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思想に関するnamawakariのブックマーク (225)

  • 「リバタリアニズム」概念について - shinichiroinaba's blog

    リベラリズム理論の文脈においては、前章で見たようなひ弱な/他律的リベラリズム、あるいはその法的・政策的側面を重視する保守的自由主義の場合には、安定性の方が重視されます。人間を取り巻く環境は多層的であるわけですが、保守的自由主義者は人を取り巻く人工環境、そして社会的制度・慣行に対しても、どちらかと言えば安定的であること、固定していること――「伝統」が確立していること――を求めます。それに対して、政治的側面を重視する逞しき/自律的リベラリズムの場合には、社会的制度・慣行のレベルでは安定性よりも可塑性を重視します。社会的な制度、慣行、ヒューム流に言えば「コンヴェンション」は、短期的には、また個人にとって、つまりミクロ的には安定して不変でなければならないが、長期的、多くの人々を含む社会のレベルでは、つまりマクロ的には可変的でなければならない、と考えます。ちなみにいわゆるリバタリアニズムの特徴は、伝

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  • 欧米人の眼、中国人の精神 - 梶ピエールのブログ

    少し前に、世界ウイグル会議のラビア・カーディル議長のドキュメンタリーの上映に抗議して、メルボルン国際映画祭に招待されていた賈樟柯(ジャ・ジャンクー)ら数名の中国映画監督が出席を拒否する事件があった。 http://dianying.at.webry.info/200908/article_1.htmlより。 東京国際映画祭でも過去に似たようなことがあった。 あの時はブラッド・ピット主演の「セブン・イヤーズ・イン・チベット」が オープニング上映されるのを知った中国代表団が抗議してきて、 結局来なくなったのだ。 代表団というのは中国の電影局が団を組んででやってくるものなので 一緒に来る予定だった監督や俳優にはどうしようもない。 だけど、確か作品上映自体はされたのではなかったかと思う。 でも、今回は作品上映の撤退だというからひどい。 それも電影局がそう言って来たのではなく 監督自身の意思らしい

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  • 読書 - tamuraの日々の雑感

    『高畠通敏集2 政治の発見』の中の、「管理民主主義の政治構造」(初出:1978年)と、「一国社会主義者――急進的知識人の転向の原型」(初出:1959年)を読む。 高畠通敏集〈2〉政治の発見 作者: 高畠通敏,栗原彬,五十嵐暁郎出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 2009/07/07メディア: 単行 クリック: 2回この商品を含むブログ (2件) を見る前にも書いたと思うが、高畠氏の文体は、以前に思っていた以上にクリアカットかつ平易であり、大変素晴らしいことだと思う。 「管理民主主義の政治構造」を読んで、あらためて思ったのは、確かに70年代に管理社会論が唱えられたことには理由があったのだろうけれども、でも、まだ「ゆるさ」のようなものがあったのではないかな、ということだ。今と比べたら、管理からもれそうなところがたくさんあったんじゃないかなと思ってしまう。 でも、気管理社会が同時に「組織社会

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  • フーコーと三つのリベラリズム? - shinichiroinaba's blog

    http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20090519/p2を承けて。 『生政治の誕生』でフーコーは、新自由主義を単なるスミス的な古典的自由主義の回帰ではない、と明言している。 アダム・スミス、マルクス、ソルジェニーツィン。自由放任、商業とスペクタクルの社会、強制収容所とグラーグの世界。おおざっぱに言って以上が、新自由主義の問題を扱う際に通常用いられる分析と批判の三つの母型です。(中略)私がみなさんに示したいと思うこと、それは、新自由主義はやはりそれとは別の何かであるということです。(162頁) 今日ではすっかり忘れられつつあるフライブルク学派の経済学・経済法学、旧西ドイツのオルドリベラリスムス、「社会的市場経済」を標榜する経済政策思想と、今日なお「新自由主義」の典型とみなされるシカゴ学派の経済学とをともに「新自由主義」とフーコーが呼ぶ理由は、単にその

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  • ララビアータ:鹿島茂『吉本隆明1968』 - livedoor Blog(ブログ)

    私は吉氏の良き読者とは言えない。何度か読もうとしたことはあったが、理解できたと思えるまでには至らなかった。友人知人たちの中には、吉氏を称賛する者たちも少なくなかったが、彼らから説得的と思える吉弁護論を聞くことはできなかった。おそらく吉氏のような在野の独創的思索者の場合、その理解には固有の難しさがある。その諸説を何らかの普遍的枠組みに位置づけるには、独自の翻訳が必要になるからである。ここで「在野」というのは、既成のアカデミックな組織に身を置かないという意味ではなく、通常のアカデミックなディシプリンを身に着けずに思索を続けるという意味である。この意味では、例えば長谷川宏氏などは「在野」ではない。大物では、スピノザなどは在野の典型かもしれない。 また、吉氏の思想を紹介することが難しいのは、それが読者自身の思索的拠点を問い返すことを要求するために、各個人ごとに吉氏との出合い方が個人的な

    namawakari
    namawakari 2009/06/06
    あとでもう一回。
  • 忌野清志郎と「公共性」に関する試論 - 梶ピエールのブログ

    批評家の吉隆明は、1980年代から忌野清志郎をしなやかな感性を持ったアーチストとして高く評価をしていたが、1988年に発売されたRCサクセションの反原発ソング「サマータイム・ブルース」(アルバム『COVERS』に収録)の歌詞を、個人発行していた雑誌『試行』誌上で紹介し、「聞きしにまさるハレンチな歌詞」であるとして厳しく批判した。 ここで、吉の反原発批判の是非はひとまず置いておき、なぜ、吉隆明は忌野の反原発ソングをこき下ろしたのか、を考えてみたい。このことにこだわることは、むしろ忌野の偉大さ、およびそのパフォーマンスが持つ意味を、改めて浮き彫りにすることになるはずだからである。 まず最初に、社会学などでよく使われるらしい、「生活世界」と「システム」という二分法が便利なので、これを援用して論じてみよう。 忌野清志郎は、初期のころから一方で「システムの介在なしに魂が直接触れあえる世界」を高

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    namawakari
    namawakari 2009/05/19
    出来れば読み直したい。
  • 丸山真男が「昔のサヨの教祖」だったって? - 遠方からの手紙(別館)

    http://pc11.2ch.net/test/read.cgi/net/1241019914/553 553 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2009/05/16(土) 09:36:04 id:P85aKpOW0 >>551 >「日には市民革命が起こらなかったからフンダララ」 典型的な「反証不可能な議論」だよな。 そもそも、アメリカの独立戦争は「市民革命」で日の明治維新はそうでないってんだから、 最初から基準が恣意的きわまりないわけで。 要は、何が何でも日はダメだとか言いたいumetenみたいな奴の後付けの理屈。 昔のサヨの教祖だった丸山真男とかって所詮その程度でしょ。上野千鶴子と一緒で、 一般向けにはそういう俗耳に入りやすいけど根拠薄弱なことを断定的に言うみたいな。 ヨニウム先生なんかはやっぱりその辺を忠実に見習ったんだろうねw 丸山真男は、かつて共産党系などの理論

    丸山真男が「昔のサヨの教祖」だったって? - 遠方からの手紙(別館)
    namawakari
    namawakari 2009/05/17
    “そもそも「昔のサヨの教祖」とかいうのなら、丸山よりもむしろ吉本のほうがはるかに相応しい”でしょうね。/議論の中身よりも、憲法を評価すればサヨク、平和を訴えればサヨク、ってなノリなんだろう。
  • 生きる理論と持続可能な理論 - 備忘録

    ※追記を追加しました。(05/17/09, 05/18/09) たまたま最近、手にしたからの引用: マルチチュードとは内在性の概念であり、多数者が個別性の総体であるということである。このことを確認し、出発点とするならば、「人民」という概念がその超越性を失ってしまった後に残っている現実の存在論的規定の輪郭を描くことができるであろう。 ・・・・・・・・・・ プラトンからホッブス、ヘーゲルにいたる哲学はにおいては(ママ)馴染みの弁証法的発展による超越がなければ、多数の統一は生じえず、その概念はメタファーに過ぎないので、マルチチュードという概念は質的に有効ではない、というような異議はわれわれも理解できるし、またそのような異議には事欠かかない(ママ)。しかし、マルチチュードの概念、つまり弁証法的止揚による代表化を拒否するような多様性であればあるほど、個別的で主体的であろうとする要求は強まるであろ

    生きる理論と持続可能な理論 - 備忘録
    namawakari
    namawakari 2009/05/15
    “この生きる理論の問題点をあげるならば、アド・ホックなところであり、歴史の風雪に耐えきれるものとはなり得ないのではないか、という点が上げられます”
  • チンパンジーの命は障害者の命より重いと唱えた学者がいる。 - Something Orange

    たまに自分の日記の過去ログを読んでみると、おもしろい。「何でこんなこと書いたんだろう」と首をひねる記事もある一方、興味深い記事も見つかる。そのひとつが「動物の権利怖いよ、動物の権利」。 「動物の権利(アニマル・ライツ)」を掲げるある団体のQ&Aを取り上げているのだが、これ、実はぼくの意図が全く伝わらずに終わってしまった記事なのだった。 ぼくとしては「動物の権利」そのものを攻撃するつもりはなく、ただこの団体の主張だけがおかしい、というつもりだったのだが、「動物の権利」を全否定する言辞として受け取られたようなのだ。 そして、「動物の権利」なんて妙なアイディアを振りまわす団体がいるぞ、というレベルで話は終わってしまった。しかし、実はもっとはるかに深く複雑な問題を抱える話なのである。 一方、古い記事なのでタイトルは付いていないが、「こげんた」という虐待の末、殺害された子について書いた記事もある。

    チンパンジーの命は障害者の命より重いと唱えた学者がいる。 - Something Orange
    namawakari
    namawakari 2009/04/02
    シンガーは「平等の原理」を根拠に人種差別を批判するならば、種差別も批判されなければならないし、動物の権利も認められなければならないといったのであって、誰かの権利を優先させると述べたのではないと思う。
  • 「政治」を「する」ことと「政治」で「ある」こと - 過ぎ去ろうとしない過去

    東浩紀のカール・シュミット読解は誤読が多いとずっと思っていた。 例によって速記者が正しければだが、 http://d.hatena.ne.jp/nitar/20081205/p1 カール・シュミット『政治的なものの概念』を何回か取り上げた 何を言っているか 政治は友と敵を分けることだ 友と敵を分けることが政治 誰かが自分の存在を抹殺するかもしれないから相手を抹殺 精神的な意味でも隠喩でもない 「政治は友と敵を分けることだ」とはシュミットは言っていない。 政治的なものは、特有の意味で、政治的な行動がすべてそこに帰着しうるような、それに固有の究極的な区別のなかに求められなければいけない。 (『政治的なものの概念』p14) カール・シュミットにとって「政治」とは、「道徳」や「経済」とははっきりと分けられなければいけない、「友」と「敵」の区別において見出されるものなのである。それは具体的・存在論的

    「政治」を「する」ことと「政治」で「ある」こと - 過ぎ去ろうとしない過去
  • 私は鈍感さを肯定しない - キリンが逆立ちしたピアス(ブログ版)

    id:mojimojiさんが、私が先に引用した西堂行人のピンター評を批判している。 mojimoji「政治的直接性からの逃走」 http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20090130/p1 西堂さんは、ピンターの直接的でない政治的意見の表明を評価する。 ここでも「何も起こりはしなかった」が繰り返されている。ピンターの対応は絶妙である。決して感情的にならず、あくまで劇の対話のように、ユーモアとアイロニーを手放さない。それがために、かえってBBCの愚挙が鮮明になってくるのだ。あくまで「表現」を通しているから、その研ぎ澄まされた言葉は読者のなかに通り一遍でない感情を巻きおこす。 (http://booklog.kinokuniya.co.jp/nisidou/archives/2007/05/post_22.html) しかし、これは(良く読んでみればわかるが)西堂さんは

    namawakari
    namawakari 2009/01/30
    本文とは関係ないが、くだらない揶揄の無い生産性のある議論のやり取りは素晴らしいなあ。
  • 子どもに左翼になってほしいと願うこと - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」

    2009年最初のエントリーは、心に残っている言葉を紹介したいと思います。発言者は、アメリカの哲学者リチャード・ローティです。どんどんナショナリストになりつつあるローティの書いていることには批判的になることが多いのですが、つぎの言葉は腑に落ちます。 デスクの前に座ってキーボードをたたいているわれわれが、手をよごしてトイレを掃除してくれる人びとの十倍、われわれが使っているキーボードを組み立てている第三世界の人びとの百倍の報酬をもらっているというのは耐えきれないと思うように、わたしたちの子供を育てるべきである。最初に産業化した国々が、まだしていない国々の百倍の富を有しているという事実について、子供たちが確実に憂慮するようにすべきである。子供たちは、自分たちの運命と他の子供たちの運命との不平等を、神の意志だとか、経済効率のために必要な代価とかでなく、避けることのできる悲劇だと見ることを早くから学ぶ

    子どもに左翼になってほしいと願うこと - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」
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    namawakari 2009/01/16
    同意するにしろ反発するにしろ議論が大事。シニシズムが最悪なのは共通認識に辿りつくための土台を破壊するから。
  • 合法性が正当性を虐殺するとき

    サービス終了のお知らせ いつもYahoo! JAPANのサービスをご利用いただき誠にありがとうございます。 お客様がアクセスされたサービスは日までにサービスを終了いたしました。 今後ともYahoo! JAPANのサービスをご愛顧くださいますよう、よろしくお願いいたします。

  • 旅する読書日記 野生の思考、悲しき熱帯

    野生の思考 大橋 保夫 みすず書房 1976-01-01 売り上げランキング : 54935 Amazonで詳しく見る by G-Tools  明学の大学院にはM1対象の「基礎演習」という授業があり、今年は春秋とも僕が担当している。基的には古典、準古典の著作をかいつまんで輪読するというスタイルがほぼ確立している。この秋は、春から持ち越したフロイトを少しやってから、クロード・レヴィ=ストロース『野生の思考』からいくつかの章を読んだ。大著『親族の基構造』と『神話論理』とをつなぐ著作で、神話分析への一里塚。ほんとうは通読して初めて面白みと凄みがわかるのなのだが、時間の枠があるので仕方がない。含蓄の深い時間論が展開される最終章「再び見出された時」まではたどり着けなかった。  『野生の思考』には、『親族の基構造』のような緻密さ、スマートさはない。それは大部分が対象のちがい(親族構造と神話)か

    namawakari
    namawakari 2008/12/21
    「20世紀最高の名著というよりは、19世紀最後の名著という趣がある」
  • フランスからの手紙―ある哲学研究者の東浩紀批判 - toremokoの日記

    フランスに留学中のサルトル研究者に東の劣化がひどいよと話してみたところ、メールが届いたので転載する。東批判は一通りなされた感があり、また、先日の常野さんの活躍によって東の小物振りが明らかになって、東の言説自体を取り上げることも少なくなってきていると思うけれど、サルトル研究者からみた東及び「ポストモダン」というのはこれで面白いと思う。 最初に断っておきたいが、知っての通り日語文献が揃えにくい状況にあるので、どっかのから引用する場合は、邦訳が存在する場合でも原書から俺が直接訳している。そのため、細心の注意は払うが、特にデリダのついては誤訳の可能性を否定しきれない。いずれにせよ、翻訳の責任は完全に俺に帰する。 東の発言について参照したブログの類は、お前から教えてもらったものがほとんど。 以下の通り。 http://d.hatena.ne.jp/toled/20081128 http://wa

    フランスからの手紙―ある哲学研究者の東浩紀批判 - toremokoの日記
    namawakari
    namawakari 2008/12/19
    デリダよりサルトルに興味出てきた。しかし『図サル』が中古でも二千円越えだと…
  • http://angel.ap.teacup.com/unspiritualized/226.html

    namawakari
    namawakari 2008/12/18
    確かにこの竹内の小論は名作。/竹内とか丸山とか、批判すべき点は山ほどあるけど、まだ喰える所もあるからもっと読まれていいのに。
  • リアルのゆくえしれず - キリンが逆立ちしたピアス(ブログ版)

    東さんの歴史認識について、ネット上で論争が起きていたらしい。*1そして、以下で、東さんが補足として歴史認識について書いている。 東浩紀「歴史認識問題についていくつか」『渦状言論』 私は「4.付録」を読んで「あー、そうなんや」と思ったのだけれど、ブックマークを見ている限り、多くの人は反感を持ったらしい。 http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.hirokiazuma.com/archives/000465.html 私はかねてから東さんの発言について、「なんで南京大虐殺?」という疑問があったので、とりあえずその謎が解けて良かった。話の内容自体、当時の熱意ある若者*2だった人の証言として面白かったし、もう少し聞きたい感じだ。 あとの東さんの「どんな醜悪な意見であっても耳を傾けろ」は原理論としては理解できる。やっぱり、南京大虐殺がなかったと断言するひとであっ

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    namawakari 2008/12/09
    なんだろう、この噛み合わなさは。
  • ポストモダン・リヴィジョニズムと虐殺否定論 - 地を這う難破船

    以下、きわめて単純化された整理と厳にお断り。 今更言うまでもなく、リヴィジョニズムとホロコースト否定論は区別さるべきもの。以前も書いたけれど、リヴィジョニズムすなわち歴史修正主義あるいは「歴史の見直し」とは、史学的なメイン・ストリームに対する異議申立としてこの数十年来繰り広げられてきた知的営為であり、それはヨーロッパに発する近代批判の運動と期を一にしていた。 問題は、そうしたポストモダン・リヴィジョニズムが史学的なメイン・ストリームを超えて史学的立場それ自体を無限に相対化するものとして機能してしまったことにある。むろん、68年以降の近代批判の過程において史学的立場それ自体が相対化されることは悪いことではなかったし、そもそも歴史の必然であったろう、ヘーゲル的に言うなら(笑)。しかし史学的立場それ自体が無限に相対化されたとき、史学的なメイン・ストリームに対する異議申立はメイン・ストリームを超え

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  • デリダは何と言っているのか - HODGE'S PARROT

    『生きることを学ぶ、終に』で、ノエル・マメール市長による同性婚容認を「ためらわずに署名によって支持した」デリダが、同書でホロコースト否定論について何といっているか記しておきたい。 ジャン・ビルンバウム──この観点から(大学の無条件的自由に対する絶対的な要求)、ガス室の存在とショアーの現実性を否定する否定論者たちのケースをどのように考えるべきでしょう? ジャック・デリダ──あらゆる問いを提出する権利はあります。その上で、問いに応答する仕方が偽造や明らかに事実に反する断言を言い募ることであるなら、その挙措がもはやまっとうな知や批判的思考に属さないものであるなら、その場合には事情は違ってきます。それは能力欠如あるいは正当化されない道具化であって、その場合には制裁を受けることになります。出来ない生徒が制裁を課されるように。教授資格を持っているからといって、大学で何を言ってもよいということにはなりま

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