千葉雅也、納富信留、山内志朗、伊藤博明著、斎藤哲也編『哲学史入門Ⅰ 古代ギリシアからルネサンスまで』の本文を特別公開。ありそうでなかった学び直しの決定版!
「セックスロボットは悪なのか」 という議論がある。 精巧につくられた等身大のドールで、触れると温かい。センサーとAIにより、ユーザーが望む反応を学習して応答する、ロボット工学と人工知能の粋を集めたアンドロイドだ。 愛情を深め合うコミュニケーション手段としてのセックスが蔑ろにされ、女性蔑視や暴力へつながるかもしれない。一方で、感染症の心配もなく安心して愛情を注げるパートナーに救われる人もいるだろう。 あるいは、 「アンドロイドが運転する車が事故を起こしたら、誰に責任を問うべきか?」 という議論がある。 AIは人間よりも安全運転できるだろうから、自動運転をベースとした車社会を設計すべきだという意見がある。一方で、プログラムや学習データの不具合によってAIが暴走する可能性は残されており、その影響は計り知れないという人もいる。 こうした議論は、論点が噛み合わないか、漠然とした話になりがちだ。意識と
May 03, 2024 井上太一『動物倫理の最前線』へのコメント 井上さんは近年つぎつぎに動物倫理関連の著作を翻訳し注⽬されている翻訳家である。とりわけ、ナイバートやワディウェルなど、これまでの⽇本の動物倫理学の議論ではほぼ取り上げられてこなかった傾向の著作を翻訳されたことは学術的に⼤きな貢献となっている。 今回コメントする『動物倫理の最前線』では、そうした「批判的動物研究」(CAS)やフェミニズム系動物倫理の紹介を中⼼にしつつも、⼈間の解放と動物の解放を対⽴的にとらえるのではなく両⽴させる「総合的解放」の⽅向性が⽰されている。その議論の途上において、英⽶流の動物解放論も批判的な検討の俎上にあがっている。 動物をめぐる思想について論じると言っても、実践家である井上氏とわれわれ倫理学者ではいろいろ視点の違い、スタンスの違いがあるだろう。また、井上氏とわたしではそもそもの動物と人間の関係のあ
《一切の自分ていふものを捨てるのだ。》 しかしその後に自分の言葉を否定する。 《吾は死に面するとも、理想を持ちつづけん。吾は如何なる事態となるとも吾であらん事を欲する。》 芸術を志しながらも救いを仏教や基督教に求め、また哲学が芸術を支える杖となるのかと悩む。 《吾を救ふものは道徳か、哲学か、芸術か、基督教か、仏教か、而してまよふた。道徳は死に対して強くなるまでは日月がかかり、哲学は広すぎる。芸術は死に無関心である。》 《俺は画家になる。美を基礎づけるために哲学をする。単に絵だけを書くのでは不安でたまらん。》 かと思えば 《前に哲学者になるやうな絵描きになるやうな事を書いたが、あれは自分で自分をあざむくつもりに違ひない。哲学者は世界を虚空だと言ふ。画家は、深遠で手ごたへがあると言ふ。(中略)之ぢや自分が二つにさけねば解決はつくまい。》 当時の水木さんは哲学書や宗教書を読みあさっていたようだ。
大山祐亮(Yūsuke ŌYAMA) @Yusuke_OYAMA_ わたしは地方公立から東大に行った人間ですが、志望のきっかけは高1の最初の面談で担任に「お前東大行ける」と言われたことです。真に受けて3年間死ぬ気で勉強しました。 卒業後発覚したのは、同じことを全員が言われていたらしいことです。わたしがクラスで一番アホだったことが発覚した瞬間でした。 2024-04-28 09:28:28 大山祐亮(Yūsuke ŌYAMA) @Yusuke_OYAMA_ ちなみにこの先生、3年間担任だったのですが、合格発表の時「そういえば高校も入試期間で休みだよなあ...報告は休み明けでいいか!」と連絡を後回しにしていたら夕方に先生の方から電話がかかってきて、「焦らせるな!」と言われました。修学旅行の時は「お前は旅行中勉強禁止な」と言われていました。 x.com/Yusuke_OYAMA_/… 2024-
April 28, 2024 ヒュームの法則はどこからきたか 以前のエントリーでヒュームの帰納の問題の再発見を扱ったが、それと同じ時期に再発見(というよりは再構成)されてヒュームに帰せられるようになった考え方がある。それがメタ倫理学で「ヒュームの法則」と呼ばれる定式である。これは、「「である」から「べきである」は導出できない」といった形で表現される事が多い。ヒュームの帰納の問題は(わかりにくくはあるものの)少なくともヒューム自身の書いたものに典拠を見出すことができるが、実は「ヒュームの法則」はヒューム自身が述べていることとずれている。ではヒュームは何を主張しているか、というのはヒューム解釈の重要な問題だが、ここではそれを取り上げるわけではない。本稿の関心は、ヒュームによるものでないならヒュームの法則と呼ばれるものはどこから来たのかである。 1ヒューム自身が述べていること まず、ヒュームがこ
論理学を基礎から〈テキストを読むこと〉だけで独習しようとするひと――こうしたひとにとって役立つかもしれない講義テキストを置いておく。これは某大学で私が担当している論理学の講義のテキストであり、その授業では安井邦夫『現代論理学』(世界思想社、1991年(新装版2021年))も教科書に指定されている。ただし、以下のテキストは、安井の教科書がなくても読むことができる(他方で、「論理学Ⅰ」のテキストを読み終えた後に、その続きとして安井本で述語論理などを学び進めることもできる)。 ちなみに、論理学をまなぼうとするひとの中には《ふつうの散文は却って読みにくく、とりあえず記号を並べてほしい(あとは自分で考えるから)》という方もいると思う。そうした方にとっては、残念ながら、私のテキストは却って読みづらいだろう。なぜなら私のテキストは――最近はこうした言葉づかいがあるらしいが――形式化の背景にある「お気持ち
おくだ・ゆい/1975年生まれ。東京大学卒業。ダイヤモンド社入社後、ウェブ担当、週刊ダイヤモンド記者、ザイ編集部を経て独立。同社刊行物、人材開発教材、同社オンライン、ハーバード・ビジネス・レビュー・ネットの記事作成や編集、プレジデント社での記事作成、誠文堂新光社「アイデア」での翻訳をはじめ、経営・経済・ビジネス関連書、教育、芸術書のライティングや編集を行っている。 ネクストリーダーの道標 偉大なイノベーターに共通する要素は、「新しい組み合わせを発想する能力」と「その発想に価値があるかどうかを洞察する能力」である。この2つの能力は1人の人間が兼ね揃える必要はない。アップルにはジョブズ氏とウォズニアック氏がいて、ソニーには井深大氏と盛田昭夫氏がいた。しかし両者共に必要な素質はある。それは「知的好奇心」である。作家のダニエル・ピンク氏は名著と名高い『ハイ・コンセプト』において、新しい時代の思考法
仏の教えは合理的。基本的な理屈の前提となっているのは、この世界には「因果関係」があって、あらゆる物事は因果関係の連鎖で成り立っていますってことだけ。 ・絶え間ない因果関係の連なりがあるから「諸行無常」。諸行無常ってのは、あらゆる物事は変化し続けているってこと。 ・諸行無常な世界を普通の人間が経験すると、「一切皆苦」と感じる。あらゆる物事が変化し続けているってことは、やがては人の望まない状態になり得るし、たいていはそうなるから。人生には「四苦八苦」がつきもの。 ・普通の人間は、永遠不変の私がいることを素朴に信じていて、その『私』に強く執着している。しかし実際は、「諸法無我」。つまり、永遠不変の私は存在しないということ。なぜなら、私はこの世界の一部であって、世界の一部であるからには因果関係の連鎖によって一時的に立ち現れている物事でしかないから。身体も五感も思考も欲求も一時的に立ち現れているもの
「正義」という言葉はどうにも扱いが難しい。言葉を使う人によって「正義」がもつニュアンスが違ったり、そのことによってすれ違いが起きたりするからだ。 正義という言葉に関連して、いまの日本でしばしば耳にするのは、たとえば「正義の暴走」や「正義は人それぞれ」といった表現である。こうした表現は、「正義」という概念を厳密に考えてきた研究者の目には、どのように映るのか。 このほど『今を生きる思想 ジョン・ロールズ』を上梓した学習院大学教授の玉手慎太郎さんが、政治哲学から見た「正義」について、いくつかの角度から語る。 日本での「正義」のイメージ ——「正義の暴走」という言葉が使われているのをときどき見かけます。 たとえば、コロナ禍のさい飲食店などの営業自粛を求めて攻撃をおこなう「自粛警察」があらわれましたが、これは「正義の暴走である」と言われました。 政治哲学や倫理学をご専門とする玉手さんからは、「正義の
4月18日、株式会社qureateはアドベンチャーゲーム『バニーガーデン』を発売した。現在対応プラットフォームはNintendo Switch。PC(Steam)版の発売も予定されている。同作に実装されたシンプルすぎる「ギャンブル」要素が、レーティング回避のためではないかと話題を呼んでいる。本稿では『バニーガーデン』に含まれる要素についてのネタバレになりうる記述があるため、留意されたい。 『バニーガーデン』は、“紳士向け”を謳う恋愛アドベンチャーゲームだ。レーティングはCERO:D(17歳以上対象)。プレイヤーは「バニーガーデン」に通う一人の客として、女性キャストとさまざまな形でコミュニケーションを取ったり、店に通うためになんとか費用を捻出する。発売開始から人気を博しており、執筆時点でNintendo Storeダウンロードソフトランキング4位を獲得している。 極限まで研ぎ澄まされた“ギャ
産休クッキーの燃え方を見てつくづく思うが、自己肯定感が低いお嬢様方は自分の妬みや嫉み等の感情に自分で気付くことができず、「周りのみんなのため」といった建前を内面化してしまうから、本当に不幸で生きづらそうだなと思う。 産休クッキーを叩いている人の多くは「不妊に配慮できていないのが悪い!」といった論法を使い、周りからボコボコに叩かれている。 「他人の不幸に配慮すると際限がなくなるだろ?」 「社会人は仕事に就けない人に配慮しなくちゃいけないのか?」 「じゃあハゲに配慮してロングヘアは禁止なw」 まぁ、これら反論は完全に正論なのだが産休クッキーを叩いている自己肯定感バリ低いお嬢様方には響かないだろう。 それはなぜかと言うと、自己肯定感の低いお嬢様方は自分の感情と他人の感情に区別をつけることができないからなのだ。 自己肯定感低いお嬢様方の心理の機序彼女らは無意識レベルで自分の感情の問題を社会的正義の
April 14, 2024 ヒュームの帰納の問題の再発見 ヒュームの帰納の問題は現代の科学哲学で帰納をめぐる哲学的問題を紹介する際、必ずといっていいほど言及される。このように定番になっていることから、「ヒュームの帰納の問題」がヒュームが『人間本性論』を公にして以来一貫して哲学の大問題として論じられてきたような印象を持つ人も多いかもしれない。かく言う私自身も科学哲学の歴史について調べ始めるまで、当然のようにヒュームの帰納の問題が二百数十年来の大問題だったと想定してきた。 しかし、少し調べれば分かるように、19世紀前半から中頃にかけての「帰納」をめぐる論争(ハーシェル、ヒューウェル、ミルらによるもの)では、ヒュームが指摘した論点は全く顧みられていない(このあたりは『科学哲学の源流をたどる』でも少し紹介したし、以下でも触れる)。では、ヒュームの帰納の問題を哲学的問題圏の中央へと押し出したのは誰
日本人初で唯一無二の本 そうした問題をめぐる西田の格闘は、当時の人々にも大きな影響を与えた。この書が刊行された翌年にまだ少壮の学者であった高橋里美(のちに東北大学教授)が「意識現象の事実と其意味──西田氏著『善の研究』を読む」と題した論考を発表した。そこで高橋は「本書は恐らく明治以後に邦人のものした最初の、また唯一の哲学書であるまいかと思う。……その思想の内容に関しては、始めてこれに接して驚喜し、再三接するに従って畏敬の念に堪えない」と、この書から受けた感銘を記している。『善の研究』はそれ以後も多くの思想家が自らの思想を形成するための足場とも、道しるべともなった。この書がそのような力を発揮しえたのは、西田がそこで当時の哲学が直面していた問題と真剣に取り組み、彼独自の思想を生みだしていったからであろう。『善の研究』が長く読み継がれている理由はまずそこに求められる。 西田の思想の独自性というこ
功利主義に向き合う いきなりだが、どうもおれは功利主義者らしい。反出生主義などの持論を述べていたら、そう指摘された。 なるほど、反出生主義論者のベネターの考え方は功利主義的かもしれない。 とはいえ、おれは功利主義をよく知らない。「最大多数の最大幸福?」くらいのものだ。なので、おれは本を読んでみることにした。 功利主義 (岩波文庫) たとえば、有名なJ.S.ミルなどはなんといっているのだろう。『功利主義』の冒頭はこんな文章で始まる。 正と不正の判断基準をめぐる論争は、解決に向けた進展が少しも見られない。人間の知識の現状を作り上げている環境要因のうちで、これほど期待はずれなものはほとんどない。 最も重要なテーマに関する思索でありながら、長いあいだ立ち後れたままであり、期待はずれという点でここまで際立っている環境要因はほとんどない。 哲学が誕生して以来、最高善に関する話題、あるいは同じことになる
どうして言葉がそんなに大事なんだろう? でも周りを眺め回してみると、なんだか言葉ばっかり。なんと自分の思考も言葉。ってことは、この世の中、言葉(記号)しかないのでは? AIの時代に突入した今こそ、より言葉について考える必要があるのだろう。 構造主義の始まりとしての言語学 ソシュールの言語論は言語学のみならず、思想界に革命的な影響を与えました。 ざっくり、ソシュールのどこがすごいのかというと、「言語で世界ができている」ということを見事に説明したからです。 私たちは、普通、目の前にまず物理的対象が実在的に存在し、それに言葉のラベルを貼り付けていると考えています。 たとえば、「猫」という実体が先に外界に実在していて、それに「ネコ」という言語のラベルを貼り付けたのだと考えます。 しかし、この世の動物がすべて猫だったら、わざわざ「猫」と言わなくてもいいでしょう。 犬がいるから猫がいるという感じで、あ
昨年、これまでの自身の研究の集大成として『マルクス解体』を上梓した斎藤幸平さん。今年一月、斎藤さんが多大な影響を受けたという哲学者・高橋哲哉さんとの対談イベントが、代官山蔦屋書店にて開催されました。前編に引き続き、この豪華対談の中身を大ボリュームでご紹介いたします。(前編はコチラ) まず「出来事」がなくては―― 斎藤 現実の問題に対して哲学や思想をどうすれば実践的に使えるのか。そのような意識を高橋さんの本から私は感じとっていたのですが、高橋さんもやはりそのようなことを意識されていたのでしょうか。 高橋 はい、そうですね。 斎藤 そうすると、高橋さんは学生時代、思想としてはノンポリだったのでしょうか? 当時、活動家になろうと思ったりはされなかったのでしょうか? 高橋 ノンポリでしたね。私はかなり早くから人文系の研究者を目指していました。それは今で言う「紙の」本が好きだったからで、哲学だけじゃ
戦争を体験した世代、眼の前で戦友がバラバラのグチャグチャになったり家族全員黒焦げになったり自分自身も体が不自由になったりしたその人びとは 戦争が終わった後、ずっと誰にも配慮して貰えなかった。 戦争は絵空事のフィクションの種としてさんざん消費され、一方で現実の戦争体験は反戦平和を訴えるという決まり切った文脈・パッケージでしか語りようがなかった。 その莫大なフラストレーションや怨念はどこに行ったか?といえばどこにも行かなかった。それぞれがじっと抱えて生きて死ぬしかなかった。 「戦争体験に比べれば自死遺族なんかあまっちょろいよ」という話をしてるわけではない。 我々は同じ空間を生きてるようでそれぞれ別の宇宙にいるということだ。多重露光みたいに別々の世界が重なって見えているだけなんだ。 上っ面の「配慮」なんてあってもなくても大した違いはない。
昨年、これまでの自身の研究の集大成として『マルクス解体』を上梓した斎藤幸平さん。デリダを研究しながら日本と世界の諸問題を論じ、近年は福島の原発や沖縄の基地問題にもコミットされている高橋哲哉さんとの対談イベントが、今年一月に代官山蔦屋書店にて開催されました。大盛況のうちに幕を閉じた豪華対談の中身を、大ボリュームでご紹介いたします。 高橋さんがいたから今の私がある 斎藤 どうもこんばんは。お忙しい中、皆さんお集まりいただきありがとうございます。今日は私が去年刊行した『マルクス解体』という本の刊行記念イベントになります。「危機の時代と人文学」と題して、いわゆるエコロジーや気候危機の話だけではなく、今起こっている戦争も含めたいろんな危機に対し、私たちが専門とする哲学や思想がどういう意味を持つのかというところにまで広げながらお話をしていきたいと思います。ただその前に、もしかしたら聞いてくださっている
私のテーマについてお話しする前に、二、三の導入を述べさせてください。私の思想を皆さんに伝えることに、私は大きな困難を感じていますが、それを前もって皆さんに述べておくことで、いくらか困難を軽減できると思うからです。困難の第一は、言うまでもないことですが、英語は私の母国語ではありません。従って、難しいテーマについて語るときに望まれる正確さと微妙なニュアンスが、私の表現には欠ける場合が多いのです。私としては、私が英語の文法について犯す多くの間違いにめげず、私が意味するところを努めて理解するよう、皆さんにお願いするほかありません。そうしていただければ、私もやりやすくなると思います。第二の困難は、おそらく多くの方が、幾分間違った期待を抱いてこの講話に参加されていることです。この点に関する皆さんの思い違いを訂正するために、私がテーマを選んだ理由を少し話しましょう。本協会の前任の主事の方から、光栄にも講
汎心論(はんしんろん)とは、生き物はもちろん今座っている椅子などの非生物でさえも、すべてのものには心ないし心に似た性質があるという哲学的な理論です。汎心論は16世紀に確立して、19世紀に西洋で流行しましたが、20世紀初頭には経験的な証明を重要視する論理実証主義の運動に取って代わられました。しかし、2000年以降になって汎心論は改めて「経験科学で解決できない、難しい意識の問題」への取り組みとして注目されており、哲学者だけではなく科学者たちも汎心論に関する議論を展開しています。 Everything in Our Universe May Be Conscious, Scientists Say https://www.popularmechanics.com/science/a60229168/panpsychism-everything-has-a-soul/ 汎心論は、16世紀のプラトニ
筆者はいわゆるロースクールに所属している。法曹養成を任務とするロースクールでは、ソクラティック・メソッドと呼ばれる問答を通じた教育が推奨されている。アメリカのロースクールでは、そうした教育方法がとられているらしいので*1、それを輸入しようということのようである。 ロースクールで行われるはずのソクラティック・メソッドが、ソクラテスが行ったと伝えられる問答法(dialectic)とどのような関係にあるかは、判然としないところがある。ロースクールの教員のすべて(あるいは大部分)が、ソクラテスの問答を描いたプラトンの著作の熱心な読者かと問われると、はなはだ心許ない。 とはいえ、ソクラティック・メソッドを標榜する以上、ソクラテスの問答法との関係について、全く無関心というわけにはいかないであろう。プラトンの描くソクラテスは、たしかに問答を通じて「徳とは何か」「知とは何か」等の深遠な問題を探究しているよ
「徒桜」パンフレットと『VTuberの哲学』 「徒桜」(あだざくら)は2024年3月17日に東京・板橋にある「プラネアール 板橋学校スタジオ」で開催されたイベントである。 passmarket.yahoo.co.jp 「堰代ミコ 生誕記念イベント」と銘打っているとおり、ななしいんく所属のVTuber・堰代ミコの3月5日の誕生日を記念したななしいんく主催のイベントで、いわゆるVTuberの生誕リアイベである。VTuberでは年に一度の誕生日にライブやトークイベント、特別なライブ配信などを行うことが多いが、堰代ミコが2024年のそれとして行ったものと言える。 「プラネアール 板橋学校スタジオ」は「学校」をテーマにした撮影スタジオで、3階建ての施設内に教室・職員室・校長室・保健室・部室といった学校内の部屋を模した空間がコンパクトな動線で用意されている。 www.planear.co.jp 「プラ
スタジオジブリの代表取締役プロデューサー・鈴木敏夫と、日本のアニメーション界を代表する巨匠・押井守──二人が“忖度一切なし”の対談を重ねた記録が『鈴木敏夫×押井守 対談集 されどわれらが日々』(DU BOOKS)として一冊にまとめられ、注目を集めている。映画という芸術の奥深さや、その背景にある人間関係に迫るこの書籍は、日本の映画文化の一端を垣間見ることができる貴重な資料となっている。今回は本書の刊行を記念して、隠れ家「れんが屋」にて鈴木氏にインタビューを行った。 「愛」から「哲学」へ ―本書の中で鈴木さんは「その時代におけるテーマ」が映画や小説にはあるとおっしゃっているのですが、結局のところ、現代のテーマはなんでしょうか。 昔の時代のテーマは「貧乏を克服する」でした。でもそれを克服した後に、みんな迷いましたよね。貧乏だったら、克服すればいいだけですが、みんなご飯を食べることができるようにな
ディベート的な場でのことだからあまり本気で考えなくてもいいとは思うんだけど、もやもやする 個人的には「後先考えなければ人を殺すことは簡単」というのはディベート抜きにしても納得できる意見なので、 それで対する反発が意外だったというか 実際の話、私的な恨みで総理大臣ですら殺せたわけだし、一般人がターゲットなら準備すれば100%に近い確率で殺せるでしょ 拡大自殺を試みる人間がいたら、そのターゲットは避けようがないというのはある種、天災のような意味合いであり得ると考えている 一方それに対する反論は公正世界仮設を前提としているというか、「悪いことしてない人が不幸な目に合うわけがない」というような素朴な意見が多く 育ちの違いを実感させられて凹むというか 言葉の端々に恵まれた環境で生きてきたんだなという生い立ちが連想されて 自分が人生に行き詰まったらこいつら道連れにしてやろうと心底思った せめて誰か一人
風呂でふと思いついたんだが、これまでのなんたらパフォーマンスって、自分が使えるなんたらの節約じゃないか? コストパフォーマンスって可処分資産の節約だろ。 タイムパフォーマンスって可処分時間の節約だろ。 それで考えると、あと節約したくなるものってあれしかないだろ。自分の心の余裕、可処分精神しかないだろ。(どうでもいいけど、マインドシェアって言う奴マジで居なくなったよな) それで考え直すと、上の2つは可処分精神の節約に内包されてるんじゃないのか。 コスパがいい→「値段高!ただでさえ金がないのに、こんなに金掛かるのかよ!」というイライラに思考を取られない タイパがいい→「動画長い!ただでさえ時間がないのに、こんなに待たされるのかよ!」というイライラに思考を取られない どっちも、イライラに思考を取られないのが良いんだろう。ならそれが主体だ。 ということでキャッチーな略称にしたいが、いい単語が全然見
【今回のお悩み】 「本当の意味で『優しい人』とは、どんな人なのでしょうか?」 自分に有害な影響を与える人と一緒にいたいと思う人はいないでしょう。また、自分がそんな人間になりたいとも考えないはずです。では、「優しい人」ならどんな行動をするのでしょうか? どんな意見でも受け入れてくれる人? 相手が必要なことを何でもやってくれる人? アドラー心理学に詳しい岸見一郎先生に訊いてみました。 優しい人は何事も自分で決めようとはしません。自分が決めたらその決断には責任が伴うからです。たとえば、一緒に食事をしようということになったときに、何を食べるかを自分で決めずに、必ず一緒に食事をする相手に何が食べたいか尋ねる人がいます。そのような人は、「優しい人」と思われるでしょう。 相手の意見を聞かないで決める人がいれば、そのような人をリーダーシップがあって頼りがいがあると思う人がいるかもしれませんが、二人の関係が
「20世紀最大の哲学者」ハイデガーと、13世紀、曹洞宗を開いた僧・道元。 時代もバックグラウンドも異なる二人ですが、じつは彼らが考えていたことには意外な親近性があったのではないか? 哲学と宗教という異なる「探求」の道が一瞬、交わったときに顕らかにされる「真理」とは? ハイデガー哲学の研究者・轟孝夫と曹洞宗の老師・南直哉によるスリリングな対話! 「机」は、いつ、どのようなときに机なのか? 南直哉(以下、南):ご本(『ハイデガーの哲学』)を読んで思ったのですが、『存在と時間』以後の後期の思想をこれだけクリアに捉えた一般向けの本は読んだことがありませんでした。それだけでも、大きな成果だと思います。 その『存在と時間』で、ひとつ気になるというか、どうなんだろうなと思ったのは、中期・後期になるに従って、「時間」の扱い方がはっきり見えなくなってきているような気がするんです。その辺はどう思われますか?
はじめに こんにちは!kindle unlimitedヘビーユーザーです。 kindle unlimitedは定額料金で、登録されている書籍が読み放題というサービスです。 今回はその中で私が読んだ書籍から、おすすめのものを紹介します。 現在は1ヶ月の無料体験もできます。 これを機にぜひ良書を1ヶ月で読破してみてはいかがでしょうか。 ※この記事はAmazonアソシエイトに参加していません。 弊社Nucoでは、他にも様々なお役立ち記事を公開しています。よかったら、Organizationのページも覗いてみてください。 また、Nucoでは一緒に働く仲間も募集しています!興味をお持ちいただける方は、こちらまで。 kindle unlimitedで無料で読める超良書45選 さっそく紹介していきます。以下のカテゴリに分けてみました。 ・ビジネス・実用書 ・健康・メンタルヘルス ・エンジニアにおすすめ
いや気にせずに第三者目線で読め 自分に向けられてると思わんでいい ここに投下した時点で「自分」は誰でもない「増田」になるんだよ ここは自我を投げ捨てて増田になったものが集う場 そう思えばどんな言葉も怖くないだろ それでも抵抗があるなら 「増田」の文章にはその時投稿した時点の自分が反映されているかもしれないが 自分ってのは刻々変化していくもの 過去の増田なんてのはもう本当に誰でもないんだよ しかも増田では書いてる方も反応する方も誰だか分からず内容の虚実すら定かじゃない もしかしたらずっと同じ人がずっと対話風の独り言を連ねてるだけかもしれない そしてその想像は結構な確率で当たってたりする それくらい精神的にアレな人が多いからな だからそんな場でもらうコメントなんて本当に正面から受け取る価値も意味もない
驚いたよ。 どんな感想、考察、レビューがあったと思う? 「だが待って欲しい。やはり少年は有罪だったのではないか?」だよ。 バカか? そんなの分かりきった上で、現代的な裁判をする上で推定有罪はありえないという話だろ。 「疑わしきは罰せず」 「コレは賭けになる」 劇中で散々こういったフレーズで語られているのに、それが理解できないのか? 凄い……感動的だ……本当にすごい映画だ。 この感想を持って完成なんだ……。 劇中に登場しない13人目の陪審員がひょっこり現実世界からやってきて「だが待ってくれ。もしかしたら本当に少年が犯人かも知れないだろ?じゃあ念のため殺しちまおうぜ!推定無罪の原則?知ったこっちゃねえよ!」と抜かした所で、作品が完成するんだ。 劇中の人間はなんだかんだで最低限頭がいいっていうか……証拠があって事実があって推理があってそれがひっくり返る話についていけて、そして大前提に推定無罪の原
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