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読書と数学に関するmytechnoteのブックマーク (2)

  • 頭を使って働く人に、読書が絶対に必要な理由。

    先日、次女がやっている国語のドリルの答え合わせをした時のこと。 来であれば、文中にある表現を用いて 「郵便局のドアをあけた」 と解答しなければならないところ、次女は 「郵便局に行った」 と書いていた。不正解である。 そこで、これは間違いだと指摘したところ、「なんで?」と返された。 そこで、想像してみて「おうちのドアを開けた」と「おうちに行った」とは、そもそも意味自体が違うでしょう、と説明する。 ところが娘は「おんなじようなものじゃない?」と首をひねる。 なるほど、娘の認識の中では、「ドアを開けること」と、その場所に「行くこと」は同一視されていたということだ。 そこで、娘には「わずかでも言葉が違う、ということはそもそも、意味が違うということ、文中に使われている表現を、そのまま使わないと意味が変わってしまうので、不正解になる」といい含めた。 * 上の話を「いちいち細かいなあ」と思う方もいるか

    頭を使って働く人に、読書が絶対に必要な理由。
  • フィボナッチに潜む神、そして「聖なる侵入」 - マトリョーシカ的日常

    小学生の頃、算数がぞっとするほど苦手だった。三桁同士の足し算や引き算は苦労した。筆算をプリントのあちこちに書き込んで解いていくのだが、毎回違った答えになってしまい焦る。特に繰り下がりの引き算は時間がかかった。「十の位から借りてくる」とかそういう方便は分かっていたが、数字を分解して両方の形を海馬に維持させたまま鉛筆を走らせることができなかった。 算数は苦手だったが数学は好きだった。単なる計算問題が少なくなり、幾何や代数問題が増えたため、あまり頭を使わなくてもよくなったからだと思う。あれは僕が中学一年の冬か二年の夏か秋か冬か。よく覚えていないが、図書館数学の絵を見つけた。『数の悪魔』というだ。数学が嫌いな少年が数の悪魔と出会って毎日夢の中で数学談義を繰り広げる、という筋だった。そこで悪魔が語っていたのがフィボナッチ数列だった。 『聖なる侵入』でも『ヴァリス』でもフィボナッチ数列が登場する

    フィボナッチに潜む神、そして「聖なる侵入」 - マトリョーシカ的日常
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