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テロルに関するggg123のブックマーク (2)

  • 赤木論文から絶望を検知するソフトは民主主義の敵 - 雑種路線でいこう

    けれど赤木さんはテロを予告していないし、essaさんと会っても襲わないだろう。それが象徴としての赤木さんであったとしても、たぶん襲わない。赤木論文はその点でエキセントリックだし、極めて論壇的なブラフである気もする。それが悪いとは思わないし、論壇そのものが団塊世代的で、赤木論文がその中で如何に受容・消費されてきたか、ということは、もう少し考える必要がある。 自分は救いを得られることがないと絶望した人間を救うには、彼を「検知」するより、彼が救われるような場なり手段なりを用意した方がいい。そうすれば、加藤は自分から名乗り出てくるだろう。 加藤を救うことは困難である。それはよくわかる。でも困難だからまず加藤を「検知」するソフトを作れという話なのだろうか。 (略) そんなソフトがもし当にできたとしたら、まず、この書き込みをテストデータとして入力してみたい。 「丸山眞男」をひっぱたきたい これだけ深

    赤木論文から絶望を検知するソフトは民主主義の敵 - 雑種路線でいこう
  • 坂のある非風景 ジジェク・ノート #7

    だから、おそらく、平和と幸福のためには「不自由であることを明らかにするための言語」をいかにして失うかという技術が蓄積される必要があった。自由だと感じる実感は、決定的な不自由の中でその不自由についての感覚を麻痺させるときにしか存在できない。 麻痺というよりも忘我だろうか。仕事に集中するときの忘我、恋人とのエロティックな忘我、何もすることのないときに取り留めのない物思いにふけるぼんやりとした忘我。 忘我は、そこから、一瞬にしてどのようなシフトも可能な、ひとつの空無のように見える。聖パウロ的設問「今日、誰が当に生きているのか」に答えるためにはそのシフトについて考える必要があるだろう。忘我は生それ自体を喪うことではないのか、という問いである。 極論だが、パレスチナ人の自爆攻撃が、自分自身(や他の人びと)を吹き飛ばす点において、何百マイルも離れた敵に対してコンピュータ・スクリーンの前に座って参戦し

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