私も回答としては①だと思います。 フッサールの場合、主観性の分析のために相互主観性を導入したのであって逆ではないし、言語学や社会学が強調する他者によって自己が成立する構造とは厳密には区別されるべき、質問者さんが拘っているように飽くまで現象学において主観性の問題を掘り下げることで見出されたものだと思いますものの、東京都立大の田島先生も「相互主観性の発生論的解明は、ついに課題に留まって、本格的に手がけられるには到らなかったように見える」(『フッサール』人類の知的遺産シリーズ、のち講談社学術文庫)と述べています。 他方で、②については相互主観性がさらに主観性に包含されているかたちの問いですが、それは貼り紙禁止の貼り紙を引きちぎって貼り紙を貼った者や、貼り紙禁止と書いた者に問い質すようなものですが、これは生活世界や日常の感覚からすれば屁理屈というものでしょう。ラッセルのクラス論のようなことを持ち出
現象学の「間主観」「相互主観」とは何か? その前に、一般的な意味での相対主義について。 (内容的には、懐疑主義、ニヒリズムも同じ構図である) 相対主義は、人の「絶対的」「普遍真理的」「説教的」な物言いの怪しさ、押しつけがましさから、人にはいろいろな考えがあり、文化も環境も異なるのだから「様々な見方」を許容しようという発想が一つにあると思われる。これは「ごく自然な考え」である。 ただ、一般に相対主義は、あまり詰められたものでないがゆえに、「本来の意図」とは逆の思想になりがちである。 相対主義は、一方で、自説は「正当」と述べているが、他方で、他者の説は「相対的であり正しいとはいえない」(ここで自説が「正しいとはいえない」ことは問わない)というダブルスタンダードな状況にある。 つまり、自説は「正当」、自説の「相対化は問わなく」、他説だけ「相対化する」。 そうすると「相対主義は絶対である」となる。
竹田青嗣 『現象学入門』(NHKブックス576) 日本放送出版協会 1989年 2001. 10. 7. 大学時代に買ったものの、何かのせいで読むのが途絶えたまま積ん読状態になっていたのを、先日ふとした拍子に思い出して読み直してみた。 一応、一通りは読み終えたけど、内容の10分の1も理解していないのではないのかと思う。だから、今回は(「も」か)、あんまり内容については書けないのであしからず。 そして、かなり前置きが長くなるうえに、ほとんど本とは関係ない。 そもそも、なぜ「現象学」なぞというものに興味を持ったのか。 理由は、実は学問的なものでもなんでもない。 大学時代、そう、立命館の存心館地下の本屋をいつものようにうろうろしていた僕は、たまには哲学でも勉強してみようかという気になった。しかし、岩波文庫の細かい字と難解な日本語を見ただけでその衝動はあっさり消えそうになり、やっぱりやめようかと考
ヘテロ現象学、意図スタンス(Intentional stance)、志向姿勢、直観ポンプ(Intuition pump)、多元的草稿モデル(または多重草稿モデル、Multiple drafts model)、貪欲な還元主義(Greedy reductionism)、カルテジアン劇場 ダニエル・クレメント・デネット3世(Daniel Clement Dennett III, 1942年3月28日 - )[1][2]は、アメリカ合衆国の哲学者、著述家、認知科学者である。心の哲学、科学哲学、生物学の哲学などが専門であり、その中でも特に進化生物学・認知科学と交差する領域を研究している[3]。 現在、タフツ大学の認知研究センターの共同ディレクター、オースティン・B・フレッチャー哲学教授、ユニバーシティ・プロフェッサーを務める。デネットは無神論者かつ世俗主義者であり、アメリカ世俗連合の評議員[4]、ブ
こたつ(をついにセッティング)に入って、永谷園の「煮込みラーメンしょうゆ味」に茸をたくさん入れたのを食べていたら、江さんから電話がかかってきた。 岸和田でだんじりの寄り合いで飲んでいるところなのだが、フッサールの間主観性概念を「遣り回し」の共-身体に適用するとどうなるかということを議論していて、「家の前面にいるときに家の側面や家の裏面に他我がいて、同時にそれらを認識しているので、それが『家の前面である』ということが直観される」という、あれを現象学の術語で何と言いましたかねというお問い合わせである。 ちょっと思いだせんので、こういうときはウチダ先生に直接訊くのが早いとおもて電話したんですわ。 煮込みラーメンを食べてビールを飲んでいるときに、そんなことを訊かれても困る。 とりあえず『レヴィナスと愛の現象学』をとりだして「非・観想的現象学」の章をぱらりとめくり、探してみると、それは「間接的呈示」
構造構成主義(こうぞうこうせいしゅぎ、英: structural-constructivism)とは、人間科学においてありがちな信念体系どうしの対立(信念対立)を克服し、建設的なコラボレーションを促進するための方法論・思想・メタ理論のことである。構造構成学、超メタ理論と称されることもある。 概論[編集] フッサール、ソシュール、丸山圭三郎、池田清彦らの方法論・思想を組み合わせて生まれたメタ理論である。 人間というのは、各人、自身が心に持っている理論体系を信奉し、その理論体系に沿ってある手順で生み出された「記述」を(それは本当は、いつのまにか学習・刷り込みされた、恣意的な規則で生まれたものにすぎないのだが)てっきり「絶対の真理」そのものだと思い込んでいるものだから、信念どうしの救いようのない対立というものが生まれている。 そこで、構造構成主義では、それを回避する方法を採用している。つまり、「
個人的印象だが、ネット上での匿名発言の劣化がさらに進んでいるように見える。 攻撃的なコメントが一層断定的になり、かつ非論理的になり、口調が暴力的になってきている。 これについては、前に「情報の階層化」という論点を提示したことがある。 ちょっと長い話になる。 かつてマスメディアが言論の場を実効支配していた時代があった。 讀賣新聞1400万部、朝日新聞800万部、「紅白歌合戦」の視聴率が80%だった時代の話である。 その頃の日本人は子どもも大人も、男も女も、知識人も労働者も、「だいたい同じような情報」を共有することができた。 政治的意見にしても、全国紙の社説のどれかに「自分といちばん近いもの」を探し出して、とりあえずそれに同調することができた。 「国論を二分する」というような劇的な国民的亀裂は60年安保から後は見ることができない。 国民のほとんどはは、朝日から産経まで、どれかの新聞の社説を「口
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