フランス・アルペン地方の城で、床板の裏に大工が書き綴っていた秘密の日記が見つかった。19世紀後半のフランスで、村の住民がどのように暮らしていたかを知る貴重な資料だという。BBCパリ特派員のヒュー・スコフィールド記者が解説する。
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男性信者の風呂場の「事故」 富士山を望む静岡県富士宮市の教団総本部で1988年9月、一つの事故が起きる。修行中の男性信徒が突然、大声を上げ始めた。幹部が水をかけたところ、男性は死亡してしまった。公にすれば教団の活動を休止せざるを得なくなることを恐れた松本智津夫死刑囚は、警察には連絡せず、幹部らに男性の遺体を処理するよう指示。幹部らは遺体をドラム缶で焼却し、骨を湖に捨てた。その場に立ち会っていた別の男性信徒は同年末、教団の出版物の営業活動に当たるよう指示された。だが、男性は「営業をやっても功徳にならない」と感じ、教団からの脱会を訴えるようになった。男性の脱会で事故が表沙汰になるかもしれない――。松本死刑囚は89年2月の深夜、幹部らを集め、「男性の考えが変わらないなら、ポアするしかないな」と命令した。幹部らは、コンテナ内で両手、両足を縛られた男性の首をロープで絞め、殺害した。教団の活動を妨げる
古代文明① インカ文明(西暦1438〜1532年)先コロンブス期(ヨーロッパ人の少なからぬ影響が現れる以前の時代)においてインカ帝国は、南アメリカ最大の帝国でした。 この古代文明は現在のエクアドル、ペルー、チリのあたりで繁栄し、現在のペルーにあるクスコに行政、軍事、政治的中心をおき、しっかりとした社会を構築したことで、帝国として急速に繁栄していきます。 当時のインカ人は太陽神インティを熱心に信仰しており、インカ人の王は太陽の子を意味する「サパ・インカ」と呼ばれていました。 初代インカ皇帝パチャクテク(インカ帝国の前進となるクスコ王国9代目の皇帝)は、小さな村から大きな都市へと発展、再編させ、インカ帝国が成立します。 さらに、パチャクテクは祖先崇拝の伝統を拡大させ、ここにインカ文明が始まったのです。 また、皇帝が死ぬと権力は全て息子に、財産は息子以外の親族に配分し、彼らが皇帝のミイラを保存し
天武(てんむ)天皇(在位673~686)や聖武(しょうむ)天皇(同724~749)ら飛鳥~奈良時代の複数の天皇が訪れた吉野宮(よしののみや)〈離宮〉の有力候補地とされる奈良県吉野町の宮滝遺跡(国史跡)で、奈良時代前半(8世紀前半)の大型建物跡がみつかった。町教育委員会と奈良県立橿原(かしはら)考古学研究所(橿考研)が15日発表した。天皇の宮殿だけに許された規格の建物構造だったとみられ、専門家は実態が不明だった「幻の離宮」の所在地が解明されたとの見方を強めている。 出土した掘立柱(ほったてばしら)建物跡は東西23・7メートル、南北9・6メートル。四方に庇(ひさし)がつき、周囲には石敷きがあったとみられ、吉野川まではわずか20メートルほどの近さだった。1989年に東端部分が出土していたが、昨年末からの調査で西側が出土し、全容が明らかになった。橿考研によれば、今回の建物跡と同じ東西9間、南北5間
攻撃の成功がそのまま死につながる「十死零生」という、世界の戦争史の中でも稀な作戦ゆえ、戦後70年を超えても未だ評価の定まらない「特攻」。ある者は、「究極の愚策」と罵り、ある者は、国に殉じた若者たちの美談を讃える。そうなってしまった背景には、生き残った負い目から口を閉ざした元隊員たちの一方で、自己正当化をはかった一部の指揮官たちの存在が影響しているのは間違いない。実際に、この作戦はいかに採用され、いかに実行されたのか。神立氏が集めた数百人の元搭乗員、関係者の証言とデータから、その実像に迫る。 元隊員の間でさえ、特攻への評価に温度差がある 太平洋戦争末期の、日本陸海軍の飛行機、舟艇、戦車などによる体当たり攻撃、いわゆる「特攻」は、「あの戦争」の一つの象徴として、いまなお論考が重ねられ、関連書籍が出版され続けている。 かくいう私も、「特攻生みの親」とされる大西瀧治郎海軍中将の親族、副官、特攻を命
織田信長 @odnobunaga @enryakuji_hiei 延暦寺さんこんにちは。 織田信長と申します。 突然のお願いで恐縮ですが、浅井朝倉の残党を匿うのをやめて講和して頂くわけには参りませんでしょうか? 講和がならなかった場合、此方も相応の対応をさせていただく事になろうかと思います。 ご考慮の程宜しくお願いいたします。 2018-03-28 20:35:02
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中央線の神田~御茶ノ水間には、かつて「万世橋」という駅がありました。この場所は「交通博物館」を経て、現在は商業施設に。明治時代に開業した駅の遺構があり、東京の「過去」と「現代」を体感できるスポットになっています。 戦前の駅の遺構を活用した商業施設 日本のカルチャー発信地、秋葉原からほど近い場所に、東京の鉄道史を伝える貴重な遺構が残されています。 秋葉原の南、神田川の向こうに見える赤レンガの高架線路。中央線の電車が行き交うその下に、JR東日本グループが運営する商業施設「マーチエキュート神田万世橋」があります。ここにはかつて、現在の鉄道博物館の前身にあたる交通博物館、さらに昔には国鉄の万世橋駅がありました。 2006年に特別公開された旧万世橋駅ホーム。駅名標はレプリカ(2006年4月、栗原 景撮影)。 万世橋駅は、1912(明治45)年に中央本線の始発駅として開業した駅です。東京駅と同じ、辰野
徒歩や馬での移動が主だった江戸時代に整備された、中山道や東海道などの街道沿いの宿駅を中心に発達した町を「宿場町」と呼びます。 かつて多くの旅人が行き交った宿場町。今回は、今でも往時の面影を色濃く残している宿場町を7つをご紹介いたします。タイムスリップをしたかのような町並みを歩き、歴史と文化に触れる非日常のひとときを過ごしてみませんか。 福島県を代表する人気観光スポットのひとつ「大内宿(おおうちじゅく)」。会津若松と日光今市を結ぶ下野街道の宿場町として整備され、今も約500mの往還に江戸の風情が残っています。昭和56年4月には、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定。 現在は、お土産屋やお食事処が軒を連ねていて、名物「ねぎそば」や「しんごろう」を目当てに訪れる人も多いのだとか。また、毎年2月には、雪灯籠の幻想的な光景が楽しめる「大内宿雪まつり」も開催。江戸時代にタイムトリップしたかのような感覚
約1億5千万年前のジュラ紀にいた鳥の遠い祖先の始祖鳥は、自力で羽ばたいて飛べた可能性が高いことがわかった。フランスなどの研究チームが、始祖鳥の骨の特徴を現在の鳥など約70種と比べたところ、キジなどに近く、短い距離を飛ぶ能力があったと判断した。14日に英科学誌ネイチャーコミュニケーションズで論文を発表する。 始祖鳥は、体長約50センチでドイツで化石が見つかった。恐竜に似て歯を持つが、羽毛や翼があり「最古の鳥」とされる。ただ、飛べたかどうかはわかっておらず、羽根の強度の推定から滑空程度しかできなかったとする見方もあった。 研究チームは、フランスにある大型放射光施設「ESRF」で、始祖鳥の翼を支える上腕骨などの内部構造を詳しく観察。骨の断面の多くを空洞が占め、当時の小型恐竜などと比べて軽量化が進んでいたことがわかった。恐竜や翼竜、現在の鳥類など計69種の骨の特徴を統計的に分析したところ、始祖鳥は
神武陵にされる前のミサンザイ 「文久の修築」による変貌 改変が繰り返される「神武陵」 広大な森を新たに造成 演出される「神秘」「荘厳」 幕末の下級武士たちがでっち上げたペテン 神武陵にされる前のミサンザイ 式年祭についての記事でも書いたように、現在の「神武天皇陵」は、幕末の文久2(1862)年、恐らく神武の埋葬地ではない「ミサンザイ」に決定された。その後、明治から昭和にかけて、このミサンザイは巨大で荘厳な「天皇陵」に作り変えられていくことになる。 まず、この地が神武陵に比定される前はどうだったか。「文久の修築」前の状態を示す絵図が残っている[1]。 当時のミサンザイは、田圃の中の小さな塚に過ぎない。そこには榎一本と茨のような灌木が一株生えていた[2]。ちなみに、旧洞村の古老の話によると、ここはもともと糞田(くそだ)と呼ばれており、牛馬の処理場だったかも知れない[3]、という。 「文久の修築
明治から大正期にかけての日本で最も高い建築物で、関東大震災で半壊し解体された「凌雲閣(りょううんかく)」の基礎部分とみられるれんがと、八角形のコンクリートの土台の一部が、東京都台東区浅草二のビル工事現場で掘り起こされた。「話には聞いていたが、初めて見た」と街の話題になっており、工事の柵越しにスマートフォンで撮影する人もいる。 九日に現地で記録、測量をした区教育委員会の文化財調査員によると、同様のれんがは一九八一(昭和五十六)年にも近くの建設工事現場で出てきた。当時の記録と対応し、今回も「凌雲閣の可能性が高い」としている。 凌雲閣は、一八九〇(明治二十三)年に建設された十二階建て、高さ五十二メートルの塔で、「浅草十二階」の愛称で親しまれた。展望台から東京が一望でき、日本初の電動式エレベーターが設置された。一九二三(大正十二)年の関東大震災で半壊し、地上部分は取り壊された。
日本初の全天候型多目的スタジアム、東京ドーム(東京・文京区後楽)が今年30周年を迎える。1988年3月17日にオープニングセレモニーが行われ、翌18日に巨人・阪神のオープン戦がこけら落としイベントとなった。今年は巨人の宮崎キャンプが60年、夏の甲子園(全国高校野球選手権)が100回大会と節目が重なるが、東京ドームもメモリアルイヤーだった。マイク・タイソンのボクシング世界ヘビー級タイトルマッチ、美空ひばりさんの“不死鳥”コンサートなどで幕を開けた30年前の記憶を振り返ってみた。 総工費350億円、空気膜構造の白いドーム球場が初お目見えしたのは、30年前の3月17日のこと。22番ゲート前でテープカットが行われ、球場内でのお披露目パーティーでは、おごそかな神事と全米高校選抜ドリルチームによるダンスが披露された。翌18日にこけら落としとして、プロ野球オープン戦の巨人・阪神戦がプレーボール。19日に
【ソウル時事】韓国の文在寅大統領は4日、元慰安婦らとソウルの大統領府で面会し、慰安婦問題をめぐる日韓政府間合意について、謝罪した。 大統領府が発表した。 文大統領は「おばあさん(元慰安婦)たちの意見も聞かず、意向に反する合意をしたことに対し、申し訳なく、大統領として謝罪する」と述べた。 さらに、「合意は真実と正義の原則に反しているだけでなく、政府が一方的に推進し、内容と手続きのいずれも誤っていた」と朴槿恵前政権の対応を改めて批判。「合意が(日韓)両国間の公式な合意だという事実は否定できないが、『合意で慰安婦問題が解決された』と受け入れることはできないと(先に)表明した」と説明した。
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