このところ、ぼくは日本を語ることが多くなっている。明治を問題にすることも徳川時代の儒学的日本像に切りこむこともあれば、歌枕や世阿弥の工夫や茶の湯を通して「日本という方法」にアプローチするときもある。3週間ほど前は石川啄木と権藤成卿と石原莞爾とパル判事を通して日本を語ってみた。 それはいろいろなのだが、さて、「日本」をいつの時代から語っていくかということになると、そのイメージとマネージの関係があまりに変遷してきたことを一貫して語りきることがむつかしく、ときに縄文を、ときに稲作を、ときに天孫降臨神話を、ときに「まつろわぬ神々」を、ときに倭の五王をというふうに、日本自立の契機となったスキーマを分けながら問題を取り出して、これを突起した正の情報と穿たれた負の情報に腑分けしつつもなんとか串刺しにするという、そんな語りかたを何度も試みるというふうになってきた。 それらをそろそろ風変わりな書物にまとめて