競馬 26歳で電撃引退、“伝説の女性ジョッキー”はなぜアメリカへと向かったのか? 日本時代は「“客寄せパンダ”でした」「先輩は厳しかったけど…」
「ワンサイドで終わってしまい、自分が期待した試合は見せられなかった。ただ、すごく幸せな気持ちです。みんなが応援してくれ、20年以上の選手人生をともに歩んだ猛者たちがここに集ってくれた。コーチやチームメイトたちも、みなさんありがとう」 青いオープンフィンガーグローブをマットに置いて引退セレモニーに臨んだエメリヤーエンコ・ヒョードルは、いつもの落ち着いた口調で語り始めた。現地時間2月4日に米カルフォルニア州イングルウッドのキア・フォーラムで開催された『Bellator 290』。王者ライアン・ベイダーにヒョードルが挑んだBellator世界ヘビー級タイトルマッチは、ベイダーが1RTKO勝ちで3度目の王座防衛に成功するとともに、リベンジに燃えるヒョードルを返り討ちにした。 ロシア人のヒョードルに捧げられた絶大なリスペクト 両者は2019年1月にBellatorで初めて拳を交わし、ベイダーが1Rで
8月下旬、ツイッターのタイムラインが騒然となった。この令和の世に「マッチョ・ドラゴン」がトレンド入りをはたしたのだ。 『マッチョ・ドラゴン』といえば、1985年11月に発売されたプロレスラー藤波辰爾のデビューシングルレコードであり、当時の入場テーマ曲。藤波による小学生を彷彿とさせるインパクト抜群の歌声が、発売から40年近く経った今でもプロレスファンや一部好事家に愛され続けている伝説の一曲だ。 37年ぶりの本人歌唱にファン歓喜 その『マッチョ・ドラゴン』が、なぜ突然ツイッターのトレンド入りしたのかと言うと、9月10日(午後11時30分)に放送されるNHKの『1オクターブ上の音楽祭』という番組で藤波自身が37年ぶりに伝説の歌声を披露することが発表され、それが一気に拡散されたためだった。 『1オクターブ上の音楽祭』は「謎の洋館に住む名盤コレクター(竹中直人)が主宰する奇妙な音楽会」(NHK番組公
誰しもが“特別”“夢”と表現するダービー。だからこそ、2着に敗れた馬たちの姿もファンの記憶に刻まれているだろう。ならば考えてみよう。“最強の敗者”は誰だ! 取材歴30年超のベテランライターが難題に出した答えとは。《全2回/後編に続く》【初出『Number』978号(2019年5月16日発売)/肩書などはすべて当時】 平成に誕生した30頭のダービー馬の陰には、同じ数の2着馬が存在する。一世一代の栄冠を惜しくも掴み損ねた馬たちのなかで、「最強」の称号が相応しいのはどの馬か。それを考えるのが本稿の趣旨である。しかしそもそもこの場合、「最強」が指し示す意味って何ですか? 「いや、それは自分で考えてください」 謎めいた微笑みを浮かべ、ライターをあしらう編集者。よろしい。ならばいくつかのアプローチをもとに、“最強の2着馬”を自力であぶり出してみよう。 三冠を逃したエアシャカールの「7cm差」 さすがに
毎年、世界最大のプロレスイベント『レッスルマニア』開催に合わせて表彰式が行われる名誉殿堂『WWEホール・オブ・フェーム』。今年の受賞者としてジ・アンダーテイカーに続いて、日本でも活躍したベイダーの殿堂入りが発表された。 ベイダーは新日本プロレスのIWGPヘビー級王座と全日本プロレスの三冠ヘビー級王座の両方を獲得した最初のレスラーであり、唯一の外国人レスラー。また格闘技スタイルのUWFインターナショナルでも高田延彦を下しプロレスリング世界ヘビー級王座を獲得。さらにアメリカではWCW世界ヘビー級、メキシコではUWA世界ヘビー級、ヨーロッパではCWA世界ヘビー級のベルトを腰に巻くなど、世界の主要王座をほぼ総なめにしたが、最初にブレイクしたのは新日本プロレスのリング。言わば、“日本が生んだ世界のトップレスラー”でもあるのだ。 もともとベイダーことレオン・ホワイトは、学生時代から全米クラスで活躍した
現代プロレスは観客をハッピーにさせることが「是」とされる傾向にある。そんな多幸感こそが「次もまた観に来よう」という集客&人気にもつながる。健全な考えだ。 実は昭和時代のプロレスに多幸感は薄かった。それよりもハラハラやドキドキ、怒りこそが重要視された。ゴールデンタイムのテレビ中継で毎週、人気ドラマやバラエティ番組と視聴率戦争を繰り広げていた事情もあり、視聴者やお客さんを「満足」させることよりも「来週は一体どうなる?」という継続性こそが優先された。 幸か不幸か? 多くの団体がテレビ中継と無関係となった平成マット界が、観客をハッピーにさせる方向へと舵を切ったのは必然だった。今号のテーマは「ベストバウト」だが、今もなおエポックメイキング的な意味も込めて「ベスト興行」と語り継がれるのが、ともに両国国技館で行われた1994年の『第1回スーパーJカップ』と翌年の『第2回スーパーJカップ』だ。 「面白いモ
昨今、SNSを活用しているプロレスラーはたくさんいるが、その多くは告知や自分のことについての投稿であり、家族を含めたプライベートを公開している人は意外と少ない。 そんな中、新日本プロレスの所属最年長レスラーである永田裕志は、レスリングを習っている小学6年生の息子、裕生(ゆうせい)くんと一緒にトレーニングしたことなどをたびたび投稿している。 プロレスファンであり、将来はプロレスラーになる夢も抱いているという息子を、元レスリング全日本王者で、プロのリングでもIWGPヘビー級王座を始め、数々の栄光を手にした父はどう思っているのか。永田裕志の子育て論を聞いてみた。 ◆◆◆ 新日本プロレス最年長レスラー・永田裕志の子育て論 ――永田さんはここ数年、SNSに息子さんと一緒にトレーニングした後の写真なんかをよく載せてますよね? 永田 そうですね。アマチュアレスリングをやってるっていうこともあって、一緒に
「柔能制剛(柔よく剛を制す)」「小よく大を制す」とは、体の小さい人が相手の力を利用して大きい人に勝つ、という老子思想に由来する言葉。その思想は、講道館柔道の創始者である嘉納治五郎にも影響を与え、柔道の極意にもなったともいわれる。体格の劣る者が大きい相手を打ち負かすことは、格闘技の醍醐味であり、ロマンでもある。柔道はもともと無差別級で競われていたし、相撲はいまでも無差別級。初期のUFCやK-1も、細かな体重による階級分けは存在しなかった。 ボブ・サップは2002年4月、PRIDEで豪快なデビューを果たす。身長2m、体重160kgの巨体で、パワーと野性味溢れるファイトでTKO勝ちし、強烈なインパクトと存在感を示した。その後も彼の勢いは止まらず、反則負けや惜敗はあったが、勝敗よりも印象に残るのはファイトスタイルとその肉体だった。 アーネスト・ホーストは、1993年の第1回K-1 GPで準優勝。1
クマがフライングメイヤーを繰り出す プロレスラーが“対戦”したクマは、もちろん野生のクマではない。レスリング・ベアという特別に調教されたクマで、「テリブル・テッド」というリングネームのクマが有名。 人間vsクマの闘いは、主に1950年代から1970年代ごろまで、アメリカでたびたびアトラクション的に行われており、当時、アメリカマットで活躍した日本人レスラーも何人かクマと戦っている。 その代表的なひとりが、70年代から80年代にかけて、アメリカ南部のテリトリーやカナダで活躍。のちにカナダ・カルガリー地区のコーチとしてダイナマイト・キッド、ブレット・ハート、馳浩、橋本真也らを指導したことで知られるミスター・ヒト(安達勝治)だ。 ミスター・ヒトは、中島らもとの共著である、その名もズバリ『クマと闘ったヒト』(MF文庫ダ・ヴィンチ)の中で、レスリング・ベアとの闘いを次のように語っている。 「おれがやっ
オリンピックがはじまる少し前、開幕の是非を討論するテレビ番組を見た。そこで出演者の有森裕子さんが、「アスリートファーストではなく、社会ファーストで考えるべき」という主旨の発言をしていて、深く心に残った。 討論番組の放送時よりもさらに事態は悪化しているが、パラリンピックも開幕している。開幕直前、国際パラリンピック委員会の人が、「《パラリンピックの中》と《外の社会》はまったく関係がない」と言っていて、心底驚いた。 夏の甲子園も新型コロナウイルスの感染が相次ぎ、辞退する高校も出る中、大会は強行された。 「スポーツ」だけがパラレルワールドにある状態が続いているが、この感じは、どこか身に覚えがあった。「社会の中のスポーツ」は私の中でずっと、パラレルワールドだった。その世界は「スポクラ」という名前だった。 なにもかもが異色の「スポーツクラス」 私の通っていた高校は、全国屈指のスポーツ強豪校として知られ
いわれなき薬物疑惑をかけられた世界王者の怒りは、潔白が証明された後も決して収まっていなかった――。 ボクシング4階級制覇王者・井岡一翔が明かした騒動の一部始終、そして今の心境とは? 現在発売中のNumber「サッカーEURO」特集号掲載のインタビューを、特別に全文公開する。 新聞各紙に“怒りの会見”と報じられた5月19日の記者会見から1週間近くたっても井岡一翔の気持ちは収まっていなかった。それはそうだろう。ドーピング違反、薬物摂取とまで報じられた“疑惑”の要因がプロボクシングを統括する日本ボクシングコミッション(JBC)のお粗末極まりないドーピング検査にあったのだから。 「心外でしたし、名誉も傷つけられました。21歳で世界チャンピオンになってからは、日本ボクシング界のためにも、ボクシングに日が当たるというか、より注目されるように一人の選手として頑張ろう、使命としてやっていこうとずっと思って
有馬記念で逃げ切りが決まったのは、過去10年でたった一度。 17年のキタサンブラックの引退戦がそれで、レースの中盤にハロン13秒台をひそかに2本入れて後続を幻惑した絶妙なペース配分が、最後のもうひと伸びを引き出した。その鞍上には、もちろん武豊騎手がいた。 キタサンブラックは、その2年前、3歳時に出走した有馬記念でも逃げている。意外なことに、初めて逃げの手に出たのがその有馬記念だった。馬の気持ちに乗る横山典弘騎手らしい手綱で、勝ったゴールドアクターからコンマ1秒差の3着は上々の結果と言っていい。菊花賞を制覇した主戦北村宏司騎手のケガという事情があっての代打横山典だったが、この走りを見て何かを感じたのが武ではなかったかと想像している。次走の大阪杯(逃げて2着)以降、ラストランの有馬記念まで武に鞍上が固まり、その12戦中6戦で逃げを選択して、4歳時の天皇賞・春、ジャパンカップ、5歳時の有馬記念と
今週末の第40回ジャパンカップ(11月29日、東京芝2400m、3歳以上GI)で、無敗の牝馬三冠馬デアリングタクト、無敗のクラシック三冠馬コントレイル、そして現役最強馬アーモンドアイが激突する。アーモンドアイも一昨年牝馬三冠を獲得しているので、このジャパンカップは史上初めて3頭の三冠馬が対決するビッグマッチとなるわけだ。 3頭の三冠馬の対決というだけでアドレナリンが大量に出るのに、うち2頭が無敗というのがさらにこのレースのスペシャル感を高めている。 無敗の王者。少なくとも、デアリングタクトかコントレイルのどちらかが、その座を失うことになるのだ。そう考えると、本番を見るのが怖くなるほど緊張感が増してくる。 かつて、これほどハイレベルの無敗馬と古豪が激突したレースがあっただろうか。 4番人気が32.9倍という「超三強」の伝説のレース 実は、あったのだ。GIではないが、1998年の毎日王冠(10
全日本プロレスの“顔”的存在で、一時は社長も務めた秋山準が、7月1日付でDDTにレンタル移籍して4カ月が経った。 秋山は、専修大学レスリング部の主将として活躍後、総帥・ジャイアント馬場直々のスカウトで全日本プロレスに入団。新人時代から馬場に英才教育をほどこされた最後の愛弟子であり、全日本やプロレスリング・ノアのトップで活躍した、“王道最後の継承者”だ。 そんな生粋の“メジャー”である秋山が、かつては小さなインディー団体であったDDTに移籍したニュースは、マット界に驚きを与えたが、それが実現したのはDDTの高木三四郎社長たっての希望からだった。 DDTがさらに大きくなるためには、選手のレベルアップが必要不可欠。そのために、秋山の持つ保守本流の王道プロレスを吸収したい、ということだった。 これを受け、51歳の秋山は「この歳になって、まだ必要としてくれるところがあるということで正直うれしい」と快
菊花賞を制し、無敗三冠を成し遂げた福永祐一騎乗のコントレイル(奥)。ルメール騎乗のアリストテレスと接戦を繰り広げた またひとつ、日本の競馬史に輝かしい金字塔が打ち立てられた。 第81回菊花賞(10月25日、京都芝外回り3000m、3歳GI)で、圧倒的1番人気に支持されたコントレイル(牡、父ディープインパクト、栗東・矢作芳人厩舎)が優勝。1984年シンボリルドルフ、2005年ディープインパクト以来、史上3頭目の無敗のクラシック三冠制覇を達成した。前週、デアリングタクトが史上初となる無敗の牝馬三冠制覇をなし遂げている。牝牡による同一年の三冠制覇も史上初のことだ。 コントレイルは掛かり気味で接戦に 単勝1.1倍という数字から期待されたような楽勝ではなかった。 最後の直線、福永祐一を背にしたコントレイルは、外に併せたクリストフ・ルメールのアリストテレスと激しく叩き合った。一瞬、アリストテレスにかわ
ともにIT企業大手サイバーエージェントを親会社とするDDTプロレスリングとノア・グローバルエンタテインメント(プロレスリング・ノア)が、DDT系列の飲食会社DDTフーズを加えた3社で経営統合。9月1日付でサイバーエージェントグループのプロレス事業子会社「株式会社CyberFight(サイバーファイト)」として始動することが発表された。 現在、DDT、ノア両団体の社長で、今回あらためて新会社の社長に就任することが決まった高木三四郎は、7月27日の記者会見で、新型コロナウイルスの影響によりDDT、ノア両団体ともに経営的なダメージを受けたことを告白。「現状を乗り越え、アフターコロナ、ウィズコロナ時代に、しっかりアクセルを踏み込んでいけるように、経営統合によって会社組織を盤石にする考えに至りました」と、今回の決定に至った経緯を説明した。 団体としての活動は今後もDDT、ノアがそれぞれ別に行っていく
「ボクシングは仕事として、好きなアニメ、マンガ、ゲームのためにやっています。稼いできた賞金の7割くらいはそういった趣味に使っているはず。仕事(ボクシング)で辛い時は、2次元の世界に帰りますね。逃げるじゃなく“帰る”。あくまでホームは2次元なので(笑)。仕事のときだけ、現実に戻らなきゃいけないという感じです」 そう語るのはプロボクサー、井上浩樹(大橋ジム)、28歳。 2015年にプロデビューしてから15戦全勝、WBOアジアパシフィック・スーパーライト級王者にして日本同級チャンピオンだ。井上尚弥(WBAスーパー&IBF世界バンタム級王者)、井上拓真(元WBC世界バンタム級暫定王者)が従兄弟にあたり、「井上家の最終兵器」と称される逸材だ。 そんな彼が熱中し愛してやまないのがアニメ、マンガ、ゲームなどの2次元の世界。自他ともに認めるオタクボクサーは試合前、好きなアニメキャラがプリントされたピンク色
【公式映画の監督】 1932年のロサンゼルス大会以来、五輪開催のたびにそれを記録し文化として遺す公式映画が制作されてきた。では、東京2020大会を託された河瀬直美監督は、どんな構想を持つのか。そして開催延期の影響とは? 五輪のライブ元年は1964年の東京五輪にさかのぼる。世界初の静止衛星・シンコム3号を用いた日米間の信号伝送に成功し、開会式が全米に生中継された。フィルムで撮影するためにタイムラグが生じる記録映画に取って代わり、即時性を持つテレビ中継が映像の主流となったのは当然の成り行きだ。 「記録という側面においてはオリンピック放送機構が制作し、世界の放送局を通じて配信する公式映像がその役割を担っていますよね。映画に求められている役割は別のところにあると思っています」 代表作に『萌の朱雀』『あん』などがあり、東京2020大会公式映画の監督を務める河瀬直美さんは、「作家性を打ち出さなければ、
海外武者修行の経験を生かしたアイデアと情熱で、プロレス界を盛り上げた大仁田厚。その姿勢から見習うべき点は多いはずだ。 なかなか収束の糸口が見えてこない、新型コロナウイルスの感染拡大。プロレスも他のスポーツと同様に、現在、興行はすべて中止。この状況が長く続くのは各団体や選手にとって死活問題となるため、プロレス界では今、細心の注意を払いながら無観客試合を動画配信することに活路を見出そうとしている。 プロレスにおける無観客試合の原点といえば、1987年10月4日に行われた、アントニオ猪木vs.マサ斎藤の“巌流島の決闘”が有名だが、あの大仁田厚もFMWを旗揚げした1年目に無観客試合を行っている。'90年6月24日、東京・夢の島運動公園総合体育館剣道場でのターザン後藤戦だ。 当時、「ノーピープルマッチ」と呼ばれた無観客試合を“夢の島”で行ったのは、猪木vs.マサの巌流島を多分に意識した一種のシャレで
“世界の獣神”に、またひとつ大きな勲章が加わった。 今年1月4日、5日の新日本プロレス・東京ドーム大会で現役を引退した獣神サンダー・ライガーが、世界最大のプロレス団体WWEの殿堂入りすることが発表されたのだ。 日本人レスラーとしては、アントニオ猪木、藤波辰爾に次ぐ、史上3人目の快挙となる(この他、レガシー部門では力道山、ヒロ・マツダ、新間寿がいる)。 アントニオ猪木は1970年代から'80年代半ばにかけてWWE(当時WWF、WWWF)と提携していた新日本プロレスの総帥であり、WWEの総本山であったマディソン・スクエア・ガーデン(MSG)を含めた日米のリングを股にかけて活躍。 '78年には一連の異種格闘技戦での功績からWWF世界格闘技ヘビー級王者に認定されている。さらに'79年11月30日には、徳島でボブ・バックランドを破り、日本人初のWWFヘビー級王者にも輝いた(ただし、現在WWEの公式記
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