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社会とWikipediaと歴史に関するmk16のブックマーク (14)

  • 150年前イギリスの『牛肉の脂肪を脂として再利用する』慣習が原因で起こった大騒動を分析すると今のSNSに通ずるものがある

    エリザ @elizabeth_munh いんたーねっと教育ちゃんねる。人呼んでTwitterのプレシューズ。俗なイギリス好きの世界史アカ。真面目じゃないエンタメ歴史です。話半分に聞いてください。 エリザ @elizabeth_munh 牛肉を焼いた時に出る脂肪をドリッピングと言い、イギリスではこれを貯蔵してパンに塗りつけたり、料理用の油として再利用する習慣がある。 ところがこのドリッピングが元で大騒動になった事があった。それが、リーズのドリッピング暴動。 pic.twitter.com/o8uGQMErPF 2022-12-29 08:30:39

    150年前イギリスの『牛肉の脂肪を脂として再利用する』慣習が原因で起こった大騒動を分析すると今のSNSに通ずるものがある
  • グレシャムの法則 - Wikipedia

    トーマス・グレシャム グレシャムの法則(グレシャムのほうそく)は、金位制の経済学の法則のひとつで、貨幣の額面価値と実質価値に乖離が生じた場合、より実質価値の高い貨幣が流通過程から駆逐され、より実質価値の低い貨幣が流通するという法則である。一般には内容の要約「悪貨は良貨を駆逐する」で知られる。 「グレシャムの法則」という名称は、16世紀のイギリス国王財政顧問トーマス・グレシャムが、1560年にエリザベス1世に対し「イギリスの良貨が外国に流出する原因は貨幣改悪のためである」と進言した故事に由来する。これを19世紀イギリスの経済学者・ヘンリー・マクロードが自著『政治経済学の諸要素』(1858年)で紹介し「グレシャムの法則」と命名、以後この名称で呼ばれるようになった。 概説[編集] たとえば、金の含有量が多くて銀の含有量が少ない金貨と、同じ直径だが金の含有量が少なくて銀の含有量が多い金貨の二種類

    グレシャムの法則 - Wikipedia
  • コンテナ - Wikipedia

    コンテナ(英: container、コンテイナ)とは、容器、入れ物、箱のこと。 物流[編集] 輸送コンテナ 海上コンテナ - インターモーダル輸送に用いられるISOコンテナ。 日における内航コンテナの解説については、日のコンテナ輸送#内航コンテナを参照。 鉄道コンテナ - 日における鉄道コンテナの解説については、日の鉄道コンテナを参照。 そのほか[編集] 園芸・ガーデニングで植物を育てる容器。コンテナガーデンとされる。 コンテナ (データ型) - コンピュータプログラミングにおいて、値の集まりを表現するデータ型の総称。 上記のC++のSTLによる実装

    コンテナ - Wikipedia
  • 日本航空123便墜落事故 - Wikipedia

    航空123便墜落事故(にほんこうくう123びんついらくじこ)は、1985年(昭和60年)8月12日(月曜日)、日航空123便(ボーイング747SR-100型機)が操縦不能に陥り、群馬県多野郡上野村の高天原山山中ヘ墜落した航空事故である。日航ジャンボ機墜落事故とも[1][2]。 520人の死者を出し、日の民間航空史上最悪の事故であるとともに、単独機の事故としては世界最悪の航空事故となっている(死者数ではテネリフェ空港ジャンボ機衝突事故につぎ史上2番目の被害)。また2024年に羽田空港地上衝突事故が発生するまでは、日航空が起こした最後の機体全損事故であった。 原因は、尾翼部分の修理不良と設計上の欠陥であり、特に機体修理中に使用された接着剤の強度が低かったことが明らかになった。この事故は航空安全性の向上を促し、整備および設計の規制強化を求める動きを引き起こした。現在でも事故は航空安全

    日本航空123便墜落事故 - Wikipedia
  • 上尾事件 - Wikipedia

    上尾事件(あげおじけん)とは、1973年(昭和48年)3月13日に日国有鉄道(国鉄)高崎線上尾駅(埼玉県上尾市)で旅客が起こした暴動事件事件の概要[編集] 「順法闘争」の背景[編集] 国鉄では当時、賃金引上げや労働環境の改善・合理化反対を目指して、労働闘争が頻繁に繰り返されていたが、公共企業体職員であった国鉄労働組合(国労)などの労働組合員は、公共企業体等労働関係法(公労法)第17条で争議行為、すなわちストライキを禁じられていた。そこで、組合側は運転安全規範などの諸規則を厳格に遵守するとかえって列車の運行が遅延することを逆手に取り、運転安全規範などの諸規則を「遵守」することで、労働闘争の手段とした「順法闘争」を度々行っていた。 なお、「順法」とは言われているものの、日国政府(自民党政権)は1956年(昭和31年)にこのような形式をとる労働闘争を「違法」(犯罪)と認定[1]していた。

    mk16
    mk16 2015/04/12
    >1973年(昭和48年)3月13日に旧日本国有鉄道高崎線(現在の東日本旅客鉄道高崎線)上尾駅(埼玉県上尾市)で旅客が起こした暴動事件である。
  • 彼らが最初共産主義者を攻撃したとき - Wikipedia

    『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』(かれらがさいしょきょうさんしゅぎしゃをこうげきしたとき)は、ドイツのルター派牧師であり反ナチ運動組織告白教会の指導者マルティン・ニーメラーの言葉に由来する詩。 ニーメラー自身は原稿の無いスピーチの中で成立してきた言い回しで詩として発表されたものではないとしており、厳密な意味でのオリジナルは存在していない[1]。この言い回しはおそらく1946年頃に生まれたと見られ、1950年代初期にはすでに詩の形で広まっていた[2]。 内容[編集] 基的な内容は、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が迫害対象を徐々に拡大していく様に恐怖を感じつつも、「自分は当該集団の関係者じゃないから」と見て見ぬふりをしていたら、己がいざ迫害対象になった際、社会には声を上げてくれる人はもう誰もいなかったというもの。 強いメッセージ性を内包するため、政治への無関心層へ向けた呼びかけと

    mk16
    mk16 2014/04/06
    >迫害対象を徐々に拡大していく様に恐怖を感じつつも、「自分には関係ない」と見て見ぬふりをしていたら、己がいざ迫害対象になると、社会には声を上げる人は誰もいなかったというもの。
  • 火山の冬 - Wikipedia

    1815年のタンボラ山噴火により、翌1816年は記録的な冷夏となり「夏のない年」と呼ばれた。 火山の冬(かざんのふゆ、英: volcanic winter)とは、火山の爆発的な噴火によって、火山灰や霧状の硫酸が太陽光を遮り、地球のアルベドを上昇させることによって温度が低下する現象のことである。長期間に及ぶ冷却効果は主に、大気上層部に構成されるエアロゾル中の硫黄化合物の増加が原因である。 先史時代の事例[編集] 火山の冬と呼ばれるものの一つに、インドネシアのスマトラ島のトバ湖の大噴火によって引き起こった71,000〜73,000年前のものがある。その後6年間、ここ110,000年間で最も大量の火山性の硫黄が堆積し、東南アジアでの重大な森林減少や1°C単位での世界的な気温の低下が引き起こされたと言われる[1]。この噴火は大陸上で進行していた氷河を加速することによって、氷河時代への急速な引戻しを

    火山の冬 - Wikipedia
  • 石鐵県死刑囚蘇生事件 - Wikipedia

    この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2013年2月) 石鐵県死刑囚蘇生事件(せきてつけんしけいしゅうそせいじけん)とは、明治時代初期の石鐵県(現在の愛媛県)で絞柱による死刑執行から死刑囚が蘇生した事件である。別名を「田中藤作蘇生事件」もしくは生き返った死刑囚ともいう。 事件の背景[編集] 久万山・久米騒動[編集] 1871年(明治5年)。伊予松山藩では中央で発布された神仏分離令の解釈により、神仏習合の祠を「淫らなもの」として廃絶する政策が打ち出された。住民は強く反発したが実行され破却された。おりしも藩知事であった松平勝成が免職となり上京することになり、8月15日に祠の破却反対と藩知事免職反対を要求する久万山・久米騒動が勃発した。 この騒動の首謀者は

  • T4作戦 - Wikipedia #安楽死政策への反発

    ティーアガルテン通り4番地に建つ、T4作戦の歴史案内板。ベルリン・フィルハーモニーの所在地でもある。 T4作戦(テーフィアさくせん、独: Aktion T4)は、1930年代後半からドイツ国で精神障害者や身体障害者に対して行われた「強制的な安楽死」(虐殺)政策である。 1939年の夏ころから開始され、1941年8月に中止されたが、安楽死政策自体は継続された。「T4」は安楽死管理局の所在地、ベルリンの「ティーアガルテン通り4番地[# 1]」(現在同地にはベルリン・フィルハーモニーがある)を略して[1]第二次世界大戦後に付けられた組織の名称である[2]。 一次資料にはE-Aktion(エー・アクツィオーン)〔E作戦〕、もしくはEu-Aktion(オイ・アクツィオン) の名称が残されている。この作戦の期間中の犠牲者は、公式な資料に残されているだけでも7万273人に達し[3]、その後も継続された安

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    mk16
    mk16 2012/11/14
    >優生政策を正当化するポスター「遺伝病患者1人に対し、生涯に6万ライヒスマルクが負担されている。同胞諸君、君の金だ」とある。
  • 閾ペディアことのは

    2009年5月14日、R25に「日以外ではほぼ通じない?○△×のルーツを探ってみた | R25」が掲載され、○△×の歴史についてコメントしました。 2009年2月1日、教育テレビ 「ETV特集 作家・辺見庸 しのびよる破局のなかで」にて秋葉原通り魔事件関連ログが使用されました。 2008年12月21日、フジテレビ「FNN重大ニュース2008事件までのX時間〜その時何があったのか?」にて秋葉原通り魔事件関連ログが使用され、管理人がコメントしました。 2008年12月20日、TBSラジオ「ナイスQ編集部 | R25.jp」にゲスト出演し、「@」についてコメントしました。podcastで聴けます。 2008年7月31日、メインページデザインをウィキペディア2007年3月14日改訂版に合わせました。 2008年6月10日、閾ペディアことのは退避場所を開設、秋葉原通り魔事件関連項目を退避しました(

  • グリコ・森永事件 - Wikipedia

    グリコ・森永事件(グリコ・もりながじけん)とは、1984年(昭和59年)と1985年(昭和60年)に日の阪神間(大阪府・兵庫県)を舞台に品会社を標的とした一連の企業脅迫事件。 警察庁広域重要指定114号事件。また、略して「グリ森事件」「グリ森」とも言われる。犯人が「かい人21面相」と名乗ったことから、かい人21面相事件などとも呼ばれる。 2000年(平成12年)2月13日に愛知青酸入り菓子ばら撒き事件の殺人未遂罪が時効を迎え、すべての事件の公訴時効が成立してこの事件は完全犯罪となり、警察庁広域重要指定事件では初の未解決事件となった。 概要[編集] 1984年3月、江崎グリコ社長を拉致して身代金を要求した事件を皮切りに、江崎グリコに対して脅迫や放火を起こす。その後、丸大品、森永製菓、ハウス品、不二家、駿河屋など品企業を次々と脅迫。現金の引き渡しにおいては次々と指定場所を変えたが、犯

    グリコ・森永事件 - Wikipedia
    mk16
    mk16 2011/07/30
    >ハウス食品社長(当時)の浦上郁夫はこの事件の終熄を同社の創業者・前社長であり父親にあたる浦上靖介の墓前に報告するために1985年8月12日に日本航空123便に搭乗し、日本航空123便墜落事故に巻き込まれこの世を去った
  • 東北地方太平洋沖地震 - Wikipedia

    地震によって大規模な津波が発生した。最大で海岸から6 km内陸まで浸水[32]、岩手県三陸南部、宮城県、福島県浜通り北部では津波の高さが8 - 9 m[33]に達し、明治三陸地震(1896年)の津波を上回る最大溯上高40.1 m(岩手県大船渡市)を記録する[9]など、震源域に近い東北地方の太平洋岸では、その急峻な地形もあいまって高い津波が甚大な被害をもたらした。津波は関東地方の太平洋岸でも被害をもたらしたほか、環太平洋地域を中心に世界の海岸に達した。また、宮城県北部で最大震度7、岩手県から千葉県にかけて震度6弱以上を観測するなど広範囲で強い揺れとなり、関東地方の埋立地で大規模な液状化現象が発生した。一方東北太平洋岸では、地盤沈下により浸水被害が長期的に続いている。余震も過去例に無いペースで発生したうえ、通常の余震域外でも地震活動が活発化している[34][35]。 津波、液状化、建造物倒壊な

    東北地方太平洋沖地震 - Wikipedia
  • 歴史の授業でSUGEEEEEEと思った事書いてけ : マテマチカ

    4 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/11(木) 20:06:22.15 ID:mog+kxbYO 銃で武装したイギリス軍に、槍と盾を装備したアフリカのズールー民族が一度は勝利したこと。   7 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/11(木) 20:06:51.36 ID:/jFP/c0lO ローズベルトの陰謀 真珠湾攻撃陰謀説 - Wikipedia 1941年12月8日(現地時間は7日)の大日帝国海軍の真珠湾攻撃を、アメリカ合衆国大統領のフランクリン・ルーズベルトが、事前察知をしながらそれをわざと放置した、という説。 13 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/11(木) 20:12:33.06 ID:m8b3lqES0 外交革命とラスプーチンの無敵っぷりだろjk グリゴリー・ラスプーチン

  • 英国病 - Wikipedia

    英国病(えいこくびょう、英語: British disease)またはイギリス病とは、国を挙げてセカンダリー・バンキングへ傾注した1960年代以降の英国(イギリス)において、充実した社会保障制度や基幹産業の国有化等の政策が実施され、社会保障負担の増加、国民の勤労意欲低下[1]、既得権益の発生[2]、およびその他の経済・社会的な問題を発生させた現象である。 イギリス社会主義[編集] ゆりかごから墓場まで[編集] 1946年に労働党のアトリー内閣はベヴァリッジ報告書に基づいて、国民が原則無料で医療を受けることが出来る国民保健サービス法と、国民が老齢年金と失業保険を受け取ることが出来る国民保険法を制定した。また、1948年には政府が生活困窮者を扶助する国民扶助法と政府が青少年を保護する児童法を制定した。これらの政策によりイギリスでは「ゆりかごから墓場まで」と呼ばれる社会保障制度が確立されていった

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