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原発と内田樹に関するmk16のブックマーク (3)

  • 浜岡原発停止について - 内田樹の研究室

    MBSの「辺境ラジオ」も今回で4回目。 不定期収録、収録時間毎回違う、放送時間毎回違うという、いかにもラジオ的にカジュアルな番組である。 精神科医名越康文先生、MBSの西靖アナウンサーと僕の三人のthree-man talk をガラス窓の向こうから伊佐治プロデューサーが顔を赤くしたり青くしたりしながら見ているという四人組ベース。 今回は「震災」テーマでのトークである。 菅首相が浜岡原発の停止を要請したが、それについての評価から話が始まった。 名越先生も私も、これは官僚や電力会社への根回しが十分にされた上での結論ではなく、総理のトップダウンでの「私案」に近いのではないかという意見だった。 浜岡原発の運転の可否についての議論はもちろん専門的な機関で行っているのだろうが、結論はわかっている。 「安全性に問題はない」である。 でも、東海大地震が起きて、放射性物質が漏出するような事態になったら、政府

  • 原発供養 - 内田樹の研究室

    昨日の話の続き。 それぞれの社会集団は、「恐るべきもの」と折り合うために、それぞれ固有の「霊的作法」を持っているという話だった。 日人は外来のものを排除せず、それを受け容れ、「アマルガム」を作る。 ユーラシア大陸の東端にあり、これから先はない、という辺境民が採用したのは、いわば、「ピジン型」の文明摂取方法だった。 これはヨーロッパの辺境、アイルランドの文明史的地位と構造的に似ている。 聖パトリキウスはケルトやドルイドの土着の神々たちとのまじわりの中でキリスト教を布教した。 そのときに土着の神々を「根絶」するというユダヤの神の苛烈さを避け、地祇たちを生き残らせた。 それがアイルランドに今も生き残る「妖精たち」である。 前に中沢新一さんとおしゃべりしたときに、『伊勢物語』に出てくる「在原業平」というのは固有名詞ではなく、ある種の「集団」ではなかったのか、という話になったことがある。 彼らは「

  • 荒ぶる神の鎮め方 - 内田樹の研究室

    秋葉原のリナックス・カフェで、ラジオカフェの収録。今回はustで画像放映。 平川くん、中沢新一さんと、「カタストロフの後、日をどう復興するか」について、語り合う。 その中で、中沢さんが「第七次エネルギー革命」で人類ははじめて、生態系に存在しないエネルギーを、いわば「神の火」を扱うようになった、という話を切り出した。 そのときmonotheisticとい単語が出て来た。 原子力テクノロジーというのは、いわば「荒ぶる神」をどう祀るかという問題である。 そうである以上、それぞれの社会の「神霊的」なもののとらえ方をストレートに繋がるのではないか。 という話を中沢さんから聞いているうちに、いろいろなことが「がちゃがちゃ」っとつながった。 数千年前、中東の荒野に起きた「一神教革命」というのは、人知を超え、人力によっては制することのできない、理解も共感も絶した巨大な力と人間はどう「折り合って」いけるか

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