(CNN) ウクライナを流れるドニプロ川の土手で防御施設建設を進めていた国境警備隊員が、古代ローマ時代の集落の跡を発見したことが分かった。ウクライナ国境警備隊が20日の声明で明らかにした。 国境警備隊は「深さ約1メートルの地中からアンフォラ(陶器の一種)やつぼの破片が現れ始めた」と説明している。 軍は地元の考古学者に連絡し、貴重な歴史的遺物を保存するため現地での工事を中止した。
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デジカメで山ほどの写真を撮影していると、撮影済みデータの山の中から「そういえばこんなの撮影したっけ……」というようなものが見つかったりしますが、アメリカではフットロッカーの中に入っていたブローニーのカメラから真珠湾攻撃当日の写真が見つかった、ということがあったそうです。 写真はアメリカ海軍のタグボートUSS Quapaw ATF-110(音量注意)の乗組員が撮影したものだそうで、大破して黒煙を上げる戦艦や、被害を受けた基地の様子が克明に記録されています。 詳細は以下から。 Photos stored in camera for 68 years - Pearl Harbour Bombing | Before It's News 上空を飛んでいるのは日本軍機でしょうか。 飛行場の向こうに爆弾が落ち、施設が激しく炎上。 立ち尽くす軍人たち。 かなりボロボロにやられているように見えます。 港の
第二次世界大戦中の写真と、同じ場所で最近撮影された写真を合成したロシア人の写真家Sergey Larenkov氏の作品を紹介します。 ベルリンやウィーン、モスクワやサンクトペテルブルクなどの現在の風景に過去の白黒写真がフェードインするかのように溶け込む姿は、白昼の街に第二次世界大戦の亡霊が現れたかのようです。 詳細は以下から。sergey_larenkov 2009年のベルリン・ティーガー公園に現れた、1945年のティーガー戦車。 2009年と1945年の国会議事堂。1933年のドイツ国会議事堂放火事件で炎上し、1999年に修復されました。 議事堂の階段に立つゲオルギー・ジューコフ(ソ連のドイツ占領軍の最高司令官)。 現在はドイツの国旗が掲げられていますが、1945年の4月30日(ヒトラーが自殺した日)には赤軍兵士により勝利の旗が議事堂に掲げられました。 2010年のウィーン・ホーフブルク
4 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[]:2010/05/19(水) 13:02:19.57 ID:sViwJ6eP0 少し長くなるから、先に何が起きたから軽く書いておくね。 今から20年近く前の話だから、多少忘れてたり、間違ってたりするかもしれない。 そこは許して欲しい。 先に結論というか、書いておくけど。 今から話す内容に出てくる子がどうなったか、先に書いておく。 ソニアは殺された。 サニャは爆発に巻き込まれて死んじゃった。 メルヴィナはレイプされて連れ去られた。 メフメット・カマル・ミルコはわからない。 カミーユも死んでしまった。 ドラガンって子は、裏切ったと思っていたけど、実際は違った。 それじゃ、書いてくね。わからない事あったら聞いてください。 5 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[]:2010/05/19(水) 13:04:37.75 ID:sV
【ニューヨーク=吉形祐司】第2次世界大戦中の1942年4月、フィリピン・ルソン島のバターン半島を攻略した日本軍が、米軍やフィリピン軍の捕虜を炎天下で100キロ歩かせて多数の死者を出したとされる「バターン死の行進」の写真について、配信元のAP通信は、数週間後の遺体埋葬の写真だったとして65年ぶりに写真説明を訂正した。 写真は米軍が日本軍から押収し、45年に「『バターン死の行進』で同僚の捕虜に運ばれる死傷者」との写真説明で配信された。歴史的な1枚として繰り返し使用されてきたが、ニューメキシコ州に住む生存者の元米兵が昨年8月、地元紙に掲載された写真を見て間違いを指摘。AP通信が国立公文書館の資料などと照合した結果、捕虜収容所で撮影された写真だとわかった。 AP通信は、写真説明を「『バターン死の行進』後に捕虜収容所で行われた埋葬の模様」と訂正した。通信社が、歴史的な写真について訂正を出すのは異例だ
ハンス=ウルリッヒ・ルーデル(Hans-Ulrich Rudel, 1916年7月2日 – 1982年12月18日[6])は、第二次世界大戦中のドイツ空軍の軍人(航空機操縦員、幕僚将校)。 ヨーロッパ東部戦線(独ソ戦)において、ソ連戦車500両以上と800台以上の車両を撃破する戦果を挙げた。しかもこれは確認できた戦果であり、実際には無断で出撃したり部下に戦果を譲ることがあったとされるため、正確な数は不明である。また、少なくとも9機を空中戦で撃墜しているためエース・パイロットの一人にも数えられる。これらの戦功から、騎士鉄十字章の最高位の「黄金柏葉剣付ダイヤモンド騎士鉄十字勲章」を授けられた。なお、この勲章の受章者はルーデルただ一人である。 ヨシフ・スターリンからは「ソ連人民最大の敵」と呼ばれ、フェルディナント・シェルナー陸軍元帥からは「一人で一個師団の価値がある」と評された[1]。ルーデル自
坂井 三郎(さかい さぶろう、1916年(大正5年)8月26日 - 2000年9月22日)は、日本の海軍軍人。 ポツダム進級により最終階級は海軍中尉。太平洋戦争におけるエース・パイロット。 著書『大空のサムライ』で有名。撃墜数は自称64機だが、後述のように公認撃墜数は28機である。 経歴[編集] 佐賀県佐賀郡西与賀村大字厘外1523番地(現在の佐賀市西与賀町大字厘外)で農家の三男だった父・坂井晴市と母ヒデの次男として生まれる。名前は祖父の勝三郎に由来している。坂井が5歳のときに一家は祖父の家から夜逃げ同然で出奔して貧しい生活を送った。父は小さな精米所に勤めたが、坂井が小学校6年生の1928年(昭和3年)秋、36歳で病没。残された母と6人の子供の生活は困窮した。見るに見かねた伯父が兄弟を中学に入れてやろうとして、坂井は東京に引き取られる形で上京した。坂井は新宿の府立六中を受験したが落ちて青山
NHK-BSで放映された(未見)、シリーズ戦争と平和 よみがえる第二次世界大戦~カラー化された白黒フィルム~ をネタにしたチャットでの四方山話で、次のネタがでている。 ENOKINO フランスの視点から見た第二次世界大戦というのは、第一次世界大戦からの、というか、その前の普仏戦争当たりからの流れを知らないと なるほど。では、フランスから見た第二次世界大戦を、三十年戦争までさかのぼってみよう。 フランス視点での第二次世界大戦というのは、どう見てもぱっとしない。 負け戦という点では、イタリアもそうだ。日本もドイツも最後はボロ雑巾のようになって無条件降伏だ。ドイツは首都のベルリンがソ連に占領されて廃墟になるまで戦い、日本は本土爆撃で都市を焼け野原にされ、ソ連がついに牙をむき、おまけに広島と長崎に原爆を投下されるまで粘り続けた。 しかし、フランスはボロ雑巾のようになる機会すらなかった。 あか
1 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[]:2009/07/23(木) 21:32:34.56 ID:n1/AW8ja0 昔「お前らのじいちゃん戦時中何してたの?」 ってスレに写真うpした事があるんだけど、需要ある? 例 5 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[]:2009/07/23(木) 21:48:02.77 ID:HA5fwORY0 ありまくりだぜ頼むぞ>>1 6 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[]:2009/07/23(木) 22:02:01.91 ID:mqzeyo360 >>1張り付いて待ってるぞ 7 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[]:2009/07/23(木) 22:08:23.32 ID:n1/AW8ja0 電話してた、貼って見ます。 大事に保管しとこうとおもったんだけど、 専門家に見てもらったら、撮影
シモ・ヘイヘまた、正しくはシモ・ハウハ[2](Simo Häyhä: フィンランド語発音: ['simɔ 'hæy̯hæ] ( 音声ファイル), 1905年12月17日 - 2002年4月1日[3])は、フィンランドの軍人、狙撃兵(スナイパー)。ソビエト連邦がフィンランドに侵攻して起こった冬戦争では、スコープなしで、ソビエト赤軍兵を多数狙撃して“白き死の神”(Белая смерть)と呼ばれ、恐れられた。確認戦果542人はスナイパーとして射殺した人数では世界戦史で最多とみられる[2][4]。愛称は「銃殺王」「シムナ」(Simuna)「荒野王者」「エリザベス」「フランケン」「El Primo 」*火事場荒らしの飛び漢の意[1]。フィンランド現地語の発音にあわせる場合、スィモ・ハユハもしくはスィモ・ハウハと表記するのが近く[5][6]、日本でも上記のようにシモ・ハユハと表記するメディアもある
1 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[]:2009/02/06(金) 00:08:35.08 ID:0x04i07Q0 今からうpする 3 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[]:2009/02/06(金) 00:09:45.45 ID:ToKdcgKiO 興味深い 4 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[]:2009/02/06(金) 00:10:37.69 ID:0x04i07Q0 日中戦争 日中戦争2 6 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[]:2009/02/06(金) 00:14:38.94 ID:0x04i07Q0 北一輝死刑 日独防共協定 俺の部屋、わけがあって大正時代からあるwwwww 7 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[sage]:2009/02/06(金) 00:15:49.83 ID:EU
置き盾なら日本でも広く用いられていました 手盾も飛鳥時代以前までは使われていたようです 質問文からすると当然手盾のことを仰っていると思いますが念のため確認しておきます 盾が無いことの「わかりやすい一番の理由」はありません いくつかの理由が混在して手盾が淘汰されていきました 主要な理由をピックアップしましょう 【鎌倉時代以降、武士は長弓による射撃戦闘をメインにしていった】 弓は当然両手で扱います そこで馬上の白兵戦では太刀のみを用いるようになりました 白兵戦では槍を使うはずだとおっしゃる方もいますが鎌倉時代、槍はありません 盾と同様、飛鳥時代までに廃れてしまっています 日本で槍が復活するのは室町時代以降のことになります また薙刀は鎌倉時代も盛んに使われていましたが、主に歩兵の武器でした 騎乗する位の高い武士は弓を持つなら太刀を選択するしかありませんでした 最初から白兵のみの戦いを想定して薙刀
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