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東京大空襲に関するmk16のブックマーク (4)

  • 言問橋・東京大空襲の痕跡(1945年3月10日) - 東京DEEP案内

    浅草と向島を両岸にひかえる隅田川河畔ホームレスの聖地「隅田公園」、その途中に言問橋という橋が架かっている。関東大震災後の復興事業として昭和初期に建てられ、今でもモダンな外観を保っている。 この言問橋は1945年3月10日に起きた「東京大空襲」の悲惨な出来事を生々しく残す生き証人である。木造家屋が密集する所地域を中心に焼夷弾による絨毯爆撃が行われ一夜にして8万5千人(10万人とも言われる)が命を落としたという激しい空襲だ。 空襲の際、逃げ惑う人々が浅草と向島両岸から「川の向こう岸に逃げれば助かる」と言問橋の上に殺到し、そこに猛火の熱風が襲い、人々は次から次へと隅田川に飛び込み死んでいったと言われる。言問橋の欄干の親柱にはその時の犠牲者の身体の脂が黒ずんたものがそのまま残っていると聞いた。 橋の欄干から水面まで続く親柱を覗き込んでみると、確かに不自然に黒ずんだ部分がずっと続いているのが確認出

    言問橋・東京大空襲の痕跡(1945年3月10日) - 東京DEEP案内
  • 空襲日記 » Blog Archive 空襲日記 | 言問橋

    両国にある江戸東京博物館の裏側、つまり横網町公園側の屋外通路に、古びた手すりのようなものが立っている。注意して見なければ気づかないような存在だが、これは博物館の展示物のひとつで、言問橋にあった欄干とその縁石である。 江戸東京博物館にある言問橋の欄干 次のような説明書きがある。 言問橋の欄干と縁石 言問橋は、1928年(昭和3)に完成した、いわゆる震災復興橋梁のひとつである。1945年(昭和20)3月10日未明の東京大空襲の際、浅草方面から向島方面へ避難しようとする人びとと、その反対側に渡ろうとする人びとが橋上で交叉し、身動きがとれない状態となった。人だけでなく、荷車やリヤカーも通行を妨げた。そこへ火が燃え移り、橋上はたちまち大火炎に包まれた。 橋上では逃げるすべもなく、多くの市民が焼死した。 1992年(平成4)の言問橋の改修工事にあたって、当時の欄干と縁石が撤去されることとなったため、東

  • 「初代ゴジラの襲撃ルートと東京大空襲におけるB-29の爆撃ルートは同じ」はガセ

    加野瀬未友 @kanose 初代ゴジラの襲撃コースが東京大空襲のB29と同じという話、これ間違っていると聞いた記憶があるんだけど、明確に説明しているサイトなどがこれしか見つからない detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_de… 元々この話は『文藝別冊 円谷英二』で木原浩勝氏が書いたというのはわかっているんだけど 2017-11-13 03:05:05 ※注…木原浩勝氏は『文藝別冊 円谷英二』において、「初代ゴジラの描写は東京大空襲をイメージしたものだろう」と書いているが、B-29のルートと重なっているという話はしていない

    「初代ゴジラの襲撃ルートと東京大空襲におけるB-29の爆撃ルートは同じ」はガセ
  • 東京大空襲から71年 慰霊堂の犠牲者名簿に誤り NHKニュース

    およそ10万人が犠牲となった東京大空襲から9日で71年となりますが、犠牲者の遺骨が納められている東京都の慰霊堂で身元の確認に使われている名簿に誤りがあることが分かりました。これまで調べただけで、4人に1人の割合で名前に間違いがある可能性があるということで、専門家は「名簿の名前が違っていたために、遺骨を引き取れなかった遺族に、今後は返還できるようになるのではないか」と話しています。 こうしたなか、遺族からの問い合わせを受けて「東京大空襲・戦災資料センター」が、慰霊堂の名簿とそれ以前に作成された古い名簿と突き合わせたり、遺族への聞き取り調査をしたりするなど調査を進めた結果、慰霊堂の名簿の一部に誤りがあることが分かりました。 古い名簿は、遺体が火葬された際の昭和26年ごろに作成され、慰霊堂が使用している名簿は、何度か書き写されたうえで昭和47年に作成されたもので、戦災資料センターが、これまで調べ

    東京大空襲から71年 慰霊堂の犠牲者名簿に誤り NHKニュース
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