平安末期に京都を襲った大地震で起きたとみられる土砂崩れの跡を京都大防災研究所の釜井俊孝教授(応用地質学)らが京都・滋賀の東山で見つけた。地震の惨状は「方丈記」や「平家物語」などに描かれ、今回は記述を具体的に裏付ける珍しい発見。東山一帯の山林はその後荒廃し、マツタケがはえるアカマツなどの植生にも影響したようだ。 この地震は、壇ノ浦で平家が滅んで間もない1185(元暦2)年に起き、京都を中心に大きな被害が出た。規模は推定マグニチュード7・4。琵琶湖西岸の活断層の一部が動いたと見られている。 当時京都で暮らしていた鴨長明(1155~1216)は「山は崩れて、川を埋め」「地が動き、家が壊れる音は雷と同じだ」と方丈記で描写。方丈記では大火事や飢餓などの災厄を取り上げ、人の営みを川面の泡のようだと無常観をつづっているが、地震こそ最も恐れなければならないものだと指摘した。平家物語も「大地さけて水わき出(
現代火山学から見た『宮下文書』噴火記述の信憑性 小山真人(静岡大学教育学部総合科学教室) 1.はじめに 富士山には,かつて歴史時代の3大噴火として数えられた噴火がある.それらは古い順に,延暦19~21年(西暦800~802年),貞観6年(864年),宝永4年(1707年)の噴火である. このうち宝永噴火は富士山南東山腹で起きた大規模かつ爆発的な噴火であり,多数の目撃記録が現存する.貞観噴火では,北西斜面で流出した大量の溶岩(青木ヶ原溶岩)が当時あった湖を埋めた結果,現在の富士五湖のうちの3湖(本栖湖,精進湖,西湖)が現在の形となった経緯が詳しく調査されている.宝永噴火と貞観噴火は,噴出したマグマ量も詳しく推定されており,歴史時代において文字通り1,2を争う規模の噴火であったことに間違いはない.ところが,3つめの延暦噴火だけは,火口位置,噴火推移,噴火規模などの詳細がほとんどわかっていなかっ
地質年代表について この地質年代表は,Ogg et al. (2016) の地質年代表に基づいており, 概ね Gradstein et al. (2012) を踏襲しています。 国際層序委員会(ICS)による2016年12月版の 地質年代表(v. 2016/12) とは一部異なります。年代推定の誤差などを含む詳細は原典を参照して下さい。 この表では地質年代区分(geochronologic classification),すなわち地層が堆積した年代の区分を示しています。 一方,各年代に堆積した地層の区分は年代層序区分(chronostratigraphic classification)と呼ばれ, 基本的には地質年代区分と同様の名称で呼ばれますが,累代,代,紀,世,期の代わりに累界(eonothem),界(erathem), 系(system),統(series),階(stage)の階級が
■徳川家康が秀吉に命じられて江戸に入った時は、現在の東京駅と皇居の間には「日比谷入江」が東京湾から入り込んでいました。東京大学がある本郷台地は南に伸びて東京湾に突きだして半島のような「江戸前島」を形成していました。江戸前島の南端付近に現在の新橋があり、北に向かって有楽町、東京、神田、お茶の水と立地していきました。 ■神田川の原型は「平川」だというのが通説です。「平川」は日比谷入江に注いでいました。 ★カーソルを、地図の上や外に動かすと地図が変化します。 ★現在の主な町の位置を赤丸で示しています。 ■カーソルが地図の外にある時の地図は1590年までの江戸の地形です。 平川、小石川、旧石神井川が南流して東京湾に注いでいました。 ■カーソルが地図の上にある時の地図は1620年頃の江戸の地図です。 日比谷入江が埋め立てられ、江戸城の堀割も完成に近づいています。 また、平川、小石川、旧石神井川が東流
緯度角()に対応する弧が子午線弧。 子午線弧(しごせんこ、Meridian arc)とは、測地学において地球表面または地球楕円体に沿った子午線(経線)の弧を指す。子午線は楕円弧で南北方向に延びる測地線となる。 天文学において、2地点の天文緯度測定と子午線弧の長さとを結合することで地球の円周・半径を決定した。その始まりは、紀元前3世紀のエジプトのエラトステネスで、地球が球体であることを定量的に示した。 緯度差1分に相当する子午線弧長は、海里の定義にも参考にされた。 エラトステネスによる子午線弧長の推定[編集] アレクサンドリアの科学者エラトステネスによる測定は、地球の大円周長を計算した最初であった。彼は、夏至の正午において、太陽が古代エジプトの都市シエネ(現在のアスワン)で天頂を通過するということを知っていた。一方で、彼は自身の測定結果から、彼の居住地であるアレクサンドリアで、同時刻の太陽天
解説 地球の形(かたち) 地球が丸いということは、ギリシャのピタゴラス(Pythagoras BC582~BC496)やアリストテレス(Aristoteles BC384~BC322)によって提唱されたようです。「地球」という語句は17世紀はじめに布教のため、中国を訪れたイタリア人イエズス会士マテオ・リッチ(Matteo Ricci 1552~1610、中国名は利瑪竇)による造語といわれています。リッチは、いきなり神を説くよりも西洋の学問を広めることに尽力し、多くの学者が育ち新語も創出されました。たとえば、中国のキリスト教徒で官僚であった徐光啓(じょ・こうけい 1562~1633)はリッチからユークリッドの幾何学を学び"Geometry"を「幾何」と訳しました。もともと日本では地球を単に「地」または「地毬」(ちきゅう)と書かれていましたが、江戸時代後期に「地球」になったようです。地球という
平野、河川、海岸といった地形は昔から変わらずそこにあると考えられがちだが、実は人が歴史的に形成してきたものが多い。大規模開発が始まる江戸以前の日本の海岸近くの風景は現在とはまったく異なり、水と陸の混じり合うラグーン(潟)が全国各地に広がっていた。 全国各地にあったラグーン 江戸時代の絵師、歌川広重の絵には、静岡県の富士山の南麓にかつてあった浮島沼が描かれている。「東海道名所記」や「東海道中膝栗毛」には、うなぎの焼き売りが名物という記述がある。鎌倉時代の紀行文にも、東西に長い美しい沼で、アシを刈る船があちこちに浮かぶ光景が記録されている。(図1) 江戸初期から小規模な新田開発が進められた結果、沼の水面はだんだん狭くなっていった。浅い沼だから少しずつ堆積が進んでいったようだ。自然な堆積によって陸地化した場所を耕地にする「切添型(きりぞえがた)」と呼ばれる手法で開発が進められた。 新田の排水に課
グリニッジ子午線の基準になっている、グリニッジ天文台旧本館の窓。窓の中央の線がグリニッジ子午線である。 グリニッジ天文台にあるグリニッジ平均時を表す時計 グリニッジ標準時(グリニッジひょうじゅんじ)、グリニッジ平均時(グリニッジへいきんじ、イギリス英語: Greenwich Mean Time, GMT)とは[注釈 1]、グリニッジ天文台・グリニッジ子午線(経度0度)における平均太陽時(mean solar time)を指す。 かつてグリニッジ平均時は国際的な基準時刻として採用され、イギリスを含む世界各地域の標準時(standard time)もこれを基準とした。なお現在の国際的な基準時刻は概念を修正した協定世界時 (UTC) を用いている[注釈 2]。 こうした事情からUTCとGMTが近似的に同一視される事もある。 用語“G.M.T.”および“Z”(通話表で使用する語は Zulu)は、航
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