?俺はまさに最先端のゲームを目にしていると子供ながら身を震わせてしまったことを今でも

    プログラマだった親父が死んだ
    shichimin
    shichimin 2023/05/27
    ”小さなプログラムで大きな事を成せ”
  • 吉田拓郎 篠原ともえとの共演「本当に嫌だった」降板何度も申し出たが…今では「僕の50歳からの先生」(スポニチアネックス) - Yahoo!ニュース

    年内で芸能活動を終了する意向であることが分かったシンガー・ソングライターの吉田拓郎(76)が、デザイナーでタレントの篠原ともえ(43)がMCを務める25日放送のTokyo FM「東京プラネタリー☆カフェ」にゲスト出演し、初対面の時の印象が最悪だったと明かした。 【写真】ラジオのゲストに来た吉田拓郎と篠原ともえ(インスタから) 2人は96年10月から01年3月まで約4年半レギュラー放送されたフジテレビ系「LOVE LOVE あいしてる」で共演。だが吉田にとって、当時、個性的ファッションで「シノラー」として人気を博していた17歳の篠原との共演は「番組を早く終わりたいと思っていた。嫌でした」と話した。 篠原が「あいさつに行ったときには帰っちゃってね」と語ると、吉田は「僕は君が苦手だった。ちょうど50歳になる頃だったんですよ。当時ね、若い人があの頃大嫌いで。そこに持ってきてKinKi Kidsや篠

    吉田拓郎 篠原ともえとの共演「本当に嫌だった」降板何度も申し出たが…今では「僕の50歳からの先生」(スポニチアネックス) - Yahoo!ニュース
  • Amazonで「鬼滅の刃」のコミックを買ってしまったのに、どうしても読み始める気になれない。

    鬼滅の刃」が絶好調だ。 あえて説明する必要もないが、劇場版の興行収入がえらいことになっていたり、単行の売り上げがドえらいことになっていたり、最終巻を求めて長蛇の列ができたり、めちゃくちゃ転売されたり、わけわからんコラボグッズが出たり、とんでもない状況だ。 見ると、町ゆく子どもたちのマスクまでどこかで見たような柄のものになっている。 これはもう社会現象と言っても過言ではないのだろう。 この「鬼滅の刃」はすごい。 たぶんどえらい作品だ。 そんなもの詳しくなくても分かる。 ただ、「たぶん」と表現しているのは、実はまだ観たことがないからだ。 そう、僕はこの作品に全く触れていないのだ。 原作も見てなければアニメも見ていない。もちろん劇場版も見るつもりはない。 やはり、たとえ末端といえども文章を書いたりして表現活動をしている者として、こういった作品は必ず抑えておく必要がある。 社会現象は多くの人に

    Amazonで「鬼滅の刃」のコミックを買ってしまったのに、どうしても読み始める気になれない。
  • ほぼ叔父に育てられた

    父親はモラハラで母に興味が無く気まぐれに私を殴り 母親はアル中で不倫中毒で家事一切しない 共働きで父母どちらも炊事洗濯掃除全くしない そんな家庭で育った 乳幼児の頃から当に叔父に助けられて育った 叔父は母の年離れた弟で叔父が大学生の時に私が生まれた 私が生まれたばかりの頃から母の子育てを危ぶんだ叔父は私の世話をかって出た(らしい) それから小学校に入学するまで母の実家で祖父母と叔父と暮らしていた 高齢者のパート賃金と大学生だった叔父のバイト代、叔父が就職したら新卒の給料が頼りだったので裕福とは言えない暮らしだったが穏やかだった 小学校入学とともに父母に引き取られた 地獄だった 叔父は土日に遊びに連れ出してくれたり母の実家にお泊まりさせてくれたりした 母はなぜか実家にあまり来ないので叔父と祖父母といられて懐かしいごはんがべられて嬉しかった 10代になると自分の家庭が明らかにおかしいことが

    ほぼ叔父に育てられた
  • 物語を守るという生き方 - はてなポイント3万を使い切るまで死なない日記

    ルールを守ることがどこまで必要なのかを高校時代に友達とよく議論した。 覚えているのは「交通信号をどこまで守るべきか?」というテーマについての議論だ。高校生なので、とうぜんながら歩行者の立場からの議論だ。 赤信号のときにクルマがきていない。そのときに横断歩道をわたることは人間として、どこまで許されるかというお題についていくつかの面白い立場がでてきた。 (1)ルールはルール派。どんなときであっても信号は守るべき。 (2)at your own risk派。大丈夫だと思ったら、自分の判断で渡っていい。ただし、それで事故にあっても警察に捕まっても自分の責任だ。それを自覚して信号無視するのであれば、人間の生き方としては許される。 (3)信号?なにそれ派。もっとも交通事故率の高い大阪ならではの考え方。赤信号であってもクルマがいなければ渡る。青信号であってもクルマがきてれば渡らない。そもそもクルマも歩行

    物語を守るという生き方 - はてなポイント3万を使い切るまで死なない日記
  • 育児板拾い読み@2ch あとち 色々あって姪っ子7歳引き取ることになった

    ◇◇チラシの裏 126枚目◇◇ toki.2ch.net/test/read.cgi/baby/1280296741/l50 798 名前: 1/2 [sage] 投稿日: 2010/08/13(金) 10:40:31 ID:nE2jxtd8 色々あって姪っ子7歳引き取ることになった。 結婚するあてもないし。まだ24歳だが人と出会う仕事でもないし、 そんなバイタリティもないから現実的に言って無理だし、面倒臭いのも あるからもう良いや、と。 兄夫婦が離婚して元義姉に引き取られていき、元義姉は再婚。 再婚した相手が最低で酷い虐待。 元義姉は「しょうがない、我慢しなさい」と言い続けたらしい。 兄は事故で他界だしで。たまたま仕事の関係で関東に行って姪っ子の 小学校の近く(昔私が通った小学校だった)に来たから、学校の前を 通りながら眺めようとしたら、丁度休み時間だったらしく校舎から出てきた 姪っ子と

  • 夜間中学:91歳女性が卒業…戦災・震災乗り越え 神戸 - 毎日jp(毎日新聞)

    卒業証書を手にし、席に戻る平井シヅヱさん(中央)=神戸市長田区で2010年3月10日午前10時43分、小川昌宏撮影 戦争の混乱などで教育を受けられなかった人らが通う神戸市須磨区の夜間中学「市立丸山中学西野分校」の卒業式が10日、同市長田区であり、91歳の平井シヅヱさんが3年間学んだ喜びをかみしめ、卒業証書を受け取った。18歳で結婚、しかし夫は戦死。震災で自宅は全焼。「今日のこの日を、新たに歩いていく日にしたい」。平井さんは決意を新たにした。 徳島県生まれ。母親は平井さんを産んですぐに亡くなった。父方の祖母に育てられ、小学校を卒業後、神戸の親類に身を寄せた。1937年に結婚したが、夫は5カ月後に出征。翌年、阪神大水害に見舞われ、夫の戦死の公報も届いた。 終戦後に再婚し、神戸の焼け野原で新生活を始めた。工場で働き1男3女を育てた。 12歳から働きづめだった人生。あきらめたことも多かった。唯一

  • 結婚

    生まれてこのかた一度も「モテ」というのを経験した事もなく、告られたことも告ったこともなく、顔と性格を客観的に吟味していった結果、そういういわゆる「女としての幸せ」は無理と高校生の頃思い定めて大学に行って技術職の資格を取った。 そこそこ忙しく働いて収入も人並みに得て、両親や弟との関係も良好、ワンコもかわいいし実家近くでの一人暮らしも満喫、女友達と遊びも楽しく、割と充実して生活していたつもりだったが、40歳を目の前にしてなぜか寂寥感を覚えた。その間、年齢=彼氏いない暦、典型的な喪女であった。 大台寸前にして一度そういう活動をやってみるぞと周囲に宣言した半年後ぐらいに「婚活」という言葉がブレイク。 この言葉は救いだったね、自分にとって。 自分のやっていることに名称がついた事で、人にぐっと言いやすくなったし、何より自分の立ち位置がはっきりわかった。 そもそも宣言はしてみたものの、気でうまくいくと

    結婚
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