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倫理とメディアに関するboyasanのブックマーク (3)

  • NY地下鉄で死ぬ直前の男の写真が撮られたとき、他の乗客は何をしていたか

    ニューヨークのタブロイド紙『ニューヨークポスト』が火曜、前日に地下鉄駅で起きた事故を報じた。いや、正確には事故になる瞬間を報じたと言った方が正しいだろう。 乗客同士の言い争いで50代の男性がホームから突き飛ばされ、そこに入ってきた電車に挟まれて死亡した。ニューヨークポストが1面で大きく掲載した写真は、ホームに手をかけ数メートル先に迫った電車のほうを振り返った男性の姿を捉えている。タイトルは、「万事休す、線路に突き落とされた男が死に行く瞬間」。 この事件は、いくつもの意味でいたたまれない気持ちにさせる。 まずジャーナリズムの観点から、こんな写真を載せる必要があったのかという点。数秒後に死のうとしている人間の姿を晒すことに、センセーショナリズムを煽る以外の意味があるのか。 もし事故の様子を伝えることが目的だったのならば、文章で説明し、写真は意図的に掲載しないという選択肢もあっただろう。だが同紙

  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    週報 2024/04/28 川はただ流れている 4/20(土) 初期値依存性 さいきん土曜日は寝てばかり。平日で何か消耗しているらしい。やったことと言えば庭いじりと読書くらい。 ベランダの大改造をした。 サンドイッチ 一年前に引っ越してからこんな配置だったのだけど、さいきん鉢を増やしたら洗濯担当大臣の氏…

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  • 修整の是非より写真の「誠実さ」を問え

    このところ、写真の修整をめぐる議論が盛んだ。写真編集ソフトのフォトショップや、露出の異なる複数の写真を合成処理するハイダイナミックレンジ・イメージング(HDRI)などの手法を用いることの是非については、私も考えさせられることが多かった。写真の見せ方の問題について、また写真に手を加えることの問題について、この場を借りて議論してみるのもいいかもしれない。 現実を何らかの形で表現するとき、そこには常に「芸術的な自由」が入り込む。写真に手を加えることは、写真そのものと同じくらい古い歴史がある。たとえば19世紀のフランス人写真家ギュスターヴ・ル・グレイは1850年代、複数のネガを1枚の印画紙に複数回露光して画像を合成し、1枚の写真を作り上げた(作例)。それより前の時代でも、絵画や木版画、詩、文章などで現実を表現しようとするとき、そこには作家が実際に体験した「現実」と同じくらい作家の「想像力」が反映さ

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