アメリカ政府は対日回答として「暫定協定案」と包括的な「基礎的一般協定案」(ハル・ノートの原型)の二部構成で検討を進めており[14][15]、前者は事態打開の方策を列記した日本の乙案と軌を一にした内容であった(ただし資産凍結解除及び石油の供給を求める乙案に対し、暫定協定案の禁輸解除は限定的で双方の隔たりは大きかった)[15]。しかし、暫定協定案には中華民国が猛反対し、ヘンリー・スティムソン陸軍長官からの日本軍に関する誤報[注釈 3]も重なり、フランクリン・ルーズベルト大統領とハル国務長官は暫定協定案を放棄した(なお、暫定協定案放棄の決定的理由は今も明らかではない)[16][17]。その結果、「東アジアを日本の勢力圏とすることを否定して『門戸開放』を要求する原則論一本」のみが日本に提示されることになる[18]。 1941年11月26日(アメリカ現地時間16時45分から18時45分、日本時間11