写っているのは、雨雲にしては、形が整いすぎた四角い影。 投稿には「上空にUFO的な何かが来てますね」「神様が落としたスマホでは」「PEZ(ペッツ)か?」「人類を超越した科学力を持った何かが雨雲とともに移動している……!(ラピュタ的な)」とコメントも騒然とし、「いいね」は8万件以上になりました。 え…何? この長方形な雨雲は? 何かのバグかな思ったけど全ての雨雲レーダーで同じだ🤔 pic.twitter.com/h6LVevhIDs — gari@TKC (@gari09tr) July 4, 2022 「捏造と思われるかも」 九州地方在住の「gari@TKC」さん( @gari09tr )は、ツーリングが趣味でもあり、日頃から「雨雲には敏感」。雨雲レーダーや天気予報は身近な存在でした。 でも、偶然目を留めた、これまで見たことがない「長方形の雨雲」には、「え……何?」。 別の天気予報の雨雲
梅雨明け間もない酷暑の昼下がり。 東京都内にある自宅を訪ねると、電動車椅子に乗った谷垣本人が、グリーンのサイクルウェア姿で現れた。右手でジョイスティックレバーを操縦し、自在に動き回る。事故の後遺症で、下肢は動かしづらい。手にもまひがあるというが、表情ははつらつとしており、実年齢よりもずいぶん若々しく見えた。 障害者になって、丸6年。家族と訪問介護ヘルパーに助けられながら日々を過ごす。脊髄損傷専門のトレーニングジムと病院に通い、リハビリをすることが生活の中心だ。 「自分の足で歩くことが一つの目標。一進一退ですけど、ただでさえ人間80歳を過ぎれば、寝たきりなんてこといくらでもあるでしょう。私は今、77歳ですから、日々、己に鞭を打っていないと、まったく歩けなくなってしまうと思うんです。人間の体というのは、自分でもどうなるのか分からないところがあるんですけど、今は脳から筋肉へ神経系統が適切に送れな
年内で芸能活動を終了する意向であることが分かったシンガー・ソングライターの吉田拓郎(76)が、デザイナーでタレントの篠原ともえ(43)がMCを務める25日放送のTokyo FM「東京プラネタリー☆カフェ」にゲスト出演し、初対面の時の印象が最悪だったと明かした。 【写真】ラジオのゲストに来た吉田拓郎と篠原ともえ(インスタから) 2人は96年10月から01年3月まで約4年半レギュラー放送されたフジテレビ系「LOVE LOVE あいしてる」で共演。だが吉田にとって、当時、個性的ファッションで「シノラー」として人気を博していた17歳の篠原との共演は「番組を早く終わりたいと思っていた。嫌でした」と話した。 篠原が「あいさつに行ったときには帰っちゃってね」と語ると、吉田は「僕は君が苦手だった。ちょうど50歳になる頃だったんですよ。当時ね、若い人があの頃大嫌いで。そこに持ってきてKinKi Kidsや篠
山下達郎は今年、69歳を迎えた。1975年、シュガー・ベイブの中心メンバーとしてデビューし、翌年にソロシンガーとしてスタート。半世紀近く経った今も新作を世に送り出し、ライブツアーで全国を回る。「制作方針は、風化しない音楽」と語る通り、代表作の「クリスマス・イブ」をはじめ、多くの曲が時代を超えて愛されている。青春時代の苦労、自身の音楽表現、夢を追う若い世代への思い。歩みを振り返りながら、存分に語ってもらった。(文中敬称略/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部) 「僕らの世代は、日本のロックミュージックの黎明期で、『DON'T TRUST OVER THIRTY』の時代だったことも相まって、30歳から先のロックシンガーの展望なんて全くなかった。僕に限らず将来に関してはみんな探りながら悩みながら、何とか30代40代と、がんばってくぐり抜けてきたんですけど、でもまさか70近くになって、現役
Ke Huy Quan arrives at the premiere of 'Everything Everywhere All At Once' at The Theatre at Ace Hotel on March 23, 2022 in Los Angeles.Jerod Harris / FilmMagic Let’s begin by completely shattering any illusion of journalistic objectivity: I am obsessed with Everything Everywhere All at Once. I demand that you see Everything Everywhere All at Once in theaters as soon as physically possible. Like,
丸山 恩師の愛を感じますね。いやあ、コーチだった父を思い出すなあ。 村田 ずっとお父様がコーチを? 丸山 亡くなるまで心の師でしたね。アメリカでコーチングを学んだ大学の同級生に、助言を求めることもありましたが、最終的に整備をしてもらいたいコックピットは父。優勝するときは決まって、父のアドバイスに従ったときでした。 村田 素敵なお父様ですね。 丸山 アメリカでプレーした9年間も、試合が終わればすぐ日本に国際電話。父はネットで試合を追いかけて、流れを把握した上で僕に助言してくれました。 村田 お父様の存在がプレッシャーになったことは? 丸山 全くありませんでしたね。怒られたことは一度もなかったし。父は頭が切れてヤンチャで、怒らせるとめっぽう怖い。地元でも恐れられていましたね。地元の不良達に対しても、「近所迷惑だ!」という具合でしたね。 村田 すごい! 丸山 僕が小学生の頃は、担任教師のやり方が
試合の翌日、彼は傷だらけの顔でカメラの前に現れた。 プロボクサー、村田諒太さん36歳。 4月9日、村田さんは“世紀の一戦”と言われる世界王座統一戦を戦い、そして敗れた。 実は試合の1か月半ほど前、村田さんは取材班に「勝っても負けても引退するかもしれない」と告げていた。 村田さんが勝敗を越えて探し求めていたものは何だったのか。 (クローズアップ現代取材班 岡本直史 伊藤大志) 村田さん 「試合が終わった感覚が、まだないんです。けさ起きた瞬間、まだ試合があると思ったんです。それで『負けたんだ、君は』と自分に言い聞かせて、試合がないことにホッとしました。 昨日の究極的にしんどいイメージが沸き上がってきて、それからはもう解放されたんだと。そんな朝は、今回が初めてでした」
著者: 古井由吉 , 蓮實重彦 先日亡くなった古井由吉さんは、『辻』単行本刊行時に、蓮實重彦さんと「新潮」2006年3月号にて対談をしました。時代をリードしてきた同い年の小説家と批評家でありながら、お二人の対談はこの一度きりです。古井さんの追悼特集を組んだ「新潮」2020年5月号の蓮實重彦さんの追悼文にも、この対談の話が出てきます。対談を構成したのは私なのですが、緊張感と文学的高揚感のあふれるお二人の対話の場に立ち会えた記憶は、一生消えそうにありません。今回、古井さんご遺族と蓮實重彦さんのご厚意により、「新潮」掲載版の対談を復刻掲載いたします。(編集長 松村正樹) 古井 蓮實さんとは初めての対談になりますが、大学では同級生ですね。 蓮實 そう。東大では駒場の二年間同じクラスだったわけだし、立教大学では紛争中に教員として同僚だった。 古井 そうなんですよ。 蓮實 これも二年一緒でした。二人が
こんにちは。平凡です。 紙媒体を中心として、商業ライターをやっております。 ライターを日々悩ませる文字起こし! ライター以外でも、議事録作成だるいよ~となっている人も多いであろう文字起こし! 皆さんどうしていますか? わたしは最近、AI文字起こしを使っています。自動で音声データを文字にしてくれるサービスですね。 今日はわたしが使った範囲での雑感を記していこうと思います。 使い方が偏っているのですが、どなたかの参考になれば。 感想とあわせて、各サービスの使用時期も書いておきます。なぜなら、AI文字起こしは日進月歩。データの蓄積で、より自然な起こしが可能になっている可能性があるからです。 利用したサービス それぞれ、精度はどうですか? AI文字起こしの精度はそもそも音源に左右されがち AI文字起こしだから修正がやりやすい部分、やりづらい部分 AI文字起こしで気をつけたいこと とはいえ便利です、
現代を代表するアーティストの一人であるブライアン・イーノ。彼はいま、暗号資産関連の技術が単に“金儲けのソリューション”になっている点を厳しく批判する。2021年に暗号技術の専門メディア「クリプト・シラバス」を立ち上げたIT評論家エフゲニー・モロゾフが、イーノが懸念することを尋ねた──。 かつて「世紀の放尿」をやってのけた男 ブライアン・イーノは、アンビエント・ミュージックという音楽ジャンルを作りだしただけでなく、この40年間で数々の名盤にプロデューサーとして関わってきた。サウンドやビデオ、デジタルアートを使った作品制作にも取り組み、代表作の一つである「7700万絵画」などは、そこからおびただしい量の楽曲が生成される点から言ってもNFTの対極に位置するといえる。 イーノはかつてマルセル・デュシャンの有名なあの小便器(註:「泉」という名のアート作品)に小便をしてみたという逸話の持ち主でもある。
つじあやのが描く、ありのままの女性として生きること 妻、母、アーティスト……様々な経験がもたらした“出会い” 「頑張ろうって言うより、誰かとわかり合えることが救いになる」 ーー「にじ」は子育て中の母としての感情ですよね。 つじ:そうですね。子供は今、成長過程で、自分と同じように試練が待っていたりする。小さいけれど、簡単な試練は日々あって。例えば、友達がおもちゃを貸してくれないとか、着替えができないとか。そういう姿を見守っていこうという気持ちは大事だなと思って書いた曲ですね。癒されるし可愛いけど、それだけじゃなくて、怒ったり叱ったりすることもある。そういった全部を含めて、宝物のように大切だなと感じて。それも新たなに生まれた感情なので、これは絶対に歌にしたいなと思って作りました。 ーー子育ての経験を歌にすることには抵抗はなかったですか。家族やプライベートを完全に切り離してるアーティストさんもい
2021年、日本サッカー界最大のジャイアントキリングは、天皇杯2回戦で起きた“おこしやすの奇跡”だった。関西1部リーグ所属のおこしやす京都ACが、J1の強豪サンフレッチェ広島を5対1で破ったのだ。その舞台裏には、「まともにボールを蹴ったことがない」と語るサッカー未経験の分析官がいた。(全2回の1回目/後編へ) 学生時代、部活に所属していなかった“サッカー店長”こと龍岡歩は、サッカーを見ることに多くの時間を費やした。高校卒業後は、9年間の海外放浪を経てサッカーショップに就職。並行して書いていた戦術ブログが関係者の目に留まり、サッカー素人でありながらJ3の藤枝MYFCに分析官として加入することなる。その後、おこしやす京都ACに活躍の場を移した龍岡は、先述したジャイアントキリングの当事者となった。 「試合前に『この試合勝てるよ』って言ったら、チームのみんなに笑われました(笑)。監督ですら10回に
<どうしても子供が欲しかった40代の男女が選んだ新しい「家族の形」。僕と彼女は恋愛抜きで、生まれてくる子供の親になる> 僕はずっと子供が欲しかった。まだ10歳にもならない頃からだ。小さな頭でそんなことを考えるようになったのは、たぶんイギリスのケンブリッジで幸せな子供時代を過ごし、両親から家族の素晴らしさを教わったから。そして僕が昔から子供好きだからだろう。 最後に恋人がいたのは数年前。真剣に交際し、初めて本気で結婚を考えたが、残念ながら1年で破局した。 未来は僕が思い描いていたものとは違っていたが、女友達からは幾度となく、男性はいつでも欲しいときに子供を持てるから大丈夫、と言われた。女性の場合、年齢的に妊娠・出産のタイムリミットがあるのは分かるが、男の僕でもいつでも子供が持てるとは思えない。 女友達のリンジーとは7年前の夏に友人宅での持ち寄りディナーで知り合い、友情を育んできた。似たところ
山本“KID”徳郁(のりふみ)が旅立ってから、早や3年。「神の子」と呼ばれたKIDは、正真正銘のスーパースターであり、日本を代表する格闘家だった。彼がリング上で発するエネルギーとオーラは唯一無二のもので、その佇まい、躍動感は、見るもの全てを虜にした。私もそんなKIDに魅了された一人である。彼の試合はどれも鮮明に覚えている。その中でも忘れられないのは、2006年5月の宮田和幸を4秒でKOした試合だ。試合後、私は他のカメラマンや大会関係者から、「よくあの瞬間を撮れたなぁ~」と驚かれた。だが、私は撮れたのではない、確信をもって撮ったのだ。 試合当日、言い表せない「何か」が違った KIDは青コーナーで試合をすることが多かった。通常の試合、格上や王者の場合は赤コーナーと決まっている。しかし、彼は「挑戦者の気持ちでいたい」との理由で、対戦相手の入場をリング上で待つ、青コーナーを好んだ。私は対戦相手の入
パラリンピックは社会を変える。そんなパラリンピックの力を信じて突き進んできた一人のスイマーが引退を決意した。 リオパラリンピック日本代表の一ノ瀬メイ。24歳。京都で生まれ、1歳半から障がい者スポーツセンターで水泳を始め、9歳から本格的に競技を開始。比較的障がいクラスの軽いS9クラスで数々の日本記録を打ち立て、アジアパラ競技大会、世界選手権などの日本代表としても活躍。2019年からオーストラリアに拠点を移してトレーニングに励んだが、東京パラリンピックは出場権を逃していた。 【過去のインタビュー記事】一ノ瀬メイ・武者修行先のオーストラリアで思い巡らすスイマーとしての存在価値 一ノ瀬は10月29日、引退会見を開き、「水泳でできることはやりつくした。今、パラリンピックを目指し始めた9歳の頃の自分が想像もできないような景色を見ることができている。感謝で胸がいっぱいです」とあいさつした。 10月末で所
ピアニストで音楽評論家の下田幸二さん。1990年から毎回、このコンクールを現地で聴いています。 反田恭平さん(27)と小林愛実さん(26)が通った「桐朋女子高等学校」の音楽科(東京・調布市)では講師を務めていて、2人の高校時代にも、ショパンの音楽や演奏法を教えていました。 世界のピアニストのトップに立った2人、当時はどんな生徒だったのでしょうか。 下田さんに聞くと、笑いながら当時を振り返ってくれました。 下田幸二さん 「反田くんって、小林さんもそうだったけど、クラスの中でも”とんでもないような感じの子”だったんですよ。 その学年はとても上手な生徒が多くて、日本音楽コンクールの入賞者が20人中6人くらいいたのかな。その中でも反田くんは、『先生の言ってることそんな興味ないよ』って顔をしていて、授業中も全然話を聞いてないようなふりをしてるんですね。で、いざ演奏を指名されると『いや~、全然弾けませ
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