『ヨブ記』(ヨブき、ヘブライ語: סֵפֶר אִיּוֹב)は、『旧約聖書』に収められている書物で、ユダヤ教では「諸書」の範疇の三番目に数えられている。ユダヤ教の伝統では同書を執筆したのはモーセであったとされている[1]が、実際の作者は不詳。高等批評に立つ者は、紀元前5世紀から紀元前3世紀ごろにパレスチナで成立した文献と見る[2]。ヘブライ語で書かれている。『ヨブ記』では古より人間社会の中に存在していた神の裁きと苦難に関する問題に焦点が当てられている。正しい人に悪い事が起きる、すなわち何も悪い事をしていないのに苦しまねばならない、という『義人の苦難』というテーマを扱った文献として知られている。 構造[編集] 『ヨブ記』は平易なヘブライ語で書かれており、 散文調の導入(1:1~2:13)及び終結(42:7~42:17) ヘブライ語独特の韻文調の議論(3:2~42:6) の2つに大きく区分
■ 概要 著作権フリーの日本語聖書テキスト(2008年3月現在)を、EBStudioでJIS X 4081形式(EPWING)に変換したデータです。 多くのEPWINGビューアで使用できます。 メニュー検索の他、略称で検索できます。(例: matt2:1 または マタ2:1 ) 本文中の漢字、カタカナで条件検索ができます。 "The Holy Bible: WEB+KJV (EPWING)"と串刺し検索できます。 今日では差別用語とされている表現がありますが、歴史資料として改変せずに用いていることを付記しておきます。 ■ 内容 口語訳新約聖書(1954年版)、口語訳旧約聖書(1955版) http://bible.50webs.org/ 日本聖書協会発行の口語訳聖書。2005年に著作権保護期間が終了している。 "Bible, Colloquial Japanese" 大正改訳聖書(
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2007年06月21日14:45 カテゴリLove 受け取ることの重要性 宋さん、おつかれさまでした。 失うことの重要性 (宋文洲の傍目八目):NBonline(日経ビジネス オンライン) 「傍目八目」は今月でもって終了させていただきます。 心理学者の研究によると、同じ程度の損得に対しては、得る時の快感よりも、失う時の不快感の方がはるかに高いそうです。つまり、我々の本能は失うことに対して、過剰に反応するのです。 心理学者に調べて欲しいことが、実はもう一つあります。 得られるべきものが得られないことと、与えたものが受け取られないことと、どちらが不快なのか、ということです。 研究が大変なのはわかります。損得「感情」は、単体の被験者でも観察できますが、こちらの方は社会を観察する必要があるからです。だからこそ、知りたい。 素人の私が憶測するに、前者の「得られない」よりも、後者の「受け取られない」方
1.人物像 カインはアダムとエバの長男、その名前の意味は「わたしは得た」、またアベルは次男であり、その名前の意味は「気息」あるいは「空虚」です。アダムとエバはその罪のゆえに楽園から追放されましたが、その時神は彼らに救い主として「女のすえ」を与えると約束されました。アダムとエバはその言葉に期待をかけていたのです。そこで長男が生まれた時、彼らは「得た」と思ったのでした。しかしながらそれが間違っていたことが分かると、彼らは「空しさ」を感じたのでした。カインは農耕に、アベルは牧畜に従事しました。ここで描かれる事件は兄弟間の葛藤としてよく観察されることであり、精神分析を創始したフロイドはここからヒントを得て、兄弟姉妹間の無意識的葛藤を「カイン・コンプレックス」と名づけました。 2.主要なエピソードとその霊的意義 物 語 カインとアベルは神の前に捧げ物を持ってきました。カインは農耕従事者として地の作物
内田樹氏やレヴィナスに助けられて、『ヨブ記』についての私の覚書を記したが、一応テクスト上の根拠を示しておこう。 ヨブは、最終的に彼に対して語られた神の言葉の趣旨を要約して、「聴け、私がお前に問いかけるのだ。答えるのはお前だ」(『ヨブ記』42章4節)と理解している。これこそ、「ヨブがなぜ選ばれたのか」という同じ問いが、ヨブから神になされるべきものではなく、神からヨブに対して為されたものだということを、ヨブ自身が悟る瞬間を示しているのではなかろうか?(ここには、ちょっとジョン・F・ケネディの就任受託演説「祖国が君に何をしてくれるかと問うな、祖国に君が何をなしうるかと問え」を思わせる反転がある。) 先回私が「神は全知でも全能でもない。神の質問は、ヨブの為そうとする応答を神が予見していないからである」と述べたとき、この宗教の臨界点に近づいていることを私は感じて、思わず身震いした。 ヨブは自らの苦難
われわれは、レヴィナスのヨブ記解釈(または、内田樹氏によるその解釈)を要約して、「主体が象徴界に生まれる時、主体は象徴界に遅れをとらざるを得ない」と記した。主体にとって根源的な遅れとは、言語への参入によって初めて主体が成立するものである以上、主体は象徴界に対して常に遅れを取ったものとして登場せざるを得ないという事である。 象徴界への遅れは、万人にとっての宿命であるにもかかわらず、それが何故私の責任の根拠(そして自由の根拠)となり得るのであろうか? それは、どのような象徴界といえども、その中への私の同定、「それが私だ」を必要とするからである。テクストの中の私の同定とその引き受けを通して、私たちは言語主体になるのだ。私のことは、私が主体として成立する前から、すでに語られてしまっていたのだ。だからこそ主体は、テクストの中にすでに語られてしまっている自分自身を認知しなければならない。象徴界(言語的
選民(その1)補遺 神の選びは、普通は受難という形を取る。受難においてこそ、「何ゆえ、私が選ばれたのか?」という問いが、その真摯な切迫を帯びて問われるからである。思い上がった成功者や成り上がり者たちは、己れの成功を己れの「能力」によって納得して怪しまない。(古代ギリシア人なら、勝利と幸運によってかえって敬虔になったものだが) ヨブはその受難において、「何ゆえ、私が?」という問いに直面した。ヨブの「友人たち」は、口々にそれに安直で合理的な説明を与えるが、ヨブは納得しなかった。ユダヤ人の受難に、なんであれ合理的説明を与えようとする人は、不可避にこのヨブの「友人」の立場を取ることになるだろう。この種の第三者の語りがGerede(駄弁)に堕するのは、そのためである。 レヴィナスのヨブ解釈のすぐれた点は、ヨブの神に向けられた「何ゆえ、私が?」という問いが、そのまま神からヨブに向けられた問いとして理解
「何故、私が?」という問いが立てられることこそが、神と直面して立つ事であり、ここから神とのコミュニケーションが始動する。しかしそれは、私自身がその譲りえぬ個別性で問われているからであろう。その問いは、「何故、ユダヤ人が?」という第三者の問いとは、まるで違う。この問いは、「何故、われわれユダヤ人が?」という形を取らない限り、まじめに問われるものとはならないだろう。それは、「何故、巨人が9連覇したのか?」という問いと大差ないものになってしまう(Gerede , Neugier)。 しかし、「何故、私が?」という問いと「何故、われわれユダヤ人が?」という問いの間には、ある種の政治哲学が挟まらねばならない。しかし、「私」を「われわれ」に昇格させるための政治哲学として、民族の理念に訴えるだけで十分であろうか?(とりわけ、「民族国家」を樹立しようとしたシオニストの政治が、最悪の政治を展開しつつある時に
内田樹氏の『私家版・ユダヤ文化論』の後半を読む。『文学界』連載中少し前半部分を読んでいたものだが、その問題意識と方法論にいささか疑問を感じて、読み進むのをためらっていた。 氏の論述は多彩で、よく言えば光彩陸離たるものであるが、極めて深遠な洞察もあれば、いささか思いつきで筆を走らせたところもある、いわばまだら模様と言える興味深い作品に仕上がっている。例えば、反ユダヤ主義者はユダヤ人に魅せられている、その愛を強化するために迫害に及ぶのだ、といった主張。確かにそのような例もあるかもしれないが、それをもって反ユダヤ主義の本質とか一般現象と主張するにはやや無理があろう。一般に、強い憎悪には敵対者へのアンビヴァレントな感情が付きまとう事が多い、ということはあるかもしれない。敵対性が、しばしば相似性、鏡像的分身関係に基づくこともよく知られている。しかしそのような心理の一般論をユダヤ人問題に「適用」する事
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