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ブックマーク / note.com/onoholiday (6)

  • 被害者はなぜ”追撃”される? 冷笑系クラスタの仕組み|小野ほりでい

    皆さんは、自分の見ている前でいじめが起きているときに加害者と被害者のどちらに寄り添いたいと思いますか? 「当然、被害者だ」と答えたあなたは・・・たぶん、心の強い人です。世の中には、「加害者」と「被害者」が存在しているときに「加害者」のほうに加担することを選ぶ人が実は少なくありません。なぜそういうことになるのでしょうか? これには次のような理由があります。 △加害者と被害者、どっちに味方する? さて、世の中誰が当の「加害者」で「被害者」なのかを見定めることは簡単ではありませんが・・・ここでは、単純に「いじめ」の加害者と被害者がいたとしましょう。 このとき、それを目撃したわたしたちは単純に図のAとBのように、「加害者側」に立ってそれを笑い飛ばすか、それとも「被害者側」に立って寄り添うかという選択を迫られます。 このとき、「加害者側」に立とうとするひとたちの動機はシンプルです。それは・・・ 被

    被害者はなぜ”追撃”される? 冷笑系クラスタの仕組み|小野ほりでい
    nowa_s
    nowa_s 2021/03/26
    中学校の、中学生たちの作る社会が苦手だったけど、この世はそこからあまり変わってなくてしんどい。
  • 「井戸に毒」のデマに見る、「2ちゃんねる的インターネット」を引きずる人々|小野ほりでい

    2021年2月13日の地震後、Twitterなどで「~~が井戸に毒を入れた」というデマが多数投稿されました(現在は多数のアカウントが凍結済み)。これは1923年の関東大震災後の(虐殺の発端ともなった)悪質なデマが再生産されたものですが、なかでも一部は「匿名掲示板型のアイロニー」という文脈によってパロディされたものであり、擁護する立場の者の主張によれば、これは「パロディ(つまりパロディ元への批判的な笑い)」―――すなわち「ネタ」であるので問題ではない、とのことです。 このような書き込みが「なぜ問題なのか」については、もはや説明するまでもないほどに論じ尽くされているので、今回はむしろ「なぜこのような書き込みが起こったのか」について考えてみましょう。 アイロニーとしてのパロディ さて、先ほど触れたように、この「悪質なデマのパロディ」および「これは政権による人工地震だ」というような「パラノイア的な

    「井戸に毒」のデマに見る、「2ちゃんねる的インターネット」を引きずる人々|小野ほりでい
    nowa_s
    nowa_s 2021/02/20
    笑われるのを恐れるあまり、透明マントをかぶって嘲笑う側に回ろうとすんのって、矮小で哀しくはあるけど、悪意ではある。/はてブは石の裏に隠れた虫感はあるけど、ネタにマジレス当たり前なのがわりと好きなとこ。
  • 非モテは不幸だという呪い|小野ほりでい

    人間ははじめ無能の役立たずとして産声をあげ、そして遅かれ早かれ無能の役立たずになって死んでいくものである。人間の質を有用さと無能さのどちらに置くかで迷ったら、まず後者と考えて間違いないだろう。したがって、私たち人間は大なり小なり自分の無能さを受け容れなければ立ち行かなくなる時がやってくる―――無能な自分に対する否定的感情は、自分自身に対してか、それを転嫁された他人に対する攻撃として結末するだろう。相模原障害者施設殺傷事件などはその結末の一例である。 無能で役立たずな自分に対する愛情を私は自己肯定感と呼んでいる。しかし、無能で役立たずな人間に対する愛情のまなざしを示すもっと普遍的な名前がある。人権である。人権は、どのような人にも変わらない条件で一様に存在している。私が人権を、ほかの何を差し置いても最も偉大な発明だと感じざるを得ないのは、それが存在するという主張なしには存在し得なかったものだ

    非モテは不幸だという呪い|小野ほりでい
    nowa_s
    nowa_s 2020/10/03
    スペックとかランクとかいう機械的基準で評価が決まるカタログ的世界では、「異性を得たか?価値のある異性か?」が幸福の尺度。きつい。/性的有用性への言及は人間性の否定って視点、褒めたのに疎まれる理由だなー
  • 感覚派ヒューマニストの世界|小野ほりでい

    インターネットによって席巻したポリティカル・コレクトネス的な善は、私たちが潜在的に持っていた性善説的な願望を打ち砕いた。ハラスメント、差別、偏見、ジェンダーバイアスといった議論が旧い世代にある種の衝撃と分断をもたらしたのは、これらが内包している「悪への無自覚」という視点のためである。これまで悪とはヒーロショー的な二元論によって管理されるもの―――つまり「悪人が・悪意を持って」なす所業とみなされ、「一般的な善人である私たち」と隔てられているものとして描写されてきた。 ポスト・ポリティカルコレクトネス時代の悪の議論は、「何も考えていなくても」なんとなく善人でいられた私たちに、これまで無自覚のうちに権威勾配の「上に」立っていたこと、知らないうちに差別や偏見を実践していたこと、あるいは階層的な構造に加担していることを自覚させ、悪が否認されたエデンの園から罪悪の蔓延る地上まで叩き落とした。ここで起こ

    感覚派ヒューマニストの世界|小野ほりでい
    nowa_s
    nowa_s 2020/09/26
    これまでは積極的に悪をなさなければ自動的に善人で通ったけど、これからは善的であることは面倒くさいことになるって指摘は面白いな。🙈🙉で自然のまま無意識に差別しとくのが面倒くさくないから、そうなる人々。
  • 無思想はなぜヤバいのか|小野ほりでい

    ヤバい思想、と言われると皆さんが思い浮かべるのはなんでしょうか。ファシズムや全体主義?差別主義?優性思想?それとも宗教的原理主義? この世に数多ある危険思想のなかで、ユダヤ人哲学者・思想家のハンナ・アーレントが最も重大視したのは「無思想」でした。 無思想、ノンポリ、無宗教…という「無属性」なステータスを自認していることは私たちの国では取り立てて珍しいものではありません。実際、多くの人は自分は「偏った考え方」に染まっておらず、「普通の感覚を持った/普通の日人」であるというふうに考えています。よく異文化から揶揄されるように私たちは、「他の人と違う」ことに漠然とした恐怖を持っており、「普通であること」、そして「特定の立場や意見を主張しないこと」によって他の人たちとの温かい連帯関係の中に存在できます。 しかし実のところ、この「自分は普通の感覚を持っている」という自認こそが危険な状態だ、というのが

    無思想はなぜヤバいのか|小野ほりでい
    nowa_s
    nowa_s 2020/09/11
    神社は宗教施設ではない、とかね/無自覚に無徴であれることの特権性はよく指摘されるけど、有徴とされた人が〈普通〉から蹴落され、自他の立場の相対性に否応なく気づくことを「メリット」と断言するの凄い、祝福だ
  • 性がゲーム化することとその弊害について|小野ほりでい

    やはり僕らの社会においてセックスは、金銭とはまったく別の、もうひとつの差異化のシステムなのだ。そして金銭に劣らず、冷酷な差異化システムとして機能する。(中略)何割かの人間は毎日セックスする。何割かの人間は人生で五、六度セックスする。そして一度もセックスしない人間がいる。何割かの人間は何十人もの女性とセックスする。何割かの人間は誰ともセックスしない。これがいわゆる「市場の法則」である。(「闘争領域の拡大」、M・ウエルベック) 私たちの暮らしている社会は、「闘争領域の拡大」から四半世紀を経てもその世界観を寸分違わぬ形で再現しているばかりか、むしろその傾向を加速さえしている

    性がゲーム化することとその弊害について|小野ほりでい
    nowa_s
    nowa_s 2020/09/05
    やばい怖い。書籍化したらほしい。/選ぶ自由とは選ばれる自由・淘汰されるリスクを受け入れること、異性を同性間の優越感ゲームの道具にすること、ゲームの敗者となる鬱屈を勝者ではなく道具である異性に向けること
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