一 書状 1 明智光秀書状(細川兵部太輔・飯川肥後守・曽我兵庫頭宛) (永禄十三年)卯月廿日 2 明智光秀書状(宛先不詳) (天正五年)十一月十七日 3 細川ガラシャ消息(三宅藤兵衛宛) (年月日欠) 4 細川ガラシャの最期 (慶長五年六月十七日) 5 某書状(川越某・三宅藤兵衛・某宛) 二月八日 6 某書状(三宅藤兵衛宛) 三月八日 7 某書状(三宅藤兵衛外宛) 十一月二十三日 8 細川忠興書状(三宅藤兵衛宛) 十月二十三日 9 細川忠興書状(三宅藤兵衛宛) 正月十日 10 細川忠興書状(三宅藤兵衛宛) 十一月二十三日 11 細川忠隆書状(三宅藤兵衛宛) 九月三日 12 細川忠利書状案(三宅藤兵衛宛) (寛永九年)六月二十日 13 細川忠利書状案(三宅藤兵衛宛) (寛永十年)正月二十六日 14 細川忠利書状案(三宅藤兵衛宛) (寛永十年)三月二日 15 細川忠利書状案(三宅藤兵衛宛) (
【藤原氏秀郷流】 鎮守府将軍秀郷に始まるこの流は、天慶の乱で平将門を倒したことで数々の俵藤太伝説がある。 後裔は大きく千時流と千常流に分かれるが、千常流の後裔小山氏が直系として下野を本拠に東国の武士団として繁栄している。ほかには亘理氏、蒲生氏、足利氏、佐野氏、首藤氏、大友氏、竜造寺氏、鍋島氏、波多野氏、結城氏、皆川氏、阿曽沼氏、下河辺氏、薬師寺氏、小野寺氏、桐生氏など。 大名家では、内藤氏、田沼氏、関氏、皆川氏、鍋島氏、立花氏などが秀郷流を称する。詳細な分流派生については秀郷流分流略系を参照のこと。 (藤原秀郷流閨閥図) 【近藤氏】【安立氏】【牛養氏】【瀬古氏】【淵名氏】【沢俣氏】【桐生氏】【只上氏】 【吾妻氏】【太田氏】【成田氏】【関氏】【池田氏】 ※上記のほか【斎田氏】【荒木氏】【沢山氏】は千元の裔。 ※属流氏族は不明だが、【平林氏】【大岡氏】【黒川氏】【喜多村氏】【中村氏】【小崎氏
喜多村 政方(きたむら まさかた)は、江戸時代前期から中期にかけての弘前藩士。北村正方、津軽正方、津軽校尉とも。 生涯[編集] 天和2年(1682年)6月の父・喜多村宗則の死から2か月後の8月に出生した。宗則が藩主・信政の寵臣であったこともあり、同年11月に家督を継ぐことが認められたが、幼年過ぎるとして百人扶持に減らされた。 母は儒学者山鹿素行の娘であり、四書五経など全てを政方に叩き込んだ。その結果、政方は祖父の始めた山鹿流兵学を始め、儒学などにも精通するようになった。この間も信政はなにかと目をかけている。元禄8年(1695年)、800石を頂き、元禄15年(1702年)に手廻三番組頭。同年、江戸詰めの時に元禄赤穂事件が起こり、母方の伯父・山鹿政実(山鹿素行の嫡男)と共に、津軽政兕に従い吉良邸に駆け付け負傷者を救助している[1]。 宝永6年(1709年)3月12日、本家で父方の叔父にあたる津
栗本鋤雲 栗本 鋤雲(くりもと じょうん、文政5年3月10日(1822年5月1日)- 明治30年(1897年)3月6日)は、日本の武士(幕臣)、外交官、思想家、ジャーナリスト。 概略[編集] 名は鯤(こん)。初名は哲三、のち瑞見。通称は瀬兵衛(せへえ)といった。官位は従五位下安芸守。 幕末に外国奉行、勘定奉行、箱館奉行を歴任し、明治以後はジャーナリストとして活躍した。 経歴[編集] 幕府の典医を務めていた喜多村槐園の三男として生まれる。母は三木正啓の娘で長谷川宣以の姪[1]。長兄の喜多村直寛は幕府医学館考証派の重鎮として著名である。安積艮斎の私塾見山楼を経て、1843年(天保14年)、幕府の学問所である昌平坂学問所に入学し黌試(校試)において優秀な成績を修め褒賞を得ている。1848年(嘉永元年)、奥医師の家系である栗本氏の家督を継ぎ、奥詰医師となった。安政年間には、医学館で講書を務めており
このページの本文へ移動 国立国会図書館サーチ ログイン 設定 ヘルプ Language 日本語 (Japanese) 简体中文(Chinese) 한국어(Korean) English 文字拡大 白黒反転 検索結果に戻る - 喜多村家文書(大悲王院文書)目録 : 福岡県文化財指定 詳細情報 タイトル 喜多村家文書(大悲王院文書)目録 : 福岡県文化財指定 出版地[福岡] 出版社[三池賢一] 出版年月日等 [1984] 大きさ、容量等 19枚 ; 26cm 出版年(W3CDTF) 1984 件名(キーワード) 福岡県ー歴史ー史料ー書誌 件名(キーワード) 大悲王院(福岡県前原町) NDC(8版) 025.8 言語(ISO639-2形式) jpn : 日本語 見る・借りる 福岡県立図書館 CiNii Booksで探す 入手する 書店等で探す ブックマーク はてなブックマークに追加 Twitte
土岐氏流明智氏[編集] 摂津源氏の流れを汲む土岐氏の一族で、南北朝時代の美濃国守護土岐頼貞(土岐氏としての美濃国守護初代)の九男であった九郎長山頼基の子・明智彦九郎頼重の後裔とされる。 明智氏は室町幕府に直接仕える奉公衆を務めた。代々可児郡長山の明智城に拠ったとされており、戦国時代に斎藤道三が土岐氏を降し美濃国を掌握すると、その傘下に入り生き残りを図ることに成功する。しかし、その後の道三・義龍父子の内紛で道三に味方したため攻め滅ぼされた。ただし、一族の明智光秀が落ち延びたことで完全な滅亡だけは免れている。 明智光秀が出たことで著名となる。光秀は越前の朝倉氏に仕えたのち、朝倉氏に寄宿していた足利義秋(のち義昭に改名)を細川藤孝とともに征夷大将軍として擁立。義昭の足軽大将となると共に義昭を尾張国の織田信長に仲介、信長の家臣にもなる。光秀は信長の統一事業において活躍し、数々の功績の結果、坂本城主
【浅野川大橋→小橋・下堤町】 江戸の町年寄の一人喜多村彦右衛門は、文禄の始めまで、金沢の下堤町に住み、藩主前田利家公の信頼も厚く、金沢の町年寄役を勤め町に関する全てを任されていたといいます。父は彦次右衛門といい、生れは今の津幡町、旧七黒谷北村というところで、先祖は富樫一族に繋がる家の出だといわれています。 (今の下堤町) 当時、天下は豊臣秀吉公。前田利家公が大阪在府の頃、ご機嫌伺いに金沢の町人200人が参上したといいます。その長(おさ)喜多村彦右衛門が本陣へ馬上のまま乗り入れたのを見た徳川家康公があまりにも堂々としていたのが目にとまり、利家公に“江戸のまちづくりのために”と申し出、利家公も断り切れず約束し、彦右衛門は江戸に移ったと伝えられています。 (下堤町の看板) 江戸に徳川家康公が入城したのは、天正18年(1590)頃で、利家公が金沢のまちづくりを始めた7年も後のことになります。当時の
明智という苗字の場合・・・・・・由来として考えられるのは、美濃国恵那郡明知邑発祥、清和源氏土岐氏流と木田氏流のようです。 (光秀は土岐氏流。) しかし、苗字については、拝領したものも含まれるので、その苗字だから必ずその家系だとは限りません。例えば、「織田」という苗字に関しては、実際に織田家から賜った一族がありますが、賜ったわけですからこの家系については信長の子孫ではありません。「蒲生」という苗字に至っては、蒲生氏郷が自分の苗字を家臣にあげるのが大好きだったため、家臣に同名衆を大量生産して、前田利家にたしなめられたということもあり、蒲生氏郷の系譜ではなく、その家臣の系譜だったという人が結構います。 また、明治時代の「苗字必称義務令」以前の苗字については、自由に変えている人も多いです。 逆賊だとか関ヶ原の西軍の側の関係者の中には、江戸時代が終わってから苗字を先祖代々のものに戻した方もいるそうで
<能力> 【全国版】 登場せず 【戦国群雄伝】 登場せず 【武将風雲録】 登場せず 【覇王伝】 登場せず 【天翔記】 登場せず 【将星録】 登場せず 【烈風伝】 登場せず 【嵐世記】 政治43 采配52 智謀37 野望41 義理60(諸勢力) 【蒼天録】 登場せず 【天下創世】 登場せず 【革新】 登場せず 【天道】 登場せず <読み> きたむら やへえ <別名> <生没年> 1569〜1638(?〜1638) <列伝> 義経流の忍者。弥兵衛は実際は伊賀衆の1人。本能寺の変後、伊賀を追われ近江に隠棲。諸国を流浪した後、徳川家康に招かれて江戸に住み、商人となった。 <血縁> <雑感> 非常に判断の難しい人物。喜多村弥兵衛は2名存在し、一人は明智光秀の末子で、明智家が滅んだ後に母方の実家・喜多村家に入った弥兵衛保之。もう一人は徳川家康
来島 又兵衛(きじま またべえ)は、幕末の長州藩士である。尊皇攘夷派。遊撃隊総督。 生涯[編集] 文化14年(1817年)1月8日、長門国厚狭郡西高泊村、無給通組の下士・喜多村政倫の次男として生まれたが、天保7年(1836年)、大津郡俵山村の大組(八組)の上士・来島政常(又兵衛)の婿養子となった。天保12年(1841年)、柳川藩の大石神影流の創始者大石進に剣術を学んだ。弘化3年(1846年)、江戸に出て剣術修行に励み、武芸の達人となった。 嘉永元年(1848年)に帰国、家督を継ぐ。同年10月に手廻組に入隊後、藩世子の駕籠奉行など藩の要職を歴任した。翌嘉永2年(1851年)、養父の政常が病死したため、来島家累代の名前を継承し、来島又兵衛政久と改名した。 文久3年(1863年)、藩命により猟師を集めた狙撃隊を率いて上洛。八月十八日の政変で尊王攘夷派が追放されると萩に戻り、高杉晋作が奇兵隊を創設
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