子どもたちの居場所が必要だ、と言われる。それを否定する人はあまりいない。 学校があって家庭があるだけではまだ足りないから、求められる。求めているのが子ども自身なのかどうかは、よくわからない。「僕に居場所を」と訴える子どもはあまりいないからだ。必要性を言うのは大人である。もちろん根拠がないはずはなく、少しばかり見聞きした成功体験も背景にあるのだろう。 居場所を作りたい、という大人たちの希望にどんな風が吹いているかと言えば、ずっと追い風だと思う。学校教育でも生涯学習でも地域福祉でも子どもの貧困支援でも「居場所」やそれに類するものがバックアップされるような施策がある。既存の社会資源やネットワークの中で解決されていない問題があるとき、新たな「居場所」は魔法の箱として期待を集めていく。トップダウンかつ縦割り行政の中でそれぞれ中途半端につけられた「居場所」関連予算は、何ら新奇性を示せることなく、既存事
君への若干の意見 そう。君のいうことは正しい。君が存在してしまったことについて、君には責任がない。「生まれたくて生まれてわけではない」し、「生んでくれと頼んだわけでもない」ことも、そのとおりだ。 以前、「人は親を選んで生まれてくる」という馬鹿げた説教を聞いたことがあるが、もしそうなら、大概の人間はもっとマシな親を選んで生まれてくるだろうし(ちなみに、「選ぶ」とは選んだ自覚がある場合にしか意味のない言葉である)、だいたい同じ説教を虐待されて育った子に面と向かって言えるのか? それは「前世の因果だ」、「自業自得」だとでも言うつもりか?(ちなみに、「因果」の言説が有効なのは、当の「因果」関係を承認する者においてのみである) 君の存在の開始に、まず責任を負うべきは「親」だ。というよりも、ある存在の開始に、一方的に責任があることを承認し自覚する人間を、その存在に対して「親」と言うのである。 君は苦し
三日坊主って言葉の適切さは何なんだろうね?今日でブログ4日目なんだけど、見事に息切れしてやる気がしないwwwwwww でもまあ自分で決めたことだしとにかく少しでもなにか書かないとなあ、なんて思いながらネットサーフィンしていたら、「人生の9割は親で決まる」みたいな記事を読んで暗くなったのでとりあえず短いけどその愚痴を書いてみようと思う。 生まれも育ちも立場が違う人間を一方的に全否定する人たち その「人生の9割は親で決まる」みたいな記事自体は、大変ハッピーな物語で、やさしいママンと成功したパパンを持って俺は幸せ者だ、人生の9割は親で決まる!パパン、ママン、ありがとう!-完- みたいな話だった。めっちゃ暗くなった。 いや、誰かがしあわせだということはもちろん基本的にはいいことだと思っていて、特に僕は自分が育った家庭というものに深い傷というか、コンプレックスを持っている人間なので、ツイッターなんか
新緑がきらきら芽をふく春がやってきた。やわらかな風のにおいを感じながら外を 歩くのは楽しい。今年はとりわけ、野の草をいっぱい摘んで、いろんな料理に挑戦したいと私は意気込んでる。つくしの佃煮、ノビルの味噌炒め、セリの磯辺和え、ヨモギの葛餅、スイバのみそ汁、ふきのとうの胡麻味噌あえ、ヨメナのスパゲティ‥。昨春、摘み草料理を教えに八丈島に来てくれた若杉友子さんは、私たちの足元の見慣れた草たちを、たちまち宝にして見せてくれた。その手さばきは、これ以上しようがない程シンプルにして的確、草の生命の息吹きがひとつもそがれることなく生きたままお皿に盛られる鮮やかさで、涙がでるほどおいしかった。主に関西方面で教えているが、口コミで続々と人が集まって講演はいつも満員。歯に衣着せぬ言葉で、本質的なことをズバズバ語りながらシャキシャキ動く若杉さん自身、野草のような人だ。命の勢いが、人工の野菜(のような私なんか?)
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