ブックマーク / kangaeruhito.jp (6)

  • 「文藝評論家」小川榮太郎氏の全著作を読んでおれは泣いた | 「文藝評論家」小川榮太郎氏の全著作を読んでおれは泣いた | 高橋源一郎 | Webでも考える人 | 新潮社

    9月21日・金曜日の夜、「新潮」編集部から電話がかかってきた。おかしいな、と思った。今月は締め切りがないはずなんだが。イヤな予感がした。おれは、少しの間ためらった後、電話に出た。案の定だ。「新潮45」問題について書いてくれ、というのである。確かに、おれは、その問題についてツイッター上で少しだけ発言をした。それだけだ。面倒くさいし、何のためにもならない。一晩考えさせてくれ、といっておれは電話を切った。でも、おれは引き受けることになるだろう、と思った。「面倒くさくて何のためにもならないことは引き受けろ」は、高橋家の家訓なのである。 書くことを引き受けてすぐ、「新潮45」の休刊が決まった。この問題については、考えなければならないことが多すぎる。休刊の是非、雑誌や出版社、あるいは著者のあるべき姿、休刊の直接的な原因となったであろう小川榮太郎氏の論文の問題点、当該特集号の各投稿それぞれが抱えている異

    wakabaroom
    wakabaroom 2018/10/20
    "「論じる、もしくは、話をする前に、その相手の全著作を読んでおく」システム"
  • 第17回(2018年度)小林秀雄賞 受賞作決定のお知らせ | 小林秀雄賞 | | 連載 | 考える人 | 新潮社

    はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。 「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。 どうして自分が「考える人」なんだろう――。 手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな

    第17回(2018年度)小林秀雄賞 受賞作決定のお知らせ | 小林秀雄賞 | | 連載 | 考える人 | 新潮社
    wakabaroom
    wakabaroom 2018/08/31
    “■授賞理由■ 超越的なものに対する懐疑で仏教史を串刺しにする思考。言語論と身体論に資するところも大きく、仏教史の枠にとどまらない弾力をもち、仏教とはこういうものかと思わせる。”
  • 天台本覚思想 | 超越と実存 私流仏教史 日本編 | Webでも考える人 | 新潮社

    空海が理論化した「即身成仏」のアイデアは、『古事記』に内在するアニミズム的な「ありのまま」肯定の思想的傾向と親和的である。 つまり、現にいま生きている人間が「そのまま」成仏できるのだという主張は、成仏する方法の工夫によっては、「ありのまま」で仏である、という思想にまで発展する余地がある。 それはいわば、密教の持つ超越的な形而上学理論が、地縁血縁共同体における現状肯定を墨守する思想・心情的基盤に溶解して、「ありのまま」が「真理」として、超越的理念に変貌して立ち上がるということであり、このいわば「ありのまま」主義の形而上学こそ、「天台覚思想」である。 「覚」と空海 「覚」とは、来の悟りという意味であり、我々衆生は、来すでに悟っているのだと考えるのだ。 最初にこの概念を論じたのは『大乗起信論』という論書で、著者はインド僧ということになっているが、古くから中国での撰述が疑われている

    天台本覚思想 | 超越と実存 私流仏教史 日本編 | Webでも考える人 | 新潮社
    wakabaroom
    wakabaroom 2016/09/10
    "ここまで修行をショートカットしてしまえば、結局のところ、「そのまま」「ありのまま」が「真理」として超越化して、『古事記』に見られるアニミズム的現状肯定思想が、「日本」の形而上学に変貌するのである。"
  • 空海の密教思想 | 超越と実存 私流仏教史 日本編 | Webでも考える人 | 新潮社

    インド大乗仏教の掉尾を飾る密教、その代表的な経典『大日経』『金剛頂経』等から、その思想的核心を抽出して理論化したのは、インド人僧でも中国人僧でもなく、空海(七七四~八三五)である。それは同時に、日において初めて、思想と実践の全体におよぶ形而上学的体系を樹立したのが空海だということである。 密教の思想的パラダイムは、ウパニシャッド以来のインド思想である、梵我一如(宇宙の原理であるブラフマンと個人の原理であるアートマンの一致)の応用である。つまり、密教の教主として宇宙の真理を体現する大日如来と肉身の修行僧との一体化を認識し実践することが、悟りであり成仏することだと考えるのである。 「三密とは、一には身密、二には語(口)密、三には心(意)密なり。法仏の三密は、甚深微細(じんじんみさい)にして等覚(とうがく)・十地(じゅうじ)も見聞すること能わず、故に密と号(い)う。一一(いちいち)の尊、等し

    空海の密教思想 | 超越と実存 私流仏教史 日本編 | Webでも考える人 | 新潮社
    wakabaroom
    wakabaroom 2016/08/03
    "地縁血縁共同体に規定された実存が超越的理念を吸収して「ありのまま」の中に溶解し、「ありのまま」こそが真理として超越化するように見える。さらに言えば、吸収され得る超越的理念しか受容されず、根付かない"
  • 最澄の登場 | 超越と実存 私流仏教史 日本編 | Webでも考える人 | 新潮社

    周知のとおり、為政者の統治システムに組み込まれて受容された仏教は、その後政治的保護の下、「鎮護国家」の思想と実践に体系化される。したがって、仏教そのものの思想的展開には、最澄・空海の登場まで見るべきものがない。鑑真による戒律の整備、唐から留学僧が移入した教学を基礎として成立した『南都六宗』、行基の多方面にわたる活動、景戒の編集による『日霊異記』などは、この時期の仏教の諸様相を伝えるが、いずれも個人名と共に後世に継承されるような独創的思想を生みだしたわけではない。 しかしながら、最澄(七六六~八二二年)の以下の言葉は、「聖徳太子」以来久方ぶりの、日(八世紀初頭には「日」の名称が東アジアで定着したと思われる)における自覚的仏教者の述懐として、特筆されるべきだろう。 奈良東大寺で具足戒を受け、国家公認の僧侶となった直後、彼は突如として比叡山入山を決意して言う。 「悠々たる三界(さんがい)

  • アニミズムと仏教伝来 | 超越と実存 私流仏教史 日本編 | Webでも考える人 | 新潮社

    「Webでも考える人」というスマートな舞台に、いきなりタイトルのような厳つい文章を掲載するには、いささか事情の説明をさせていただかねばならないだろう。 論考は 雑誌の季刊誌「考える人」に連載していた仏教思想の変遷を考えるシリーズ の続編である。 目的は、インドから日まで、ゴータマ・ブッダから、私が属する曹洞宗の宗祖、道元までの仏教思想を、私の独断かつ偏見的視点で串刺しにして語るという、無謀なものである。 その「独断と偏見」の核心は、「自己」という存在様式以外に実存しえない人間の在り方を、「無常」「無我」「縁起」としてとらえる仏教思想の最もユニークなアイデアが、どう継承あるいは改変されたかという点にある。 私の考えでは、このような「実存」それ自体に、「無常」でない「超越」的な存在根拠を与える思想が形而上学である。論考は、この「実存」と「超越」の思想的関係を、ゴータマ・ブッダから

    wakabaroom
    wakabaroom 2016/06/13
    おおっ、ついにきた!!!!!
  • 1