小林秀雄が真正面から本居宣長を語り、山本七平が小林を語るときに、本居論にあえて踏み込まず、橋本治はたくみに迂回し、吉本隆明は忌避した。語り、踏み込まず、迂回し、忌避するにしても、日本語という言語で何かを語るとき、その中心には本居がいる。その関係性について、極東ブログ「[書評]小林秀雄の恵み(橋本治)」でfinalventさんは書かれています。それは、極東ブログ「[書評]反哲学入門(木田元)」の後段の後期ハイデガーと本居についてのつながりについての続編として、私は読みました。 後期ハイデガー問題は、私の理解だと、ゲルマン民族のアイデンティティと哲学のかかわりの中での悲劇でしょうし、小林の本居論は、finalventさん曰く「戦後の世界のなかで、昭和という悲劇が殺傷せしめた日本人の鎮魂と再生の祈念」として書かれたものなのでしょう。ハイデガーは、仏教などの東洋哲学の影響が言われていたりします。そ