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吉本隆明と本居宣長に関するggg123のブックマーク (3)

  • 知識的なこのや、年齢的なこともあるけど、まだ私にはその実感はわからないのかもしれない。 - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)

    小林秀雄が真正面から居宣長を語り、山七平が小林を語るときに、居論にあえて踏み込まず、橋治はたくみに迂回し、吉隆明は忌避した。語り、踏み込まず、迂回し、忌避するにしても、日語という言語で何かを語るとき、その中心には居がいる。その関係性について、極東ブログ「[書評]小林秀雄の恵み(橋治)」でfinalventさんは書かれています。それは、極東ブログ「[書評]反哲学入門(木田元)」の後段の後期ハイデガーと居についてのつながりについての続編として、私は読みました。 後期ハイデガー問題は、私の理解だと、ゲルマン民族のアイデンティティと哲学のかかわりの中での悲劇でしょうし、小林の居論は、finalventさん曰く「戦後の世界のなかで、昭和という悲劇が殺傷せしめた日人の鎮魂と再生の祈念」として書かれたものなのでしょう。ハイデガーは、仏教などの東洋哲学の影響が言われていたりします。そ

    知識的なこのや、年齢的なこともあるけど、まだ私にはその実感はわからないのかもしれない。 - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)
    ggg123
    ggg123 2008/02/23
    日本人であることの質感みたいのって、外国の人からしか(あるいは外国で長く生活した人とか)見えないものなのかな?それとも意識してないからわからないというか、そのあたり決定的に欠けてるのかな。
  • 存在が先か、言葉が先か。 - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)

    人間は、そうそうわかりあえるものではない。そんな、ちょっと悲観的な前提に立ってものごとを考えると、コミュニケーションというものの質が見えてくるように思います。私と君は同じだね、という共感ではなく、これだけ共感をわかちあいつつ、やっぱり私と君は違うという、お互いが非対称な関係であるという冷徹な認識のほうが、人間というものの質を正直に言い表しているように思います。存在の質は、その非対称性にある。そんなテーゼは、さみしいテーゼだけれど、なぜ人間はコミュニケートするのかという答えを導きだすには不可欠なもののように思います。 前回のエントリ(参照)でも最後のほうに書いたけれど、そんなコミュニケーションの不可能性を前提にしながら、なお命懸けでもってコミュニケートしようとする人間というものの不可思議さと滑稽さは、コミュニケーションを生半可にかかげ、生業にしている私にそのまま跳ね返ってくるように思い

    存在が先か、言葉が先か。 - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)
  • [書評]小林秀雄の恵み(橋本治): 極東ブログ

    治は直感から質をさらっと言ってのける頭の良さをもった人で、その直感から言い切りまでのプロセスを文章にするため冗長な印象もあるが、出てきた表明はコピーライティングのようにわかりやすいし、白黒つけやすい明快さがある。小林秀雄も直感から表出のプロセスを迂回して語る癖があり、表出も短く刈り込まれているため「人生の鍛錬 小林秀雄の言葉」(参照)のように断片的に理解しやすいところがある。だがそんなものは無意味で、依然小林秀雄の文学の全体を読めばその表明は白黒つけがたく明晰さには迷路の複雑さがある。体力というのでもないのだが思念の持久力のようなものがないととても読み切れない。 思念の持久力というものがどのようなのかというのは、「極東ブログ: [書評]小林秀雄の流儀(山七平)」(参照)で触れた山の論考が参考になるだろう。小林がどれほど聖書を読み抜き、パウロを心に秘めていたか、そこを読み解くことの

    ggg123
    ggg123 2008/02/23
    うたのこころみたいのって、日本人というか日本語使いにしかわからない。その総体みたいなのが宗教的な・・あらかじめ共有されている宗教というか「よきもの」なんだろうな。魂というか。
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