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歴史とチベットに関するtweakkのブックマーク (6)

  • 白雪姫と七人の小坊主達 人と人をつなぐ見えない糸

    木曜日はわがゼミの「冬至のお祭り」であった。闇の中から光が力をとりもどしはじめるこのよき日を祝って、わがゼミでは500円以内のプレゼント交換を行う(笑)。 ちなみに、500円というのは買いに行く場合の目安で、家の中にある不要品をもってくる場合は実勢価格は500円をこす場合もある。 プレゼント交換は一種の籤で、みんなが提出したプレゼントにポストイットで番号つけて、もう一方で番号札ひいてあたった番号のプレゼントを自分のものとする。自分のものがあたったりする場合もあって、システムは万全ではないが、この方法が一番楽なので、なんとなく毎年こうしている。 で、いつもながら不思議に思うのだけど、誰の買ったものが誰にあたるのか、というのを見ていると、やはりそのプレゼントを交換したもの同士にはすべてにあてはまるわけではないけど、やはり見えない糸がつながっているように見える。 たとえば、去年自分が準備したジブ

    tweakk
    tweakk 2020/03/08
    「ジニャーナバジラはチベットから造仏・造寺の工人をひきいてチベットから帰国し、トゥーラ河のほとりにガンデン大僧院のモンゴル版ガンデン寺をたてた。この周りに形成された町が現在のウラーン・バートルである」
  • Amazon.co.jp: 清朝とチベット仏教―菩薩王となった乾隆帝 (早稲田大学学術叢書): 石濱裕美子: 本

    tweakk
    tweakk 2020/03/06
    なんかすごい本あった
  • 『世界探検家列伝』パンディット=ナイン・シン | シルクロード日誌

  • パンディット (密偵) - Wikipedia

    この項目では、秘密裏に調査を行ったパンディットについて説明しています。その他の用法については「パンディット (曖昧さ回避)」をご覧ください。 キントゥプ(英語版)[注 1]、19世紀後半のチベットを踏査したシッキム人のパンディット パンディット(英語: pundit, pandit[注 2])は、19世紀後半の英領インドでイギリスのためにインドの北方地域での探検・踏査に従事した現地出身者。秘密裏に測量を行う訓練を施され調査を行った。 インド大三角測量とパンディット[編集] 19世紀の地理学上の一大壮挙にインド大三角測量と呼ばれるイギリス領インド帝国で行われた測量事業があった。当時、イギリスはインド北方の地理情報も求めていた。これは、単に地理学上の関心だけが背景にあった訳ではなく、それに加えてロシア帝国が中央アジアへその支配を拡げつつあり、やがて当時イギリスの植民地下にあったインドの富へもそ

    パンディット (密偵) - Wikipedia
  • 切手はおもしろい|切手の珍品・逸品を展示、切手用語説明

    Kunioの世界の切手紹介と海外写真集 国別・特殊切手|切手はおもしろい(珍品切手・逸品切手) 世界最古や世界最初の切手、切手発行枚数が少ない切手などと切手用語説明 切手はおもしろい(珍品切手・逸品切手) 「切手はおもしろい」では、保有する切手の中でも、珍しい切手や切手からわかる真実などをご紹介します。世界最古や世界最初の切手、切手発行枚数が少ないなどです。 また、切手の知識では、私も含め中級以下の切手コレクターが、覚えておかなければならないものを紹介します。 最近になって富に増えている変形切手もあります。 ブータンも非常に珍しい切手(レコード切手、プリズム(立体)切手、鉄切手、セルロイド切手、CD切手など)を多数発行しています。 単に見た目だけでなく、トップページにブラックペニーの切手を掲載していますが、マルタ十字(*1)と呼ばれる消印が切手に押されています。 ヴィクトリア女王は当時イン

    切手はおもしろい|切手の珍品・逸品を展示、切手用語説明
    tweakk
    tweakk 2020/03/02
    “この国は全体で3様・凡そ20種の切手しか発行していません。 これらは、1912年の1番切手と1920年に発行されたものです”
  • ダライ・ラマ13世 - Wikipedia

    ダライ・ラマ13世(1876年2月12日 - 1933年12月17日)は、第13代のダライ・ラマ。法名をトゥプテン・ギャツォと言う。1878年にダライラマの生まれ変わりと認定された。 当時のチベットは大清帝国と大英帝国とロシア帝国の勢力争いの渦中に巻き込まれていた。後年フィンランド大統領となるカール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムは、モンゴルへの旅の途中で13世に謁見しているが、その際13世はイギリスに対して懐疑的な一方でロシアへの関係樹立には興味を示していたという。しかし1904年にイギリスは軍隊を派遣して、チベットの中心都市ラサに駐留。ラサ条約に調印するが、清がチベットへの主権を主張して対立。13世は北京に避難し清朝廷の庇護下に入るが、1908年にラサへ帰還した。 1910年に今度は清軍が、イギリスの影響を排除するためとしてチベットに侵攻。13世はシッキム、ネパールと転々としインド

    ダライ・ラマ13世 - Wikipedia
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