理由って結局は後付けの言語化でしょ? まず最初に感覚的なふわっとした「好き」か「嫌い」があって、そこから必要に応じて理由を考えるわけじゃん。 俺は「好きに理由は無い/嫌いな理由はある」派だけど、なんでそうなるかっえいうと言語化の必要性ってところが大きい。 だって好きの理由をわざわざ分析して言語化する必要なんてなくない? 逆に嫌いな理由はちゃんと考えて言語化する。 俺が嫌いなものを好きな人もいるだろうから、そこを頭ごなしに否定したくないから。マナーみたいなもんだね。
原因があるっていうのは悪であるってことと直結しないの。 例えば、財布を道端に落っことしちゃった。 それを拾った奴が持って帰って中身全部使っちゃった。 こんなもん法的に見たって倫理的に見たって「自分のじゃない財布を持って帰って中身使っちゃう」奴が悪いの。 でも、じゃあそもそもなんでそうなったかっていうと、財布を落っことしたところに原因があるよね? だからって財布落とした奴が悪いって話じゃないの。 次からは財布を落っことさないようにしましょうねってだけの話なんだよ。 財布落っことさなかったらその財布は誰も拾えないし、拾えない財布の中身は使われないんだから。 刺される側が悪いって言ってるんじゃないの。 刺す側が悪いのは大前提として、刺される側にも原因があるのでは?って言ってるだけなの。 恋愛詐欺で男から金品巻きあげた上でストーカー扱いして警察に通報しなきゃ刺されなかったんだから、 今後はそんなこ
https://anond.hatelabo.jp/20240506061423 短歌の結社に入っていて、歌会にもよく参加していたことがあるが、元増田のような話は何度も聞いたことがある。もはや歌人あるあるネタだし、私も深く共感する。ただ、字数という点に増田はこだわっているようだが、この話題はそのようなレベルの話ではない。 多くの人は短歌と俳句が同じ短詩型文学であるから、短歌も詠めれば俳句だって作れるだろうと思いがちだが、それは大いなる誤解だ。むしろ短歌を詠めば詠むほど、俳句から遠ざかることになる。 なぜなら、両者は表現のアプローチが正反対だからだ。短歌は風景と言葉を使って<私>の情念を表す文学であるのに対し、俳句は<私>と言葉を使って風景を表す文学なのである。 短歌を詠むということは、言葉に情念を圧縮するということだ。穂村弘は短歌を爆弾に喩えたが、自分の情念を読み手の心奥深くに埋め込もうと
そもそも「よろしいか?」って関西弁なのかどうかわからないけど関西では比較的使う人が多い(とくに年配層)のに比べて 東京では「ん?」って顔されるから少なくとも関西以外では日常語彙ではなさそうだな 「関西弁ではなくて役所の特有の言い回し」という説があるけど役所の人は普通につかってるのかな? それが関西では日常語彙になったとすれば、なぜそうなったか。 というか「よろしいか?」を使用する雰囲気まで含めて直訳できる語彙がなさそうな気がする 直訳したら「よろしいですか?」とか「いいですか?」になるけどなんか違う。 (追記) 思いのほかトラバブクマあつまったな。みんなサンキュー。 よろしいかは関西内でも地域・世代で使用頻度にグラデーションがあるというかぶっちゃけ全く通じない人も多いかもしれん。 関西北部(中丹より上とか?)では老若男女使ってる説もあるな 関東の地方公務員だけど起案する時に使うな 公文書の
私は人生で2度、一人称を直した。 1度目は保育園のころ。「自分の名前+ちゃん」から「私」へ。これは両親から「小学校に上がるのに名前呼びは恥ずかしいよ」と言われて直した。 2度目は19歳のころ。たまに無自覚に「あたし」と言ってしまっていたのを揶揄われて、恥ずかしいと思って「私(わたし)」に直した。 なのでブコメのみんなが寛容なのに驚いてる。社会生活で取り繕えてさえいれば一人称は何でもいいのか。もうそういう時代なのか。わりとカルチャーショックを感じてる。
相変わらずジェンダーがどうとかつまらない話が多いので、過去の用例から「奥さん」あるいは配偶者呼称についていろいろ考えたいなあ。と思って書きます。 勿論、女中などに似ようはないと、夢か、うつつか、朦朧と認めた顔のかたちが、どうやらこう、目さきに、やっぱりそのうつ向き加減に、ちらつく。従って、今声を出した、奥さんは誰だか知れるか。 それに、夢中で感覚した意味は、誰か知らず、その女性(にょしょう)が、 「開けて下さい。」 と言ったのに応じて、ただ今、とすぐに答えたのであるが、扉(ひらき)の事だろう? その外廊下に、何の沙汰も聞えないは、待て、そこではなさそう。 「ほかに開ける処と言っては、窓だが、」 さてはまさしく魘(うな)された? この夜更けに、男が一人寝た部屋を、庭から覗き込んで、窓を開けて、と言う婦(おんな)はあるまい。(「沼婦人」泉鏡花、1908(明治41年) 「奥さん」は、自分の配偶者
「奥さん」という言葉には、ネガティブなイメージを持つ人もいる。その理由としてよく挙がるのが、「家の奥にいる人」という前時代的な意味合いで、家族のために掃除や洗濯、料理といった家事をせっせとこなす姿を連想させるというものだ。 「まずは『奥さん』がどのように広まっていったのか、歴史的に見ていく必要があります」 東京外国語大学・名誉教授の井上史雄さんが話す。 「江戸時代の長屋のように家が狭いと玄関を上がってすぐに行き止まりで、家の奥はありませんよね(笑)。『奥さん』とはもともと、広い屋敷に住んでいる武家、それも身分の高い人にだけ使われていた言葉なんです。 今でも、代々続いている商店や旅館では『おかみさん』と呼ぶように、商家では『おかみ』が使われていました。農家では、『かあちゃん』『おっかさん』『かかあ』など。その呼び方は豪農や自作農、小作農でも分かれていたようです。 ところが戦後、高度成長期にサ
==== 追記 ==== 書いた直後に全然反応がなかったのに、今見たら色々コメントがついていて驚きました。 ブコメを読んだら、結構な数の人が怒っていて、私の中の善良な市民感覚が、「悪いことをしてしまった」という後悔の念を自然と抱かせましたが、落ち着いて考え直してみると、別にそう悪いわけでもないなという気もしています。とりあえず、これが率直なところです。 色々とコメントをもらったので、いくつか返答します。 ・「不快」で他人の発言を抑圧しようとするのを表現規制って言うんじゃなかったっけ ・自分の意思にそぐわないからと言って他人の言動を制限しようという発想かー。上手くいきそう? ・自分の不快感のために他人の自由を制限できると思ってるんかな ・不快に思うのは勝手だが、人の発話の自由を制限しようとするのは何様のつもりだろうと思うし、方言の利用を咎めることも更に最悪って感じがする(私は方言コスプレをポ
バーテンダーのことを「バーテン」と言ってはいけないロリータファッション全般を「ゴスロリ」と言ってはいけない 他になんかある?
先日、Twitterでスープストック論争が巻き起こっているのをみて、ま〜た色んなところで女の敵は女論やフェミがなんだツイフェミがなんだ言い争ってるんだなぁと思っていたのですが、その中で出てきた「無産様」というワードが想定していた以上に心に刺さってしまって、ちょっとだけ泣いてしまったので、気持ちの整理をつけるために書いています。 誰に見られるものでもない前提ではあるものの、世に放つには随分と乱文になるかと思いますので、もしお読みの方いらっしゃったらご了承ください。 大前提として、スープストックが取り組む施策について、「子ども連れの肩身が狭い」と言われる昨今、すてきな取り組みだと思っています。 それに対して、本当にうれしい!という感想も、無料だと客層大丈夫?という感想が出ることも、いきにくくなるのだとしたら悲しい、という感想が出ることも、それぞれの方の反応なので、それぞれが思っていればよいこと
なんでみんなこれに疑問を抱いていないのかわからない。 旦那って何?配偶者の女性は奴隷かなんかですか? 旦那って主従関係の時に使う言葉だよね? なんで平然と結婚した夫婦に使ってるの? なんで当たり前みたいに男が「上」なの? 店で「旦那様」と言う店員にも腹立つし、自分から配偶者の男のことを「うちの旦那が」と言ってるのも気持ち悪くて仕方ない。 この意見言うと「気にしすぎだ」って言う阿保が沢山出てくるのも腹立つ。こうした無意識のミソジニーが積み重なって男尊女卑が続いてるのが日本だろうが。 結局、こういう言葉を気にせず使う/修正しようともしない時点で、日本の男や一部女性達は男尊女卑を変える気がないんだなって絶望する。 一生奴隷扱いでいい、そういう烙印なんだと思う。
くいなちゃん @kuina_ch 最近ツイッター、みんな助詞省略しがちです。 例えば「私は昨日に学校へ行った」→「私昨日学校行った」など。 将来日本語、助詞なくなっている可能性あります。 もっと助詞使いましょう! 2022-10-13 12:46:38 くいなちゃん @kuina_ch わたしの知識の一部をあげますので、あなたの一部をください! くいなちゃん、6さい。 フォローが多いですが、結構読んでいます。 サイト→ kuina.ch [イラスト/作曲/プログラミング/ゲーム制作/あらゆる学問/… kuina.ch リンク Wikipedia 助詞 助詞(じょし)とは、日本語の伝統的な品詞の一つである。他言語の後置詞、接続詞に当たる。 日本語においては、単語に付加し自立語同士の関係を表したり、対象を表したりする語句の総称。付属語。活用しない。俗に「てにをは」(弖爾乎波・天爾遠波)と呼ばれ
娘のことを大事に思っているのに、なぜか娘との会話がぎくしゃくしたり、煙たがられたりしている。そんな父親に対して、脳の仕組みをベースにしたコミュニケーション方法を説く、人工知能研究者・黒川伊保子さんの著書『娘のトリセツ』から、娘や家族とのコミュニケーションを円滑にするコツをご紹介します。 文・黒川伊保子 コミュニケーションには法則がある 先日、セミナー後の質疑応答で、ある男性から質問を受けた。 「女性はなぜ、質問にまっすぐ答えないのでしょうか」 ――この間、家に帰ったら、妻が見慣れないスカートをはいていた。新しいのかなぁと思って、「それ、いつ買ったの?」と聞いたら、妻がむっとしたように「安かったから」と答えた。うちではよくある展開で、質問への答えが永久に返ってこないし、会話も弾まない。あれは、どうしたことでしょうか。 あらまぁ、と、私は声を上げそうになった。重要なコミュニケーションの法則を、
"デパコスで買い物をする" "デパコスに行きたくなくなった" "デパコスに行くたびに" 1回なら誤字の可能性もあるが、3回ともデパコスを"場所"だと勘違いしてる。 質問者さん。これ、本当に化粧を楽しんでる男性に対してもめちゃくち… https://t.co/7rNM8lExaE
前置きとして、今回の炎上については意見が両極に分かれている印象がある。 そうなっている理由の一つに、「人権」という言葉をカジュアルに使っていたかどうかという違いがある。 ここでいう人権とは、当然法律で解釈されるような人権ではなく、勝敗を決めるゲームに参加する上での必要最低限の条件という意味で使われている。 ゲーマーは「そんなことすら知らないでゲームに参加するなよ」という牽制を込めてこの「人権」という言葉を好んで使うのだが、そこには多少の侮蔑やらエリート意識的なものが最初から組み込まれていることは否定できない。 つまりこの「人権」という言葉がカジュアルに使われていることもそれを擁護するということも、今の世の中的には容認されるべきではないよねというのがまずこの議論の始まりにある。 結論から言えば、この言葉のカジュアルさは容認されるべきではない。 個人の配信であっても言語が翻訳されて世界中に発信
「生きてるだけで偉い」は今や他者肯定、自己肯定の常套句となっている。現実世界でこの決まり文句を耳にする機会は少ないから、むしろインターネット・ミームと言った方が適切かもしれない。例えば、Twitterの検索窓に「生きてる」と入力すると、「生きてるだけで偉い」がすぐ下にサジェストされる。 確かに当初は、「生きてるだけで偉い」が生の肯定たり得たのかもしれない。しかし、いつしかこの言葉は、“インフルエンサー”が人生に疲弊し切ったネットユーザーをたらし込んでアクセスを稼ぐためだけの都合のいいクリシェに成り下がった。またその瞬間に、「生きてるだけで偉い」という定型句はただの「文字列」となり、その“意味”を消失した。無意味に反復され、無思考・無批判に発出された言葉には重さがないから、人の心には深く響かない。予定調和的な言葉遣いは、言葉を殺してしまうのだ。現在のこうした言論状況の貧困に、自分は危惧の念を
飲食店で食事をした後、会計を済ませて帰る際に「ありがとうございました」に対して「ごちそうさま」と声をかけて去るのだが、 テイクアウトの時には「ありがとうございました」にどう返したものだろうと小さく悩んでいる。 「ごちそうさま」は食事を最後まで頂いた後に、それを出してくれた相手に対する感謝としての言葉だと認識しているため、 これから食事を持ち帰ろうという、まだ口をつけていないテイクアウトの状態では「ごちそうさま」は有効ではないな、という気持ちがどこかにある。 かと言って、「ありがとうございました」に何も返さずに去るのも個人的にはどこか落ち着かないものがある。 結果として、「どうもー」みたいな芸人の登場の挨拶みたいな、微妙な言葉で返しているのが現状である。 何かこう、しっくりくる受け答えの言葉はないものだろうか。 (追記) 確かにこれから頂くわけだから「いただきます」で良いのか。目からウロコの
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