関西電力で政界工作を長年担った内藤千百里(ちもり)・元副社長(91)が朝日新聞の取材に応じ、少なくとも1972年から18年間、在任中の歴代首相7人に「盆暮れに1千万円ずつ献金してきた」と証言した。政界全体に配った資金は年間数億円に上ったという。原発政策の推進や電力会社の発展が目的で、「原資はすべて電気料金だった」と語った。多額の電力マネーを政権中枢に流し込んできた歴史を当事者が実名で明らかにした。 内藤氏が献金したと証言した7人は、田中角栄、三木武夫、福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘、竹下登の各元首相(中曽根氏以外は故人)。 内藤氏は47年に京大経済学部を卒業し、関電前身の関西配電に入社。62年に芦原(あしはら)義重社長(故人)の秘書になり、政財界とのパイプ役を約30年間務めた。関電の原発依存度は震災前は5割を超え業界でも高く、原発導入を円滑に進めるには政界工作が重要だったという。
ウランの核分裂は1938年末にドイツで発見された。その直後に起こった第二次世界大戦中にナチスが原爆を開発するのではないか、という恐怖感が米英の連合国に強かった。それが米国の原爆開発の誘因になったことはよく知られている。ドイツが原爆を開発するとなれば、その中心人物とみられたのは、量子力学の建設者で、不確定原理を提唱した理論物理学者のハイゼンベルク(1901~76年)だった。ハイゼンベルクらはドイツ南西部の山あいの美しい町、ハイガーロッホの丘にある教会の地下洞窟に重水炉を建設し、終戦直前の45年2月末に実験したが、核分裂の連鎖反応が持続する臨界に達しなかった。 この原子炉は、ナチスの降伏直前に米国が送り込んだアルソス特殊部隊によって45年4月に、近くの畑に埋められていたのを接収され、徹底的に調べられた。現在は、再現された炉心が現地の博物館で公開されている。その構造を基に計算したところ、「原子炉
1993年12月16日に元首相・田中角栄が75歳で亡くなってから、きょうでちょうど20年が経つ。この年の夏の総選挙では自民党が議席を大きく減らしたのに対し、新生党や日本新党といった新勢力が躍進、選挙後には8つの党会派が組んで、細川護熙(日本新党)を首相とする非自民連立政権が発足していた。 そういえば、私の通っていた高校の二学期の終業式で、校長が「新政権が発足したのと入れ替わるように、旧時代の遺物である田中角栄が亡くなり……」みたいなことを話していたのを思い出す。それを聞いて私は、「何言ってやがる、細川護熙も新生党の羽田孜も小沢一郎も、みんな元はといえば田中派じゃねえか」とツッコミを入れたものである。心のなかで。 この20年のうちに、田中派の流れを汲む自民党の平成研究会は、かつて党内最大派閥だったことが信じられないほど縮小するとともに、田中の愛弟子である小沢一郎が自民党を飛び出して進めた政界
アメリカはタリバン復権を後押しし、アフガニスタンの民意もそれを支えた 民主化が失敗した理由は何か。これからどうなるのか【アフガン報告】6回続きの(3)
【逸見那由子】東京電力福島第一原発事故の被災者が、集団で広島県神石高原町(じんせきこうげんちょう)に移住する構想が持ち上がっている。福島の旧相馬中村藩主家34代当主・相馬行胤(みちたね)さん(38)と神石高原町の牧野雄光町長が11日に町役場で記者会見し、明らかにした。20〜30家族が関心を寄せ、早ければ夏にも移住が始まるという。 相馬さんは父親の代から北海道に移り住んだが、先祖の故郷・福島県相馬市でシイタケ農園を開くなどして、北海道と福島を行き来してきた。 避難生活を送る人たちから「仕事がない」「放射能が心配」という声を聞いた相馬さんは、約1年前から集団移住を検討。昨秋、被災地支援に取り組むNPO法人「ピースウィンズ・ジャパン」(東京都)の代表理事で神石高原町に住む大西健丞(けんすけ)さんの勧めで町を訪ね、先月には妻と3人の子どもと一緒に町に引っ越した。相馬さんの知り合い家族が後に続く
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