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吉本隆明とmb101boldさんに関するggg123のブックマーク (4)

  • 筋とか仁義とか - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)

    仁義なき戦いじゃないけれど、すべては、筋とか仁義とかなんじゃないか。そんなことを考えた。合っているか間違っているかはわからないけれど。 気になったので、吉隆明さんのかつての論争を読み直してみると、みごとに吉さん、筋が通らないことを怒っている。大切な人に対して仁義を通そうと、必死になっている。それを下品だという人もいるみたいだけど。福田和也さんが、左翼のあの下品さが嫌なんだと言っていた。左翼、右翼というのはわからないけど、あの吉さんの下品さからは、そんな筋とか仁義を守ろうとする凄みは感じる。 確かに罵倒はあるけど、そこには嘲笑はない。私は、吉さんのそんな風情を、まるで高倉健さんのようだ、なんてことは言わない。そんなに美しいものでもないし。だけど、なぜあそこまで反論し、論駁しようとするのかは、なんとなく分かる気がする。 吉さんの概念では、対幻想がいまいち分からなかった。国家を代表とす

    筋とか仁義とか - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)
  • 現代思想「吉本隆明 肯定の思想」がすごく面白いです。 - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)

    冒頭の67ページにわたるロング・インタビュー(聞き手:高橋順一)だけでも読む価値があると思います。私は吉フォロアですので、たいがいの新刊は買って読むのですが、基的には同じことの繰り返しだったりします。それが悪いかと言えば、吉さんの場合そうではなくて、この人は大切なことは何度でも言うタイプなので、それはそれで面白いのですが、今回のインタビューは違います。 なんか、生々しいんですよね。全学連の同伴者知識人として「一兵卒」として安保闘争に関わっていた頃のこと、丸山眞男、花田清輝、埴谷雄高といった進歩主義的知識人のこと、なぜ吉さんが「転向論」を書いたのか、そんなこんなが、今だから言いますが的な言葉で語られていきます。 有名な論争に、80年代の吉・埴谷論争というものがあります。吉さんが、川久保玲さんのファッションブランド「コム・デ・ギャルソン」のモデルになって、ファッション雑誌に登場し

    現代思想「吉本隆明 肯定の思想」がすごく面白いです。 - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)
    ggg123
    ggg123 2008/08/21
    買うです。
  • 知識的なこのや、年齢的なこともあるけど、まだ私にはその実感はわからないのかもしれない。 - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)

    小林秀雄が真正面から居宣長を語り、山七平が小林を語るときに、居論にあえて踏み込まず、橋治はたくみに迂回し、吉隆明は忌避した。語り、踏み込まず、迂回し、忌避するにしても、日語という言語で何かを語るとき、その中心には居がいる。その関係性について、極東ブログ「[書評]小林秀雄の恵み(橋治)」でfinalventさんは書かれています。それは、極東ブログ「[書評]反哲学入門(木田元)」の後段の後期ハイデガーと居についてのつながりについての続編として、私は読みました。 後期ハイデガー問題は、私の理解だと、ゲルマン民族のアイデンティティと哲学のかかわりの中での悲劇でしょうし、小林の居論は、finalventさん曰く「戦後の世界のなかで、昭和という悲劇が殺傷せしめた日人の鎮魂と再生の祈念」として書かれたものなのでしょう。ハイデガーは、仏教などの東洋哲学の影響が言われていたりします。そ

    知識的なこのや、年齢的なこともあるけど、まだ私にはその実感はわからないのかもしれない。 - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)
    ggg123
    ggg123 2008/02/23
    日本人であることの質感みたいのって、外国の人からしか(あるいは外国で長く生活した人とか)見えないものなのかな?それとも意識してないからわからないというか、そのあたり決定的に欠けてるのかな。
  • 存在が先か、言葉が先か。 - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)

    人間は、そうそうわかりあえるものではない。そんな、ちょっと悲観的な前提に立ってものごとを考えると、コミュニケーションというものの質が見えてくるように思います。私と君は同じだね、という共感ではなく、これだけ共感をわかちあいつつ、やっぱり私と君は違うという、お互いが非対称な関係であるという冷徹な認識のほうが、人間というものの質を正直に言い表しているように思います。存在の質は、その非対称性にある。そんなテーゼは、さみしいテーゼだけれど、なぜ人間はコミュニケートするのかという答えを導きだすには不可欠なもののように思います。 前回のエントリ(参照)でも最後のほうに書いたけれど、そんなコミュニケーションの不可能性を前提にしながら、なお命懸けでもってコミュニケートしようとする人間というものの不可思議さと滑稽さは、コミュニケーションを生半可にかかげ、生業にしている私にそのまま跳ね返ってくるように思い

    存在が先か、言葉が先か。 - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)
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